MANA事典

〈MANAによる日常めぐってきた雑学的思いつきメモを、昔のメモカードを捨てるかわりに五十音順に並べたり、本を読んでいたり、ふと思いついたことどもを書きつけたものですからホカの人には、あんまりおもしろくないですよ!ちゃんとした検証するときのためのメモのため、はずかしい誤り、カン違いも多多あるはず。悪しからず。〉

 

 凡例  原典より原文引用の場合は、原則旧字は新字体に、適宜句読点(。、)を加えた他は原文どおり。原文中に付されたルビは、氷室(ひむろ)のように(***)にくくり小字で記した。漢文の場合は、可能な限り読み下し文に直した。原典のまま引用の場合は、返り点を()()()の下付き文字を使用した。送り仮名は上付き文字でしめした。パソコン表示の出来ない字体については、その字の位置に(*)を記し、センテンスのあとに[*=魚ヘン+歳ツクリ=このしろ]と示した。

 原典にある巻・丁・頁の区切りは/で示し、「本朝食鑑三/六〇」は、本朝食鑑の第3巻60丁であることをさす。

 なお、頁の文字が多くなりすぎたので、目次から入れる「MANA辞典Part2」を設けた。

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真名真魚字典

読書ノート―under construction

 

あきあきなうあゆうたいしいしがんとういしやきいもいちいっしゅいちへいいわしうりうおじづくしおいしいおうらいもの|(ちかまつと )おかもといっぽうおきうとおきゅうとおさんかきごおりかじかつお カレーかんきょうきさごぎょそんけいこおりこおりもちこころぶとごまめしゅがいじょうしょうのじゅうせきがんていたにしのうたたんじちまたちひろなわとうげとうじところところてんところてんじさつのうさばはやりしょうがつはらかひのためしひむろひゃっこいひやみずうりぶっかけほかほかほこほこほっこりまちみずうりめぐりもどきやきいもゆきあそびゆきうちゆきがっせんよめがさららすくわかみず


あ―A

【あき】あきなう(商う)・あきびと(商人)のアキは、実り・収穫する「秋=あき」に由来するという。この考証をすすめると、ものの交換をする人々がどのように生まれたか、イチ=マチの形成から、ものや技術を売り歩く人々の姿が見えてくるようなきがする。物売り声論の試み。関連語→アユウタ、イワシ売り、心太売り等。

【鮎歌】【鮎唄】あゆうた、アユ歌 旧暦5月過ぎると多摩川(玉川)は、アユがとれはじめる。日野周辺が名産地で有名であり、下流の現在の二子玉川園あたりまで川沿いに料亭がたちならび昭和のはじめ頃まで賑わった。また、アユの市場が四谷大木戸にあり、江戸市中でアユを食べるというのは、新宿がいちばんだった。多摩川のほか、相模川産のアユも厚木街道(大山道)や、八王子経由甲州街道で市場扱いの始まる早朝に間に合わせるように夜を徹して運んだという。おそらく馬の背にのせて運ぶか、自ら背にかついで運ぶのだが、真っ暗な街道を狐に化かされる恐れから逃れるために、また自らの位置を知らせながら歩いたということもあって、よくとおる声で歌い続けたのが「鮎歌」だった。

 

  『三田村鳶魚 江戸生活事典』に、「大宗寺と鮎歌」の項がある。

 いちばん新宿の盛んであったのはやっぱり文化文政のころであって、大宗寺の山開きといえば江戸中で知らぬ者もなかった。あの名高い閻魔の賽の日、正月と7月とに後園を開放する。それが山開きなのである。[中略]夏の暑さもここでは忘れてしまったという。従って正月よりも7月の山開きに人手が多く、随分群集したというが、それよりも、新宿の名物は鮎歌であったのだ。「六樹園飯盛」(りくじゅえんめしもり)の文にも「若鮎の荷に小うたぶしもおかし」といったが、陰暦の四、五月になると玉川で鮎がとれ出す。とれた鮎をかついで夜通し四谷に来る。あたかも新宿へ着くのが払暁なのだ。「甲駅夜の錦」(洒落本)に「あけはやく魚の市場(大木戸にあった)へいそぎ行く、若鮎荷なううたの声、あゆはナァ引あゆは瀬にすむ、鳥ヤア引木にとまる、人はなさけの下にすむ」とある。この唄は古いもので、天和の頃にはやったものだ。無論文句はこれに限ったのではない。途中で狐に憑かれないためだといって、鮎の荷をかついだ人夫は夜通し唄い続けて来たものだ。

  江戸川柳に、

秋の四谷を鮎唄のさびた声 (柳多留158篇)

  がある(浜田義一郎『江戸たべもの歳時記』中公文庫71頁)。

 

 鮎歌については、江戸・東京への鮎の輸送ルートについて、厚木の郷土史家飯田孝氏の詳細な文章が「多摩のあゆみ」110号に掲載されていて、鮎歌についてもふれている。

 

参考・あゆこい(アユ売り人の呼び声)

 

い―I

【いし】(美し)→【おいしい】 良い、好ましい、見事である、から「味が良い」意味をあらわす形容詞。「いしし」と「いし」を繰り返してつかった女房ことばがあり、意味は「団子」のこと。

【いしがんとう】【いしかんとう】【せきかんとう】(石敢当・石敢當) 街をブラリと歩いていて、住宅街の十字路の家のカドに塀をわざわざ凹ませて、剏`状の空き地をつくり、その角に30センチあまりの石塔、あるいは自然石を設置している風景に出会うことがある。「この石はなんだろう?」「この三角形の空きスペースになにか意味があるのだろうか?」という疑問をかねがね抱いてきた。

    味探検で川崎を訪ねたとき、川崎駅前の植え込みに建つ「石敢當」と刻まれたモニュメントの由来記にふれて、西日本から沖縄に主として伝わる石神信仰につながる「邪悪防護」「魔除け」「災厄除け」の意味があるそうだ。柳田國男の平凡社版大百科事典に書いた「セキカントウ(石敢當)」の項目(定本柳田國男集第26巻416頁)が判りやすいので引用しておこう。

 セキカントー(石敢當) 道の辻の突き當りに立てる石の碑で、石敢當の三字を刻し、或は泰山敢當の四字を刻せるもある。多くは高さ一二尺の石であるが、稀には四尺にも及ぶものもある。邪悪防護の意があるといはれ、一種の石神信仰である。「好古小録」には肥後、橘南谿の「西遊記」には鹿児島城下の例が挙げてあって、木標に墨にて文字を書きたるもあるといふ。
 主として西部日本に限られた風習となってゐるが、東京にもあり、本郷区湯島金助町には文字に朱を塗ったものがあった(郷土研究三巻三六七頁)。その他大久保にも実見せる例があるから、この風習の東漸を思ふものがあり、地域的限界を定めることは出来ぬ。石敢當の由来については「桂林漫録」に「[前略]智遠道力士石敢當、[中略]故後人凡橋路衝要之処、必以石刻其形、書其姓字、以棹民居、或贈以詩、[中略]見尽英雄来往人」とあるに端を発してゐて、支那の風俗の移れるものとするのがこれまでの定説となってゐて、「シッカッタン」「イシガンドウ」等の名もある。沖縄の島々には殊に多いが、中にはただの石で石敢當の文字を刻せぬものもあり、殊に八重山島には、この石によって晴雨を占ふ風習も残ってゐる。殊に沖縄一帯に亙つてビジュルといふ内地の重軽様[おもかるさま]、即ち石占の石との混淆がある。これから推論すると、純然たる支那風俗の移入説に疑を挿むものがあり、日本固有の石神信仰に、支那の風俗の融合せるものと見られ、石敢當の文字は新しく、石そのものの信仰は古かったことが考へられる。この説は「海南小記」〔MANA註:定本第1巻261〜263頁「海南小記 二四はかりいし」〕にも詳論してある。

○柳田定本索引では、以上の他、第30巻425頁「石敢當」の記述がある。

   三角コーナーに立てられた石に秘められている意味には、単なる魔除けのような意味意外にも、いくつかの理由があるような気がする。もともとこの三角地には、庚申塔や地蔵のようなものが立てられていて、代々土地所有主が変わったあとも、三角地へのオソレのようなものが伝わり、石にケガレを払う意味を込めておいたのかもしれない。もしかしたら、その三角地の所有は、そのまちの複数の共有あるいは総有の土地であるのかもしれない。世田谷の松原商店街(大山道)周辺をあるいて1ヶ所駐車場脇に「石敢當」と書かれた石を見つけている。

  

東海道―川ア宿と沖縄料理その2
石敢當(いしがんとう)物語

  ○石敢当については、次ぎの「京都の石碑」と題するホームページが参考になる。一度ゆっくりと勉強することにしよう。

http://member.nifty.ne.jp/so_you/

  ○同ページに紹介されていた小玉正任・著『石敢當』(琉球新報社、1999年6月刊、B6判345頁)に、石敢当についての由来、考証が掲載されているという。さっそく購入すべし。

 

【いしやきいも】(石焼芋)→ほっこり

【いち】(市)、いちば(市場)→まち

【いっしゅいっぺい】(一種一瓶) 料理を一品、お酒を一本づつもちよりの簡単な酒宴のこと。「宴会」の起源。広辞苑に「各自が一種の肴と一瓶の酒とを持ち寄って宴会すること。簡単な酒宴の用意。平家(物語)、(巻)十一(逆櫓)〈おのおの――して祝ひ給へ〉」とある。庭訓往来の中に記された魚字を読むために、新日本古典文学大系52『庭訓往来 句双子』に目を通していたら、付録の月報69の巻頭に、「一種一瓶」(大島建彦)の小論が載っていた。中世武家の饗宴の趣向としてあったこと自体が、日本の食文化の宴会のかたち、あるいは野立てやアウトドアの花見などの原型を考えるうえでとっても興味ある言葉として気を引いた。武家の持ち寄り料理による酒宴は、江戸時代になると庶民にも広がっていくことは想像に難くないが、この点について、著者の大島氏は、この文章のなかで次のようにふれている。

――ところで、中世武家の「一種一瓶」のかたちは、古代の公家の「一種物」からうけ継がれただけではなく、近世以降の庶民の宴席にももち伝えられていた。各地の民俗の調査によると、お日待ちやおこもりなどのような、ハレの日の集まりのなかには、村々の親しい仲間どうしで、めいめい何か物を持ちよって、いっしょに飲み食いしあうことはすくなくなかった。福島県の南会津の一山村では、念仏講などの信仰上の講のほかに、寄りあい講や出しあい講といって、物を出しあっていっしょに食べるならわしが伝えられている。千葉県の安房の一農村では、正月のオビシャの酒宴にあたって、やはりテンデンザカナなどと称して、めいめいナマスなどを持ちよることがおこなわれていた。千葉県や長野県などでヒヤリといい、大分県や宮崎県などでヒカリというのも、やはり持ちよりや出しあいの飲食をさしていたとみられる。また、新潟県から福井県にかけて、カクセツなどと称する若者の会食も、本来は「各出」の意義をもつものと説かれているが、実際には酒食の持ちよりよりも、金銭の出しあいの方に傾いているのである。いずれにしても、日本の本土の範囲では、「一種物」とか「一種一瓶」とかいうことばは忘れさられていたといえよう。
 それに対して、鹿児島県の奄美の諸島では、今日まで「一重一瓶」と称して、生産や労働の折り目ととに、村内の各戸から一名ずつ、おのおの酒肴をととのえて集まり、ともに酒宴を開くならわしが知られている。たとえば、『西郊民俗』第二十九・三十合併号には、瀬川清子氏の「一重一瓶」が掲げられており、徳之島の天城村山の事例が示されているが、それによると、老人の年祝いなどに集まる客は、めいめい肴一重に酒一瓶を持ちよって、それらの品を同席の者に配りあったということである。『日本民俗学大系』第十二巻における、蒲生正男氏の「奄美 社会」では、この「一重一瓶」の性格にふれて、「休養を兼ねて最大の娯楽であるシマの宴会が、特定の会費や部落経費でまかなわれるのではなく、また有力者の寄付に頼るものでもない。個々人の自由と責任のもとで行われるものであり、土地所有における平均的細分化、労働組織の自主的形成として特色づけられる奄美の生産と労働の社会的性格を象徴するものこそ、この『一重一瓶』である」と論ぜられている。しかも、そのような共同飲食に関するならわしが、古来の「一種一瓶」と通ずることばであらわされていたのは注目される。――
新日本古典文学大系月報69(1996年5月 第52巻付録)、岩波書店。「一種一瓶」大島建彦著より。

   平家物語の引用中の一種一瓶は、「祝いの酒宴の用意とみせかけて、舟に武具や兵粮を積みこもうとするものであった」(同文)という策略的な物騒な意味をも含むらしいが、庶民の講の場は、ときに一揆の密談場となったりすることを考えれば、一種一瓶によって開催される集会が、無礼講的な平等な立場の人々の集まりであったということもいえるのではなかろうか。「一品持ちよりのホームパーティー」ということばが、最近でも使われていることを考えても、宴会の起源としてメモにしておいた。(2004年9月13日)

 

【いわしうり】鰯売りの売り声“いわしこい”について。三島由紀夫作「鰯売恋曳網」(いわしうりこいのひきあみ)という歌舞伎に登場する鰯売りの呼び声「いわしこーい」の言葉の由来を考えてみた。「売る」と「買う」という、商取引においては一見異なる用語と思える言葉の起源をたどると、市場(イチ)や商人・立ち売り人の発生にまでさかのぼることとなり、売る行為と買う行為がほぼ一体化したことばとして使われる「買う」に辿りつく。買う=売る、そのことばの使い方の妙を、鰯売りの売り声から考えてみた。

 

「イワシコーイ」の歌舞伎(鰯売恋曳網)について[もの売り声〕試論

 

【うおじづくし】魚字尽

 

お―O

【おいしい】料理や食材の味がよいときの表現が「おいしい」。漢字で書くと「美味しい」だが、「美味」の形容詞化したようなことばだが、「美味」+「しい」の表記は、いつから使われたのかわからないが、当て字。良い、好ましいの意味かで、見事で、たくみであることの「いし」(美し)に、丁寧の意をあらわす接頭語「御」→「お」をつけて「おいしい」とした、美味である、うまいを意味する用語。

【おうらいもの】往来物:中古(平安時代後記)、中世・近世から近代(明治前期ごろ)にわたって、初等教科書として使われた文書・書籍の総称。

【おかもといっぽう】岡本一抱→近松門左衛門と岡本一抱

【おきうと】おきゅーと】→ところてん

【おさん】【おさんどん】 御爨。「(江戸語)めしたき女。女中。下女。」(広辞苑)。わがまま亭主に主婦が料理を作ることを「おさんどんする」というが、いまや「おさんどん亭主」ということばもありやなしや。真名真魚字典18画参照

 


か―KA

【かきごおり】かき氷ひむろ・氷室

【かじ】譌字・蝦(虫→言)字 「譌」は訓めば「なまり」であり、音はカ。「@いつわる。うそをつく。いつわり・うそ。Aあやまる。あやまり。Bなまる。なまり。ことばの正しくない発音。Cうわさ・流言。」(【漢語林】)。池田証寿氏の「諸橋大漢和辞典の譌字」の「譌字とは何か」とても勉強になる。

【かつお】鰹 「カツオの塩たたき」―2004年8月末高知県宿毛に近い柏島に取材に出かけた折、電車待ちの時間ができたので、高知市中を散歩した。県庁の方角へ繁華街や裏通りの賑やかそうな場所を、臭覚をつかって歩いていくと、「ひろめ市場」という食堂街のようなビルの方角に人が流れていく。はいると、小さな個性的な居酒屋や食堂がずらりとマルマル横丁の名前に沿って並び、店の外のベンチに座って客たちがひたすらしゃべりひたすら食い飲んでいる。横丁の名前は、入り口側から「はいから横丁」「自由広場」「乙女小路」「ぎっちり日曜市」「いごっそう横丁」「竜馬通り」「お城下広場」とあり、約60店が大集結。竜馬通りの1点にひとはいる。「やいろ亭」とあり、看板に「名物カツオの塩たたき」とかかれてある。こいつは入らずばなるまいと、カウンターにすわり、ビールを注文してそのものを注文する。すると、目の前で、なんと、やおらワラを取り出し、使い古したこきたない一斗カンにくべ、バーっともやし、カツオをあぶるではないか。こんなていねいなたたきにしてくれるんだと感激してしまう。大きめに切りそろえられ、カボスだか、スダチだか、たしか高知特産のほうだが、それをしぼってかけるだけ、あとは振り塩してある、塩味だけで食べる。こいつが美味いこと。これは偶然入った店といっても、おおあたりである。帰りにも寄って写真をとりたかったのでが、台風の後で、家で心配しているといけないので、高知空港に直行してしまったので、詳しい話を聞けずじまいであった。2004年中の美味いものベストファイブには必ず入るスグレモノであった。

カレー(ライス)】(国会図書館第129回常設展示・平成16年1月〜2月「暮らしを変えた新製品」配布資料より)……カレーのルーツははっきりしませんが、釈迦がその命名者であるという説もあります。日本人は平均して月3回は食べている、という統計もあるように、今や日本人の食生活になくてはならないカレー。インドで生まれたカレーは、どのように日本にもたらされたのでしょうか。
日本にカレーがやってくる前
1 増訂華英通語(福沢諭吉全集 第1巻)慶応義塾編2版 岩波書店1969 <US21-7>
 万延元年(1860)に福沢諭吉(1834-1901)が渡米した際、『華英通語』という、英語と中国語の辞書を購入しました。帰国後、これに訳語と英語の発音を付して出版したのが本書ですが、この中に“Cury”が紹介されています。――国立国会図書館不一ムベージ「近代デジタルライブラリー」で、『華英通語』全頁の画像あり(『福沢全集』巻1[時事新報社明31<YDM102528>]より)。
2 山川老先生六十年前外遊の思出 山川健次郎述 武蔵高等学校校友会 <1931377.6-Y289r>
 記録に残る限り、日本人で最初にカレーライスを食べたのは、明治期の物理学者、山川健次郎(1854-1931)だと考えられています。明治4年(1871)、国費留学生としてアメリカへ渡る途中の山川が、船酔いと慣れない洋食による極度の体調不良の中で、飢えをしのぐために迷った挙句注文したのがカレーライスでした。しかし、上にかかっているカレーを食べる気になれず、添えてあった杏の砂糖漬けと一緒に米飯を食べた、と語っています。
日本初のカレーのレシピ
3 西洋料理指南:下巻 敬学堂主人著 雁金書屋 明5 <YDM68860>
 カレーが日本に入ってきた正確な時期は判明していません。現存する資料の中で力レーの作り方に触れている最も古いものの一つが本書で、“西洋料理“として紹介されています。玉ネギではなく長ネギを用いるほか、「鶏、海老、鯛、蠣赤蛙等ノモノヲ入テ能ク煮」とあるのが目を引きます。
4 西洋料理通:下巻 仮名垣魯文編 方笈闇 明5 <YDM68861>
 『西洋料理指南』と同様に、カレーの作り方に触れている最も古い資料の一つです。本書には“「カリド、ウイル、ヲル、フアウル」力リーの粉にて肉或は鳥を料理するを云”と紹介されています。『西洋料理指南』のカレーと比べると、現代の私たちが食べているカレーに近いものと言えます。
5 カレー料理日本探訪<EF27-E329>[吟(今→加)][吟(今→厘)]倶楽部/家庭画報編集部編 世界文化社1987.12
 『西洋料理指南』等のレシピに基づき、当時のカレーを再現しています。
ちょっと変わったカレーの食べ方
6 「和洋折衷料理」(家庭雑誌) 1904年5月 <Z23-465>
 “カレーの味増汁”のレシピを紹介しています。
7 「新案料理数品」(家庭雑誌) 1906年4月 <Z23-465>

   カレーに、つ二と海苔をかける食べ方を紹介しています。
日本料理の中の力レー

  8 日本料理法大全 石井治兵衛書/石井義次郎校/清水桂一訳補第一出版1965 <596.1-1597n>

   本書の原本は明治31年(1898)刊。石井家は代々江戸幕府の料理番を務めており、石井治兵衛自身も宮内省の大膳職という日本料理の専門家でした。その彼が“日本料理”としてカレーの調理法を記載しています。
日本人初の西洋料理店

  9 日本・西洋・支郡三風料理滋味之饗奏 伴源平編 赤志忠雅堂 明20年5月 <YDM68822>

   日本人による初の西洋料理店は、文久3年(1863)に草野丈吉(1840-86)が長崎で開業した「自由亭」だといわれています。いつ頃からかは不明ですが、カレーも提供されていました。店は繁盛し、明治14年(1881)には大阪中之島にも新店を開業しています。本書には「難波鉄橋上ヨリ中之島公園ヲ望ム図」があり、その一角に自由亭の建物が描かれています。
小説に見るカレー

  10 三四郎  夏目漱石著 春陽堂 明42年5月 <YDM93889>

   『三四郎』は、明治41年(1908)、朝日新聞に連載された小説です。この中に、ある風変わりな学生が見知らぬ学生を洋食屋へ連れていき、ライスカレーを食べさせる場面があり、この頃にはすでに、ライスカレーは気安く人におこることができるほど大衆化していたことがうかがえます。――国立国会図書館ホームページ「近代デジタルライブラリー」で全頁の画像をご覧になれます。

  

         <価格表>

@カレーの値段 A巡査の初任給 @÷A(月給に占める割合)

8銭(明治10年)

4円(明治7年)

0.02(2%)

12銭5厘(明治10年)

4円(明治7年)

0.032(3.2%)

5銭〜7銭(明治35年頃)

9円(明治30年)

0.006〜0.008(0.6〜0.8%)

15銭(明治40年)

12円(明治39年)

0.013(約1.3%)

@カレーの値段 A巡査の初任給 @÷A(月給に占める割合)

15銭(明治43年)

40円(明治43年)

0.004(約0.4%)

※小数点第4位四捨五入 ※参考資料により構成

 

参考文献:(1)『面白雑学カレーライス物語』井上宏生著。双葉社。1996年7月(EF27-G588)

(2)『カレーライスの誕生』小菅佳子著。講談社。2002年6月(GD51-G192)
 

【かんきょう】環境 日本文学研究者(古代文学論・伝承文学論)三浦佑之氏の「神話と昔話」サイト中の「現古辞典」http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/genko.html に記された「かんきょう(環境)」によると、

  「(1) めぐり。「愚かにそ我は思ひしをふの浦の荒磯のめぐり見れど飽かずけり」(万葉四〇四九) (2) くにがた(国形)。「国忍別命、詔りたまひしく、『吾が敷き坐す地は、国形宜し』」(出雲国風土記・島根郡)」とある。「磯のめぐり」の表現がみごと。氏のサイト中には、これまで発表してきた論文が読め、そのほかぼくにも関心が深い、「海」「山」「さか」のようなエッセイは、実に読み応えがある。

   「環境」という辞書の項目を引いたことはあるけれども、氏の「古語でどういったか―現古辞典」という古い時代の日本のことばで、現代使われる日常語を言い表そうというこころみのサイトにふとめぐりあって、ぼく自身が、漁業権の主体者ということを「海の『守り人』」と言い表し、それじゃあ、漁業権の及ぶ範囲(つまり、のちに「里海」という言い表し方をすることになる)を、どのように言い表そうかと、考えてきたアタマに、そうか「めぐり」ということばがあったのか、とひらめいた。三浦先生、教えてくれてどうもありがとう。秋道智彌先生がひろめてくれた「なわばり」(『なわばりの文化史』)ということばが、とてもわかりやすい表現であるのだが、なんとなく「排除ゾーン」の誤解を受けやすく、あるいは、歴史学上の「結界」や「境界」で囲まれた“空間”“場”というアプローチのしかたでもなく、もうすこし、違った、一般の人の心に訴えかけられることばがないものかと考えてきただけに、「めぐり」という広さ・場の概念ばかりか、ひと同士が遭遇するという運動論的な概念をも含みうる、よいことばに、まさに“めぐり”あったような気がしたのである。→【めぐり】ということばを使い、里海と環境についてのメモを記した。他の辞書・文献に見る「環境」についての用例も、整理しつつ同項に示した。

 

き―KI

【きさご】「きしゃご」ともいう。小さい平ベッたい巻貝の一種で、美しい斑紋がある。肉は食べられ、殻を「きさごはじき」という遊びにつかった。後世、「おはじき」というようになり、今は貝ではなく、ガラスや陶製の練り物でつくったものを使うようになった。

                ふり袖を舟にして行かちきさご(宝九義・三〇6)

    前句「沢山な事\/」。圧倒的に勝って、待ちきれず、袖を両端で持ち、中を凹め、舟のような形にして入れて帰る。この句美しい。

                横に寝るきしゃごはじきは難所なり(四九16)

    変な隅っこへ転がったのができて、まともな姿勢では弾けない。

                小姑へ嫁のきしゃごが八つ当り(五二12)

    おはじきの八つ当りと、普通いう八つ当りとかけたしゃれである。後世のものだけにいい句ではない。

                油手を拭いてきしゃごをほきださせ(傍三8)

    母親が髪を結っている暇に、はいはいをするくらいの幼児が、その辺りに散らばっていたきさごを口に入れてしまう。母親あわて、しかし、いちおう手は拭かなくてはならぬ。

(『国文学 鑑賞と批評』特集:川柳・江戸庶民の趣味・娯楽。昭和39年12月号。48ページより)

  「盤州里海の会」の金萬智男さんのホームページに、キシャゴについてすてきなコラムが載っているので、転載しておきたい。

2005.07.03 Sunday
キシャゴ(イボキサゴ)

キシャゴ イボキサゴです。地元ではキシャゴと呼びます。この巻貝は綺麗な干潟にしか生息しないと言われています。似た貝でキサゴやダンペイキサゴ(ナガラミ)があります。その昔東京湾の干潟では何処でも見ることが出来たのですが、東京湾で残る干潟・三番瀬も富津も絶滅状態だそうです。三河伊勢・有明海でも貴重な貝となったそうですが、ここ盤洲干潟では凄い数が繁殖しています。アサリが獲れなくなった要因ではないかとも言われています。(アサリの幼生を食べてしまう)
 この貝は縄文期から人々に愛されてきました。貝塚からは大量に出土してます。貴重なタンパク源として食べられたとも考えられています。
 江戸時代から昭和の時代中期まで田んぼに撒いて稲の肥料とされてきました。この貝の採取をする争いまで起きたそうです。今は田んぼには化学肥料が撒かれこの貝は撒かれません。漁も行いません。しかし今でも田んぼの中には多くのイボキサゴの殻が埋まっています。
 又遊びにも利用されていました。今はガラスのオハジキですが始まりはこの貝がオハジキのルーツとも言われます。山の地方ではオハジキ=キシャゴと呼ぶそうです。
 このキシャゴをオハジキとして復活させて海辺の環境を考える一旦となればと思います。里海の会のイベントで子供達に配布したいとも考えます。

2006年9月15日記

【ぎょそんけい】漁村契:韓国の漁業権と漁村契
 韓国の漁業権は、1990年8月1日に制定された現行の水産業法において「物権」とされ、民法の土地に関する規定を準用することとなっている(第15条第1項)。
 そして漁業権は養殖業、定置網漁業、共同漁業の3種類から構成されていて、共同漁業の対象は日本と同じく貝類と海藻類及び水産庁長の定める定着性水産動物となっている(第8条)。
 共同漁業権は、我が国でいえば漁村の村落共同体に相当する組織である「漁村契」、又は1962年1月20日に制定された水産業協同組合法に基づいて設立される「地区別水産業協同組合」に原則として免許されることとなっている(第9条)。
 実際には、共同漁業権については、韓国内に約1700ほども存在する「漁村契(ほとんどが非法人)」に免許され、漁村契より広域の範囲で設立されている地区別水産業協同組合(韓国内に65存在する)には免許されていないようである。なお、水産業法第15条第4項では、非法人の漁村契が取得した漁業権はこれを当該漁村契の総有とするとされていることも興味深い。
 このような経緯により、韓国では地区別水産業協同組合は、指導事業、経済事業、信用事業、共済事業等を行うのみで、共同漁業権は漁村契に免許されているが、これは、浜本氏の「漁業組合(仮称)と広域漁協の分離・独立策」を既に実現しているものとして位置付けられるものである。(『最新・漁業権読本』田中克哲より)

 

こ―KO

【こおり】氷ひむろ・氷室

【こおりもち】氷餅
氷餅(こおりもち)は、どういう食品であったかについて整理をしてみましょう。
手元にある資料から順不同で「氷餅」の部分を抜書きしておきます。(急ぎ入力しているために旧仮名遣いは正確には写していません)

(1) 柳田國男著作集より


○第10巻「供物と神主」(261頁〜)昭和17年刊「日本の祭」(弘文堂書房)=「前略……ところが関東地方から東北は一帯に、同じ場合〔正月に山に若木を迎え、泉に若水を迎えていくお供物のこと―中島〕に餅を持参し、それを山の神さまなり清水の神さまなりに上げる。殊に奥羽の各地では其餅を、山祭の場合にはヌサカケと称して、一種の藁苞〔わらづと―中島〕に挟んで樹の枝に懸け、ロウロウとかシナイシナイとか謂って、山の鳥を喚んでそれを食べさせるが、清水の神さまには普通その丸餅を半分に割って、一方を水桶の中に入れて持ち返り、他の半分を水の底に沈め、又は井の脇に置いて来る。それらを子どもらが……中略。是を水の餅と謂って特別の力があると信じ、凍らせて干して貯えておいて、六月朔日にになって出して戴くのが今いふ氷餅の起りだった様で、之を歯固めと名づけて食べると歯が丈夫になるといひ或は噛み砕いて手足に塗りつけると虫除けになるとも謂った。現在は既に是を一種の餅貯蔵法の如くに考へ、又は正月の水手桶の飾りのやうに見ている地方もできているが、幸いにしてその水の餅を半分にして持ちかへるといふ處がまだ多いので、こんな子どもらしい一つの年中行事の中にすら、なほ直会といふものの本の心持が窺はれる。……以下略」○第14巻「米の力」(244頁〜)昭和15年3月「新女苑」発表。「食物と心臓」所収。=農民が特に力を必要を感ずるのは、春のかかりの耕耘の際であって、その季に先だって力餅を食べようとしたのは自然であるが、これも良く見ると正月と関係がある。……中略……中央部では大阪府下中河内郡などの村々に、力餅の日といふのがあって大抵は旧五月末のある日であった。……作物の様子を考へて此日をきめ一日休ませる。力餅といふのを搗いて互いに近所へ配るのが習わしであった(近畿民俗一巻三号)。又力団子といふものをこしらえる慣行が又大阪市の付近にもあった。日は六月一日で、淀川改修の記念日とも伝えているが、其名を秋休みと謂ったのを見ると(東成郡誌)、やはり農作に関係を持つ日であったことが想像せられる。……中略
我邦の民間暦に於ては、この六月朔日は一般に可なり大切な節日であったかと思われる。九州南部で万石朔日、中国で焼餅節句、東国でムケの日だの衣脱ぎ朔日だのと、名は土地によって色々とちがっているが、是が農業の労働と深い関係のある日であったことはほぼ想像せられる。……たぶんは連日の疲労に向って、一種の活を入れるといふような作用をもっていたかと思ふ。現在は主として水の神の祭り日の如く考えられ、西の方では川祭、東へ来ると天王おろしも謂っているが、目的は必ずしも灌漑用水の保障をしてもらう為ばかりでなく、病難その他の身の弱りにつけ込む災厄を、何とかして免れようとする気持ちもこもって籠っていたらしい。……さまざまな食物行事が、……残っていて……、其中でも特に注意せられるのは、歯固めといふ名の餅が朝廷では正月の初め、田舎でもある村では同じく新春の食物となっているのに、ところによっては、之を六月朔日の行事としていることである。奥羽から越後佐渡にかけては、この餅は元旦の暁に、若水を迎えに行く時に水の神に上げたものを、半分持って還つて六月の朔日まで貯えておくことになっている。或は氷の餅といふ名だけあって、ただ寒餅をかき餅や「あられ」に切って置き、此日改めて出して食べるものもあるが、東北では実際の氷餅になっていて、白くぼろぼろとして之を噛んで食べても、格別歯の修練にも何もならぬものである。それを藁で括って大切に吊り下げて置き、うまくも無いけれど儀式としてこの日食べるのである。以下略……
○第21巻「みたまの飯」(441頁〜)昭和19年〜20年週刊朝日連載中の記事。「村のすがた」(昭和23年朝日新聞社刊)所収。=この慣習〔みたまの飯=歳の瀬の魂祭〕の特徴はいろいろあるが、中でも注意してよいのは、この飯を正月の十五日まで残して、必ず家の跡取息子に食べさせるというふ土地のあること、乾して蔵つておいて四月種まきの種子とまぜて播く者、または六月朔日の氷餅と共に、炒って食べる者などのあることである。……以下略。
○第13巻「六月朔日の雪」(75頁〜)大正四年発表。「年中行事覚書」に含む。=前略……この雪は何か特に六月も朔日の日にふるべき仔細があったのではないか。近世にも六月を正月に祝い直して凶年を避けた話があったように思ふ。→他に30巻362ページ〜に「六月の雪」があり、六月に降る雪の伝説について簡単に触れている。


=このほか「歳時習俗語彙」柳田國男編の「六月一日」にも詳細に記されているが、省略=


(2)和歌森太郎「六月一日」昭和26年、「民俗学研究」第二輯、民俗学研究所編。


○157頁〜=近松の「心中刃は氷の朔日」をはじめ、近世の文芸とか歴史的文献に親しんでいる人々にとっては、六月一日を氷の朔日とよんだことや、氷の餅を献上したり、進物する日にしていたことがよく知られている。それは、室町幕府以来ほとんど公儀として伝わっていた。(注1)この氷の朔日ということばは、民間には攝津、越前、飛騨(注2)、或は肥後の御船地方(注3)にまで分布し、加賀の石川郡ではヒムロノツイタチ、但馬ではコホリモチヤスミといっている(注4)。いずれにせよ、それはその年の正月のために搗いた餅、例えば餅花などのアラレやカキモチを(注5)多くは凍み餅としてこの日に神に供え、また贈物にしたり、朝食のあとで食べたりするのである。実際文字通り氷を食べるところもある。
 正月の餅をとっておいて六月一日に食べるという習いは、氷の朔日というような言い方を伴わずして、さらに広く伝承している。それは、北は西津軽から岩手県の各郡、秋田、宮城、山形、北陸各地、大阪、山陰、九州は屋久島に到るまで諸所に行われてきている。それが、多く歯固めの日、或は歯固めの餅をいただく日とされ、これを食べることによって身体が頑丈になるなどといっている。越中ではイリガシボン、越後のい西頸城でホネツギヒ、岩手県でオニノカウベコハシとか鬼の骨、越前でオニノツイタチ、大隈肝属郡高山でのホシなどと六月一日を指しているが、いずれにせよ、堅い正月餅或はニダマ(ミタマ)飯(岩手、紫波郡)を食べ身体を強める趣旨をさまざまに言おうとしているにすぎない。
 この六月一日の歯固めには、正月を再び重ねるという気持ちがそこに潜んでいたと考えられる。伯耆の日野郡では、この日を輪正月と称して松飾りまでしたというし、出雲の海岸部から備後安芸方面にかけて、ひろく正月ミテと呼んで、シミ餅を歯固めに食うところがある。出雲の片句浦では、年始礼は、この日まですませばよいとさえ言われてきた。
 そこで六月という月が、一面では、正月ミテ或は正月納めなどといわれるように、年の初めの意味での正月以来の課程に一段落つける月という意義をもつことを考えられるとともに、他面ではまたこれから新しい段階に入る機会として、正月をくり返す時期とされたことも考えられるのである。……以下略……


(3)田中久夫「年中行事と民間信仰」中の「兵庫県の歳時習俗」(一九八五年、弘文堂)=コオリ朔日(旧六月一日)

 

    この日、寒の水で搗いて作ったコオリ餅(かきもち)や鏡餅を食べるのが風習である。……美方郡美方町では歯を強くするために食べるといい、正月からこの餅をアマダ〔天井の上(裏)・二階―中島〕に吊るしているのでアマダ餅という。神戸市東灘区では歯固めといっている。……こうした氷餅のほか、正月の餅花を食べるところもある。……以下略。→兵庫県の氷餅の食文化については、「兵庫探検民俗編」神戸新聞社学芸部兵庫探検民俗編取材班〔編〕神戸新聞社、1972年、174ページ以降に地区ごとに詳細に報告されている。


(4)「嘉永年中行事」明治21年原刻。

 

    江戸後期、嘉永(1848〜1854)年中における京都の宮中における年中行事を記したもの。勢多章甫編。鎌倉〜室町期に記録がとだえる宮中の賜氷蔵氷の制度(4月〜9月頒氷)が、江戸期に6月1日の行事として根付いている様子を知るうえで重要な資料である。


○ 六月
朔日御祝 朝の物に氷かちんを洪ず。夕方の御祝、初献に氷かちんを洪ず。其やう例の如し。


(5)上記「嘉永年中行事」を考証した「嘉永年中行事考証」同年編。勢多章甫著。


六月
○氷餅  氷室ノ事ハ、仁徳天皇六十二年ニ始メテ見ヘ、職員令ニ主水司氷室ノ事ヲ掌リ、元日節会ニ主水司氷様ヲ奏スル事アリ。天文〔1532〜1555年―中島〕以後ニ至リ氷室ノコト有ルヲ聞カズ。今氷餅ヲ餅ユルハ氷ノ遺意ナリ。今諸説ヲ挙ゲ、参考ニ備フベシ。
[日本書紀云フ]……省略
[職員令宮内省條義解云]……省略
……
……
[実隆公記云]〔室町時代後期の公家、三条西実隆の記した日記。期間は、文明6年(1474年)から天文5年(1536年)までの60年以上に及ぶ。同時代の一級資料。―中島〕永正六年三月十四日。宣賢〔清原氏主水司―中島〕来氷室事。山木悉切取之間。氷室四月一日不可有之歟。……/十五日。宣賢氷送之。/大永三年〔1523年―中島〕三月十日。清三位送氷。→このあたりまでは六月一日行事ではなく蔵氷賜氷制度に基づき、ほとんど氷らなくなった状態においても制度だけは維持していたことがわかる記録。
[御湯殿上記云]〔おゆどののうえのにっき:室町時代、清涼殿の御湯殿の上に奉仕する女官が交代でつけた日記。なかには天皇の書いた部分もある。文明九年から近世までのものが伝存。御湯殿上記。御湯殿記。御浴殿記。―中島〕天正元年〔1573年〕十二月十三日、信長より北のこほりの名物氷のかちん一折進上申。〔「かちん」は、女御ことばで「もち」のこと。氷かちん=氷餅〕
[年中御祝儀記云]氷餅大隈主計頭調進之。此外三献之御献、毎月朔日の如し。
[彤管記云]〔典拠不明〕氷かちんまいる。宗直云、常のかきもち也。なすとあさ瓜と盛。


(6)「年中故事」玉田永教著、寛政十二年(1800年)。「民間風俗年中行事」に含む。


○第八巻 六月 林鐘、炎暑にて水尽る故に水無月といふ。
……中略
一、 氷室御調 朔日 丹波・河内・大和・山城是氷室の国々。
 主水司四月朔より是を奉る、昔は丹波其余の国々より氷を禁裏に奉る、今日御厨子所の預大隈家氷餅を奉る。〔参考:天保14年(1843)2月1日地下官人一覧=御厨子所預:従四位下:高橋:紀:宗芳49:若狭守、同番衆:従六位上:大隈:藤原:時忱18:丹波介〕


(7)諏訪の氷餅について……諏訪市史 下巻 (近現代)、昭和51年(1976)3月31日 編纂・諏訪市史編纂委員会 発行・諏訪市役所。=第三節 冬の特殊産業:寒天製造業・凍豆腐製造業・氷餅製造業・天然採氷業。「氷餅製造業」手元に資料無く、後に複写をする予定。参照。NHK教育テレビ「今夜もあなたのパートナー金曜アクセスライン」で放送された「ごちそう賛歌・氷餅・長野・諏訪市」。:氷餅作りは、かつては冬の間の農家の仕事であり、信州の風物詩のひとつと言われているそう。泰ちゃんは、19年前に「氷餅」を作っている農家を描いていました。その絵は、諏訪市が選定する年賀はがきにも使われたそうです。しかし、いまではモデルになったその農家はなく、「氷餅」を作っている農家も諏訪で5軒になってしまったとか。100年以上作り続けているという小泉平治郎さん(3代目78歳)方では、一冬に約30万本を作り全国に出荷しているそうです。(主に和菓子の材料になる)
<氷餅ができるまで>
もち米を一昼夜水に浸し、翌朝、水を加えながら機械でもち米を挽いて乳白の液を作ります。小泉さんのところで一日に使うもち米の量は3俵半(約210キロ)だそうです。昔は、石臼で挽いていたそうです。その液を炊くというのですが、五右衛門風呂の 2倍以上はありそうな大釜で湯煎にして、焦がさないようにかき混ぜながら約5時間かけて炊きあげていくそうです。この段階では「糊」と呼ばれます。とろ蓋と呼ばれる型に糊を流し込み、3日間外に置いて凍らせます。糊を流し込む作業も、時間が経つと糊が冷えてムラになるので手早くしなければなりません。夜の気温は、冷え込みすぎても暖かすぎてもダメなんだそうです。マイナス5〜7度。昼は、乾燥した晴天が続くこと。雲母のような美しい氷餅を作るには、お天気を予測することもできないといけないのです。これは、長年の勘がものをいうのでしょうね。
完全に凍ったら棒状に切り分け、ひとつずつ紙に包んで藁で結わきます。紙に包む作業は、「編娘さん(あみこ)」と呼ばれる女性達の仕事。凍った糊が溶け出さないように、暖房を極力抑えて作業をしていました。藁で結わくのは、干すためです。そして紙に包まれた糊の塊は、屋外でさらに20日間寒ざらし。直射日光や埃から守るために、むしろをかけていました。また雨や雪に濡れると、しみができてしまうそうで、ここでもやはり気が抜けませんね(^_^;) 日中は氷がとけ、夜は凍る。この繰り返しで20日間寒ざらしにされた糊は、水分が水分が抜け十分の一の重さになっているそうです。やっと、雪の結晶のように真っ白でほのかに甘みがある「氷餅」が出来上がりというわけです。

http://www.ne.jp/asahi/kina/dream/sketch/kkikaku/sichorepo/korimochi.htm 参照。


○ 歯固め、氷朔日行事に使用される「氷餅」は、餅の形状は鏡餅状、砕いたもの、板状のもの、餅花などをアラレにしたり、カキモチにしたり、焼いたりして食するもの。是が一般的使用法と歴史的にも一般的な形状としてよいでしょう。
○ 一方、餅粉を解いて糊状にしたものを、型に入れて寒ざらしにして、高野豆腐状の固形にした諏訪の伝統食「氷餅」は、江戸時代においては、貴重とされ、城中で製造される秘伝製法というから、一般の消費は少なかったであろう。諏訪の伝統食として地域限定製品としてとらえてよいかもしれない。今後、江戸期中に、諏訪式「氷餅」が他国でも製造されていたのかは、要調査。

(8)近松「心中刃は氷の朔日」=「新編日本古典文学全集 近松門左衛門集(2)」=「今日は六月朔日の、正月納めの紋日ぞと、……そのかき餅の氷より、涙の氷解けやらぬ……」


(9)虎屋文庫編「和菓子」第10号、平成15年3月→「夏のまつりと小麦饅頭―麦の正月」亀井千歩子著=六月の行事と麦、ムケノツイタチと麦饅頭の起源の考察は参考になる。引用略。


(10)同「和菓子」第9号、平成14年3月→「水無月考」浅田ひろみ著。引用略。


(11)同「和菓子」第8号、平成13年4月→「近世後期、城下町金沢の菓子屋と菓子について」深井甚三著。引用略

2006年7月10日NHK「知るを楽しむ―江戸時代・夏の一日」テキスト原稿「お氷さまと富士参り」の参考資料として作製。

 

【こころぶと】心太ところてん

【ごまめ】(1)[魚+單]。カタクチイワシの乾製品。祝賀用とする。田作(たづくり)。(2)ことのばら(小殿原)→数が多いことから婦人語で「ごまめ」をいう。「ごまめの魚交(ととまじり)」とは、雑魚の魚交じりと同じで、つまらないものが、不相応にすぐれた人の間に混じることをいう。「ごまめの歯軋(はぎしり)」波、力なきものが、やたらいきり立つこと。……以上【広辞苑】より。一般的には、上記の義でことたるが、(3)に示した「韶陽魚」をゴマメと書くこと、海産物のなかで、「ホシカ」と同義に使われる場合もあり、近世には、料貨交換の基準となるような安定した価値を認められていたにもかかわらず、雑魚やたくさんいて役立たず、小者の代名詞のように使われるようになったのは、何故か。(3)韶陽魚=エイのこと。

  ○ゴマメの語源にはわからない部分が多い。用例検証の価値が大いにあり。 というよなチェックを入れておいて、後日、整理をしてまとめた文章は、ゴマメ、鱓、小万米(PDF2ページ)に載せた。また、真名真魚字典:鱓:[單](12画)をみよ。

 


さ―SA

 

し―SI

【しゅがい】朱崖:擔耳・朱崖について→たんじ(擔耳)

【上聲の重】(じょうしょうのじゅう)(じょうせいのじゅう) まさか、こんな中国の古い音声(音韻)に関わる難解な「ことば」(用語)に注をつけなければいけなくなるとは、ツユ思わなかった。江戸時代中期、文政期から幕末にさしかかろうとする江戸の学芸文化が頂点に達そうとしている時代に生きた、狩谷棭斎(かりやえきさい:安永4〈1775〉〜天保6〈1833〉)が、著した「箋注倭名類聚抄」の第八巻(「龍魚体編」)の現代語訳に取り組んで、ぶつかった最難解語が、この「上聲の重」(上声の重)であった。エキ齊が「箋注」(箋注)した「倭名類聚鈔」(和名抄)は、平安時代中期承平期(830年ごろ)に成立した、文学者・歌学者であった源順撰になる、わが国初めての分類体辞書である。内容の詳細は別にして「ワミョウショウ」が古い辞書ぐらいは、中学・高校生でも知っているぐらい有名であろう。魚や植物や地名の和名の古い時代の訓みを確認するときは、この辞書を引用することになるわけだが、すべて漢字で書かれているので、漢字の音読みも訓読みも、ものの名前も、基本的には、みんな漢字の「音」や「声」を記号として使って表現される「反切」係連法や、「説文解字」や「韻鏡」にもとづく「六書」造字法や「平上去入」の音韻を整理した「四声」分類にもとづいて、しかも簡潔な文章で記されている。

   たとえば、第八章龍魚体編の一番最初の首題字は

龍 文字集畧云、龍、 {力鐘反、太都}

   と記されている。右画像は、和名抄の写本のうちの「松井本」と呼ばれる10巻本の一本から影印本という実物の写真版を印刷したものからの複写だが、校正の蔵本者や研究者が書き込みを入れているので、少々読みずらいかもしれないが、ほぼ昔の原本に近い姿をした写本の一書と言われている。この「力鍾反」が、「龍」の声音を、表現している。簡単に、書けば、「力」は「ryoku」(リョク)で、「鐘」は「shou」(ショウ:ショー)だから、その第一字の頭の声音を示す「r(y)」音と、二字目の韻の音を示す「ou」(オウ)とを結びつけることを、「リョク−ショウの反切」(反は唐時代に使われ、切は新しい時代に使われるので、両方合せて反切)は、「R(Y)-OU」:「リョウ」というように、読むという、声音表記の決まりである。これも、小生が理解しやすいように書くと、そうなるのであって、中国音韻学の教科書の書き方で書けば、

反切とは、漢字二字を用いて別の漢字一字の発音を示す方法である。「力鐘切」と書くとき、上の字を「反切上字」といい、声母(せいぼ)を示す。下の字を「反切下字」といい、韻母(いんぼ)と声調(せいちょう)を示す。  「龍」の字の反切「力鍾切」は、「力」が声母を、「鍾」が韻母と声調を示すということになる。言い換えれば、「龍」と「力」は、声母が同じであり、「龍」と「鍾」は、韻母と声調が同じである。それでは、実際の発音として確認してみると、上列が現代北京音(ピンイン)、下の段が日本漢字音で

  龍(lóng)=力()+鍾(zhōng

  龍(lyouリョウ)=力(lyokuリョク)+鍾(shouショウ

となる。それでは、「龍」と「鍾」は、韻母と声調が同じである、と書いたことを、もう一つの確認の方法として、『広韻』(こういん)という韻書とよぶ、音韻の基本となる韻母と声調を整理した本で、この二字について 、どのような整理がされ、そして、関わりがあるのかをみてみよう。

  となる。 ここまでが、まず、第一ステップとでもいえましょう。「教科書」として、MANAが、勉強する手助けをしてくれたのが、「音韻学入門―中古音篇」(中村雅之著:富山大学人文学部中国言語文化演習テキスト:1998)でした。

正確に押韻するルールに基づく詩歌づくりが、古代中国では科挙試験の必須科目であったために、このような韻書が作られた。

いまだ、解明できているわけではないのだが、

 

せ―SE

【関頑亭(せきがんてい)さん】【頑亭先生】【ドスト氏】 国立の味探検居酒屋「文蔵」取材に当たって、ぜひとも訪ねてみたかった人。山口瞳の小説、エッセイにドスト氏として登場する彫刻家。今日は、といって一橋大学の裏手の通り沿いに住むご自宅を、なんのアポもなく訪ねた。電話番号も知らなかったから、駅前の多摩信用金庫の郷土史ライブラリーの方から場所を聞いてその足で伺った。なんのためらいもなく、突然の訪問者を自らのアトリエに案内してくれて、それから2時間近く、それこそ甲州街道の谷保天神の昔の話から、戦時中の「風船爆弾」作り(彫塑に使うコンニャクノリが和紙を貼りつけるの最適で、彫刻の専門家の技が不可欠だったこと)のこと、鯰のこと、みずからの作品作りについてまで、初対面のぼくに話してくれた。なかでも仏の道と仏像作りについては、メモをとるにも漢字に書きとることができないくらい、それはむつかしく、ためになるお話が聞けました。1919年生まれのガンテイさんの本名は、「保寿」という。この名前には由来があり、谷保天神近くに、よく効くという「保寿玉」(ホジュガンORヤスジュガン)という丸薬を売る薬屋があり、人生の旅を健やかにと健康を願って、その薬の名前をとったのだという。大国魂神社拝殿(中に入ることができないので覗くだけしかできない)を守るように座る金銀の狛犬彫刻ではなく、阿吽(あうん)乾漆像2体はガンテイ先生の近作とかで、何日かあと拝みにいった。いわゆる狛犬というより、エジプトのスフィンクス像をおもわせる実に雄大な像であった。「この時間になるとぼくをまっていてくれるひとが沢山いるもので」と、わざわざぼくを谷保駅ちかくの文蔵に連れていってくれたのである。(頑亭先生取材、文蔵取材=2000年3月20日ごろ)

   ○ガンテイさんから鯰のチョコを頂くほか、サイン入り仏画(おかしいですねえ)までもらった。先生著作『人生飄々と。頑亭が行く』(講談社)。『玄妙を彫る 関頑亭の世界』(たましん地域文化財団)、『the法然』(2000年春号、西田書店。「仏をとおして人間を知る 関頑亭」)。『弘法大師像 関頑亭の世界』(中込敦子著、けやき出版)。

   ○味探検「文蔵」BACK

 


た―TA

 

【たにし・タニシ】田螺→タニシの歌

【タニシの歌】 「たにし、たにし、こーとこと♪♪矢倉沢往還(大山街道)の味探検取材中に出会った厚木の古謡の由来をしらべに厚木市飯山の飯山観音を訪ねた。

タニシの歌のルーツを探る〜田螺のザッコロジー/メモ〜

【たむけ】→とうげ(峠)

【たんじ】擔耳・朱崖(しゅがい)について:擔耳・朱崖は、中国の南海に浮かぶ島、海南島、西はトンキン湾を隔ててベトナムに至る。「武帝の元封元年(BC110年)に略し以って人・耳(たんじ)、珠香iしゅがい)郡と爲す。民は皆布を服(き)るに單被の如く、中央を穿ち貫頭と爲す。男子は耕農し、禾稻・紵麻を種え、女子は桑蠶織績す。 馬と虎亡く、民に五畜有り。山に麈・鹿京(けい;鹿の一種)多し。兵は則ち矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢、或は骨を鏃と爲す。」(漢書 卷二十八下 地理志第八下粤地条)。民に五畜有りと弩を除けば、倭と同じような風俗という。陳寿は漢書から引用したというものの、倭の風俗が半島経由のみならず、呉のはるか南からも伝播していることを記載したことになる。また、倭が意外に温暖であるという事情を印象づけるものでもあった。黒潮や対馬海流、運んできたのは台風ばかりでなかった。

【近松門左衛門と岡本一抱】ちかまつもんざえもん と おかもといっぽう 近松はいわずとしれた近世最大の劇作家・ストーリーテラーであるが、岡本一抱は、岡本為竹一抱子のことで、元禄期の本草研究書として知られる「公益本草大成」の著者であり、本草学・医者である。このふたりは、近松が兄で岡本が弟としての関係。この二人の逸話として、江戸の幕府医官の地位にある医学者で本草家であり、国学者や漢学者など思想化との交流も深かった多紀茝庭(元堅)(1795〜1857)の地方医事記録等メモを集めた「時還読我書」に、次の逸話を載せている。

―――山崎渉園先生話ス。近松門左衛門、少年ノ時放従ナルヲ以テ兄弟系譜ニシテ往来モセザリシニ、齢ヤヤ積テ、其行格実(木偏はリッシン偏か?」)ニナリシカハ、其弟岡本一抱子コレト相会セシトキ、一抱ノ云、兄ノ奇才ヲ以テ心ヲ無益ノ雑劇稗説ニ費スコソ惜ムベケレ、サホドノ精力ヲ医術ニ施シ玉ハハ、許多ノ用ヲナシタランコトアリシカハ、近松ノ答ニ吾モ又弟ニ造(ツグ=告?)ベキコトアリ。弟好テ医書ノ諺解ヲ作レドモ、其ハ心得ヌコトニコソ存スレバ如何トナレバ、後世庸意ノ諺解ノミヲ読テ医ハ用意ニ為ベキモノト思テ敢テ詳ク学問セス、浅薄ノ術ヲ以テ人ノ生命ヲ誤ルコトアルニ至ランカト云シト一抱深ク其事ニ感服ナシ、其時方ニ素業(「業」*の一字読めない。すでに仕事として手をつけてきた、というような意味であることは分かる)ノ諺解ヲ撰シ半ハ稿ヲ脱シタテドモ其ママ筆ヲ擱タリトゾ、近松ノ卓見ハ善麿ノ言ト符合ス、誠ニ後世ノ竈鑑とナスベキ也。………安政5年に弟子(相陽遊学生)久保田挙斎の写本として伝わる「時還読我書」を、京大電子ライブラリーで見つけて、ざっと読んだら、これが面白い。自らの漢籍の読書からの医学記事の備忘録的な記述のなかに、地方から聞こえてきた医事行為の記録が非常に詳細に載っている。たとえば、越後のどこ其処では、不思議な奇病とされる病があって、其病名をツツガといい、虫が刺すことにより高熱を発し死に至らしめるが、治療法はこうこうであるとか、脚気に牛乳を一杯飲むとよいとか、蕎麦と田螺を一緒に食してはいけないのはこれこれの理由からである、……とある記述が、風評を記録したものではなく、直接、医事行為に携わった専門家の処方を添えて記述しているだけに、説得力があって、面白い。近世の医事随筆としてよく知られる文章なのであろうが、兄である近松に諭されて、自らの医事普及本の理念を変えた話が面白く、メモとして載せておく。

【ちひろなわ】千尋縄(ちひろなは)→真名真魚字典16画(鱸)【古事記伝】(岩波文庫本)をみよ。

【ちまた】巷。岐。衢。(「道股」(ちまた)の意味)道の分かれ道。分かれ道。つじ。四方に通じる大通り。イチの立つところ。市街=衢。隹の上の目二つの意味は、「鳥が眼をきょろきょろさせること」とし、行の間にはさんで、にぎやかで眼をきょろきょろさせる大通りの意味(『漢語林』)。

  ○「八十の衢」=言霊の八十の衢に夕占問ふ占正にのる妹はあひよらむ(万葉集 巻11、2506)。八十の衢が言霊の霊力をおびき寄せるのに都合のよいところ。そんな街の場所。

  ○「八衢」=道が八つに分かれたところ。八を数多くということにして、道がいくつにも分かれたところ。千葉県の地名「八街市」やちまたしは、そんな分かれ道が集まったところから付けられた。

マチとイチ=町と市のことばの意味は同じであることについて

  ○「チマタの神」=道祖神。猿田彦神の異称。

 

と―TO

【とうげ】【峠】←たむけ・たうげ 坂を上り詰めたところだが、道の通過点でもある。他国に行き、また戻るときの境界の意を含む。山の頂(いただき)は、極みだが、峠は上り詰めたところだが、極みではないところが重要なポイントだ。したがって、頂に宿る神と、峠に宿る神とは異なる。頂は一神のものであり、峠は多くの神々がやどるのであろう。登山論においても、旅を考えるうえにも面白いテーマを与えてくれそうだ。大田南畝の「三十輻」(みそや)巻之一「夏山雑談」(平直方述)に、

○山のたうげは手向の転訓なり  山のたうげは手向の転訓なり、手向をたうげと訓ずるは、日向をひうがといへるが如シ、たうげは上り下りの山のさかひにて、国も多はここにてさかへば、旅行の人、道のほとりをいのりて、国津神に手向をする故の名なり、道祖神を手向の神とも申すなり、万葉集に祈の字をたむけとよみ、祭礼もたむけとよめり、

  とある。

 

【とうじ】【冬至】 11月中、卯の日。太陽復活の日。「太陽の霊力が更新される儀礼のあるべき日」(荻原龍夫「年中行事の歴史学」)……陽の気が最小となり、陰が極まって、この日を境に、陽気が登り始め、ほとばしり出るころ春になる。

 

【ところ】【野老】 随筆集「新燕石十種」に含まれる『飛鳥川』『続飛鳥川』の物売りの呼び声をメモしていて不思議な響きを持つ字に遭遇する。冒頭の「寛延、宝暦の頃、文化の頃までの売物」、として「元日に云々」に続いて「野老売り、水飴売、桜飴、/恵方みやげ、大判小判、/辻宝引、辻に立ち云々」とある。「野老」に「ところ」とルビが振ってある。広辞苑に、「ヤマノイモ科の多年生蔓草。葉は長柄、ヤマノイモに似て幅がひろい。…中略…ヤマノイモと異なり葉が互生、果実が上向きにつく。根茎は苦味を抜けば食用となる。オノドコロとヒメドコロとの二種あり、通常トコロと呼ぶのは前者。」とある。埼玉県所沢(ところざわ)のトコロは、この植物が繁茂していたからというのも、面白い。自然薯と、トコロ、苦味を除けば最高級の「トロロ」になるというのも、精進料理あるいは、本草についてのかかわりとともに、マークしておいてよい食物であり、コトバである。

    ネット上の関連サイト○野老:http://www.hana300.com/tokoro.html ○日本料理店「野老」:http://www.a-tokoro.com/

 

 

ところてん】【心太】 心太をトコロテンと読む。なぜ「心太」なのか。なぜトコロテンなのか。福岡県博多名物オキュウト(オキウト)の語源考メモも付す。

 

 資料(1) 『倭名類聚鈔 自十五刊至二十巻』日本古典全集(正宗敦夫編纂・日本古典全集刊行会)

海藻類第二百二十六

藻    毛詩注云藻 {音早、和名毛、一云毛波}水菜也 〔以下中略〕

於期菜 本朝式云於期菜

海髪   崔禹錫食経云海髪味醎小冷其色黒状如乱髪{和名以木須、漢語抄云小凝菜}

大凝菜  本朝式云、凝海藻{古留毛波、俗用心太二字、云古々呂布止}楊氏漢語抄云大凝菜

巻17 十七(表)〜十八(裏) 

 

 資料(2) 『本朝食鑑』平凡社東洋文庫版(人見必大、島田勇雄訳注)第1巻264頁より

凝海草 昔は古古呂布止〔こころふと〕、今は登古呂天〔ところてん〕と訓む。

〔釈名〕 小凝菜・凝草。『本朝式』(『延喜式。大凝菜。源順(『和名抄』)は、「楊氏の『漢語抄』には、大凝菜とある。和名は古古呂布止、俗に心太の二字を書く」といっている。必大の考えでは、『本朝式』(『延喜式』)には古留毛波〔こるもは〕、または比不毛波〔ひふもば〕と訓んでいる。
〔集解〕 これは各地の海浜の砂石の間に生じる。高さ二・三寸、形状は珊瑚のようで、紅白二色がある。
枝の上に側歯をもち、根が砂の中に埋まっているものは再生できる。一種に、鶏の爪に似たものがあるが、これも同じものである。水に没し、砂屑および枯黒のものを去り、長らく湯に煮て取り出し、水に流し入れると、蒟蒻の凝ったように凝成し膠凍し、透明・清白となる。蔬食として愛すべきものである。
醤汁・厳醋〔つよいす〕・薑芥〔しょうがからし〕・蕃椒〔とうがらし〕・砂糖・豆粉を和して食べる。あるいは、海蘇〔うめじそ〕汁に漬け、越年させれば、珊瑚・琥珀の色になって愛すべきである。あるいはまた、この菜の煎汁〔せんじる〕を紙に塗り、晒乾〔さらしほ〕せば、礬膠紙〔どうさがみ〕のようで、長もちし損傷しない。当世〔ちかごろ〕、夏月には一般にこれを食べて能く暑〔あつけ〕を消すといわれる。僧家でもやはり用いている。昔は尾張・志摩・紀伊・阿波などの国が民部省に貢献していた(『延喜式』)。
今もやはり、勢尾・参河などの地方が最も多い。
〔気味〕甘寒。滑。無毒。
〔主治〕上焦(胃の上口にあって飲食物を胃に入れるのを掌る。水や穀物の通路の一)・胸隔の煩熱お よび胃熱を去り、渇を止め、署を消し、酒毒を解する。凡そ下焦(膀胱の上にあって排泄を掌る)・虚寒(虚証で寒のある人)の人が用いるのは宜しくない。

 

(1)(2)―注 「藻」=「も」「もは」について

 矢野憲一「神々と食事の知識」(『歴史読本 日本たべもの百科』昭和49年臨時増刊)に、神饌の品目としてあげた中に「海藻」として、「奥津藻葉(おきつもは)として昆布。若布云々」「辺津藻葉(へつもは)として、ヒジキ、アラメ、海苔云々」の記述あり。この「オキツモハ」「ヘツモハ」は、「祝詞」にも記載がある。――要確認

 

 資料(3) 『大和本草』貝原益軒著(宝永6年1709年刊・中村学園本、同学園「貝原益軒アーカイブ」サイト=

http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/kaibara/yama/head.htm

 

 で公開されているPDFファイルからMANAによりテキスト化した。)より。

   海草類

心太〔フト〕  心太は国俗の称する所の名なり。ココロはコゴルなり。フトの反はホなり。ホとモと通ず。ココルモなり。閩書云う。「石花菜ハ海石ノ上ニ生ス。性ハ寒、夏月ニ煮テ之ヲ凍[コホリト]成ス」。今[筆者が]按ずるに、是れ心太なるべし。但綱目の石花菜を説けるは異り、今心太を国俗トコロテンと称す蠻語の如し煮て凍るものなり。細にさきて麪[キリム]き、條の如くにして食す。性は寒、病人虚人は庭訓に食すべからず。西山の心太と云しは昔、嵯峨辺りに、これを製して売りしか、名物なりしにや。○海髪[イギス] 順和名抄にのせたり。是れまた心太の類、煮て凍とし食す。毒あり、往々人を殺す、食すべからず。また、ウケウトというものあり。紫色なり。一類別種なり。これら漢名詳らかならず。佳品にあらずして食すべからず。

[『大和本草』巻之八草之四]

於期[ヲゴ]ノリ  海中石上に生ず、乱髪の如し。青黒色ナゴヤより大に、ヒシキより小なり。飯に加え食する事ヒシキの如くにす。性滑泄、虚冷の人食すべからず。腹痛を発し性不良。

[『大和本草』巻之八草之四]

ウケウト  海草なり。煮てトコロテンの如くかたまるコンニヤクの色なるもあり。佳品にあらずして食すべからず。

[『大和本草』付録之一草類]

ウケウト 海草。その葉此の如し。煮れば凝りて冰の如く心太の如し色紫なり。

人これを食するは小毒あり。〔左図中の記載テキスト〕

[『大和本草』諸製品図上 草類]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 資料(4) 『近世風俗志』喜田川守貞著、岩波文庫版(一)より

心太〔ところてん〕売り   心太、ところてんと訓ず。三都ともに夏月これを売る。けだし京坂、心太を晒[さら]したるを水飩[すいとん]と号く。心太一箇一文、水飩二文。買ひて後に砂糖をかけこれを食す。江戸心太価二文。またこれを晒すを寒天と云ひ、価四文。あるひは白糖をかけ、あるひは醤油をかけこれを食す。京坂は醤油を用ひず。またこれを晒し、乾きたるを寒天と云ひ、これを煮るを水飩と云ふ。江戸は乾物・煮物ともに寒天と云ふ。因みに日く、江戸にては温飩粉[うどんこ]を団し、味噌汁をもって煮たるを水飩と云ふ。けだし二品ともに非なり。本は水をもって粉団を涼[さま]し食ふを水飩と云ふなり。今世冷し白玉と云ふ物、水飩に近し。

[『近世風俗志』岩波文庫版(一)280ページより]

 

 資料(5) 『七十一番歌合』群書類従・巻五百三(昭和7年刊『群書類従・第二十八集 雑部』)605頁より

七十一番

さもこそは名におふ秋の夜半ならめあまり澄たる月の影哉

うらほんのなかはの秋のよもすから月にすますや我心てい

左。あまりといひて。すとは聞えたるを。かさねてすとよめるやいかゞ。右は。うらぼんのよもすがら。心ぶとうることしかり。心ていきく心地す。右可レ勝。

いつまてか待宵ことの口つけにあすや\/といふをたのまむ

我なからをよはぬ恋としりなから思よりける心ふとさよ

左歌は。酢つくる人は。あすや\/といひて。祝ことにするといへるをよめるにや。えんにきこゆ。右は下旬よろし。とり合て持にて侍べし。

   心ぶとめせ。

    ちうしやくも

        入て候。

 

   心太うり。

   酢造。

  あすし

   きかき哉

注)(1)「七十一番職人歌合」は、下記岩波書店『新 日本古典文学大系 61』「七十一番職人歌合」では、成立年代を、「明応9年(1500年)末、遅くとも文亀元年(1501年)初めには成立していたものと考えられる」としている。

(2)「ちうしやく」は「鍮石=ちゅうじゃく」で、黄色い色をした芥子(からし)のこと。「さあ、ところてんはいかが、酢(醤油は入っていないだろうなあ。酢そのものが、現代の酢よりももっと塩分が利いていたのかもしれない)にカラシもはいっておいしいよ」という意味だろう。岩波書店「新 日本古典文学大系 61」「七十一番職人歌合」145ページの校注者の注に「心太売 頭に手拭。小袖。ところてん突きで、心太を平椀に突いている。傍に、曲物に入った突く前の心太、庖丁、椀。」とある。

(3)岩波書店版校注者の注五(144ページ)に、《「心てい」は「心太(こころぶと)」(ところてん)の意ももつ。「コヽロブト、常にトコロテンといふ。又トコロテイと云ふ。トコロはコヽロと同じ。コヽロはコヽルと通ず。凝(こごる)也。コヽロブトを詞にまかせて心ブトイと呼び、転じて心フテエとなり、又転じてトコロテンと呼ばるなり。心と所と、本言同じければなり」(俚言集覧)》とある。俚言集覧は、国語の辞書で26巻、太田全斎著、1797(寛政9)年以後1829(文政12)年以前の成立、明治にはいってから50音順に整理された「増補俚言集覧」が刊行されている。

 

 資料(6) 『群書索引』(物集高見・物集高量、大正5・1916年初版刊、昭和50・1975年覆刻版―名著普及会刊)より

凝海苔 ところてん

本朝食鑑、三/六〇  巻懐食鏡六八  菜譜、三下/八三

本草綱目、二八/二五  和漢三才図会、九七/一一  南産志、上/九

名言通一一  侯鯖一◆、三/一六〔◆=戀−心+肉(シタ)=レン〕

倭訓栞、中編/こヽろぶと  類聚名物考、四/五九三

{百家伝林続篇}柳◆随筆、七/四二八〔◆=芳−方+シタ弇=エン〕

燕石雑志、一/二九  万金産業袋、六/一二

 こゝろぶと  菜譜、三下/八三  大和本草、八/三八

食物和歌本草、五/二三  和名鈔、一七  職人歌合、下二四

日本釈名、下/五  万金産業袋、六/一二

(第2冊、1026ページ) 

 

【ところてん自殺】元禄13年5月晦日に荒川十左右衛門150石どりの武士、冷麦、ところてん、スモモなど大量に食い、その毒にアタリて、奇天烈な自死を遂げた記録が残っている。(神坂次郎著『元禄御畳奉行の日記』中公新書、1984年。90頁。尾張徳川家に残った「鸚鵡龍中記』の解説随想。)

 


な―NA

 

【なまり】→「かじ(譌字)」

【にどしょうがつ】【二度正月】【二度目のお正月】→「はやりしょうがつ」(流行正月)

【のうさば】【のうさば干し】 1994年でしたか、玄界灘に面した鐘崎漁業協同組合に取材にいった時に「のうさば干し」が年末の風物詩ですというところから、いろいろなお話をききました。「のうさば」は、底びき網やフグはえ縄の混獲によって漁獲されるホシザメ(Mustelus manazo)を背割りにして寒風下で天日乾燥させたもの。玄海町鐘崎地区の名産で、12月半ばに「のうさば干し」として師走風景として新聞紙上でよく掲載されるという。以下は、鐘崎漁業協同組合が発行した「筑前鐘崎漁業誌」(同誌編集委員会・編。平成4年刊)の304ページに載る「参考資料」より、「珍味 鐘崎かずのこ(のうさば)」より引用させてもらった。

「珍味 鐘崎かずのこ(のうさば)」 より……軒先や海岸に背割りして逆さにつるされたのうさばが寒風にゆられるのを見て鐘崎の人は師走を感じ、正月料理ののうさばの味を思い出す。のうさば干しは鐘崎の師走の風物詩であり、鐘崎が生んだ郷土食であり、正月にかかせないものである。
元県文化財専門委員で民俗学者、郷土史家としても有名な筑紫豊先生は、この鐘崎数の子の愛好家で、珍味中の珍味だとおほめをいただき、次の歌をおよせ下さいました。
  熱き湯にのうさばひたし妹(妻)としてサメハダとるも愉し初春。
  酒,醤油にほどよくつけしノウサバは数の子よりもうまし初春。
  千早ぶる鐘のみ崎のノウサバの干身かみしめ祝う初春。
次のことを参考になさっておいしい鐘崎数の子(のうさば)を作って、よい正月を迎えて下さい。
1.のうさばはどんな魚か  ホシザメ科(星鮫科)のホシザメのことで,博多ではモダマといい,鐘崎地方では,のうさばという。延べ縄にかかったサメからノーサバとなったのだろう。
2.のうさばの食べ方のいろいろ  いびいて(熱湯を通して)さめ(ガサガサ)を取り輪切りにして酢味噌をかけて食べる。新鮮なものは洗いにして食べる。味噌汁に入れて食べる。干物にして食べる(鐘崎数の子)。その他(蒲鉾の材料など)
3.干物にしたのうさばの調理方法
 @のうさばを背割りして竹串で広げて逆さにつるし潮風にさらして乾かす(約1週間でカチカチになる)
 Aカチカチに干上ったのうさばを、4センチ幅位に切る。(かたいのでナタや小鋸などで切る)
 Bこれを沸騰した湯にサッとつけ引き上げてタワシでサメを落とす。
 C水でよく洗って短冊形に切る(ヒレ・頭も食べられる)
 Dこれを数の子と同じ要領で、酒、醤油等を調合した汁につけ込む(約1日位つけると味がしみ込む)
 Eこれで珍味鐘崎数の子ができました。
4.鐘崎数の子の名の由来と味と調理のコツ  正月に数の子のように料理して食べるから、味は数の子、スルメ、タラをミックスしたような奥深い味。調理のコツはサメを落とす際、長く湯につけないこと。にえてしまうと風味がなくなる。(日並文夫)

なお、ネット検索によって、次のサイトの『福岡県玄海地方の「ノウサバ」について Nousaba,a curious Food of dried shark in northern Kyushu 』(水産大学校 多部田修)(日本板鰓類研究会(日本サメ学会)板鰓類研究会報第11報1981年3月20日発行より)

http://jses.ac.affrc.go.jp/ (サイト中「会報」より第11報表記タイトルのPDF)

が、魚種、原料、製法、時期および流通について触れられてあり、非常に参考になる。なお、多部田修氏は、長崎大学名誉教授、専門は「魚類生活史の研究」で、ウナギ及びフグの生活史研究。

○サバとフカとサメとハゼの漢字表現の同一 性(共有)と異質性(混乱)について考えてみよう。under construction→真魚真名字典[鯆](7画)参照。

(04.11.19記載)


は―HA

 

はやりしょうがつ】【流行正月】←【二度正月】

 

(1)柳田国男

○用例1:「定本 柳田國男集 第13巻」:「年中行事覚書」(昭和30年10月、現代選書、修道社発行):「年中行事」(初出:昭和24年3月、日東出版発行):柳田国男「朔日と十五日」より (定本13巻31頁)。 「旧12月の朔日は六月の朔日と相対して、今でも水と関係ある一日であった。土地によって差はあるが、いろいろ意味の深さうな作法と言ひ伝へが残って居る。水の恵みは稲作国にとって、忘れ難いものであり、以前は専らこれを田の神の神徳として礼讃したのであらうが、今ではこの両日とも水の災ひ、ことに川童の害をよけるといふやうな方へ、傾いて居るのは変遷である。六月は、水のついたち鬼の朔日、又は衣(きぬ)脱ぎ朔日とか剥(むけ)節句とかいふ類の、由来を考へて見ると面白い名称も多いのだが、結局は昔から定まった食物を調へて、静かに話でもして休む日であった。十二月もこれと同様に、必ず餅を搗いて神に供へ、又自分たちも食べることにして居る。九州の一部でネバリモノの朔日、その他流れ餅だの川飛び餅だのといふさまざまの異名はあるが、何れもこれを食べぬうちに川を渡ると、水の霊に取られるといふ俗信を伴なひ、或は腹一ぱい食ってから後に、わざわざ流れに尻を浸しに行くといふ處もある。中国地方などは数県に亘って、膝ぬり餅といふ名が今もあって、この餅を膝にぬってさへ置けば、川を越してもあやまちは無いと言って居る。いくら悠長な時代でも、これただ一つの為に一つの年中行事を設定した気づかひは先ず無いのだから、何かもっつと強い理由が別に有ったと思ふ。

 私たちの心づくのは、この二度の朔日には、共に前からの準備があった 。殊に十二月の方は数日にわたって、普通で無い日が前にあり、土地によってはそれを忌とも謂って居た。さうして他の一方には、両月とも、更に大切な節日はその後に又来るので、六月は七日と十五日、十二月は八日と十三日とが、今なほよく知られた行事の日であった。月の盈ち欠けを目標とした太陰暦の時代には、朔日くらひ目に立たぬものは無かったらう。よほどそのつもりで気をつけて居らぬと、今日から月がかはるといふことを知らずに居る。そんな月を目あてにして、節折目を設けるといふことはしない筈である。乃ち前月の末の近く、未明に起き出して眉のやうな細い月が、まだ東の山に残って居る頃から、気をつけてかぞへて居なければならぬ日であった。……以下略」

○用例2:「同上」:「同上」:「六月朔日の雪」(初出:大正4年7月、郷土研究3巻5号)より(定本13巻75頁)。 「折しも六月の始め、金を蕩す炎暑に忽ち指を落すばかりの寒気起り、積雪尺に余りしを以て、人夫燎(にわび)を焼いて雪中の寒気を凌いだ。今この近郷六月朔日に燎火を焼くはその時の名残である云々(新編武蔵風土記稿百九十一)。上州碓氷郡豊岡村不動堂の縁起に曰く、八幡太郎この地の山窟に安倍の残党を退治せられた時、自分は火性で本年は水性なれば……、翌六月朔日不思議にも雪一重降って川岸の松の葉が白かった。依ってこの地を薄雪郡土用寒ノ庄と謂うたのが、終に転じて碓氷郡豊岡村となった云々(行脚随筆中)。この雪は何か特に六月も朔日の日に降るべき仔細があったのでは無いか。近世にも六月を正月に祝い直して凶年を避けた話があったやうに思ふ。」

(2)折口信夫

○用例1:「折口信夫全集2」中央公論社、1995(平成7)年3月初版 (初出「古代研究 第一部 民俗学篇第一」1929・昭和4年4月10日):折口信夫「若水の話」より:「其が又、一年の中にも、二つの年の型を入れて来た。国家以後の考へ方と思ふが、一年を二つに分ける風が出来た。此は帰化外人・先住漢人などの信仰伝承が、さうした傾向を助長させたらしい。つまり中元の時期を界にして、年を二つに分ける考へである。第一に「大祓へ」が、六月と十二月の晦日(ツゴモリ)に行はれる様になつたのに目をつけてほしい。遠い海の彼方なる常世(トコヨ)の国に鎮る村の元祖以来の霊の、村へ戻つて来るのが、年改まる春のしるしであつた。
 其が後には、仏説を習合して、七月の盂蘭盆を主とする様になつた。だが、其以前から既に、秋の御霊迎(ミタマムカ)へは、本来の春の霊祭(タマヽツ)りに対照して、考へ出されてゐたのであつた。常世神の来訪を忘れて了ふ様になると、春来る御霊(ミタマ)は歳神(トシガミ)・歳徳様(トシトクサマ)など言ふ、日本陰陽道特有の廻り神になつて了うた。さうして肝腎の霊祭りは秋が本式らしくなつた。坊様に、棚経を読んで貰はねば納らぬ、と言つた仏法式の姿をとつて行つた。
 極(ゴク)の近代まであつた、不景気の世なほしに、秋に再び門松を立てたり、餅を搗いたりした二度正月の風習は、笑ひ切れない人間苦の現れである。が、此とて由来は古いのである。ことし型の暦はわるかつたから、こそ型の暦で行かうと言ふのである。」

○用例2:底本:「折口信夫全集 第一卷」中央公論社,1954(昭和29)年10初版(初出:「民俗 第四卷第二號」1929・昭和4年1月):折口信夫「まれびとの意義」:「其に尠くとも今二つ、有力な原動力が考へられる。其は、祖先の一部分が曾て住みつき、或は經由して來た土地での農業暦である。それから、新古の來住漢人が固有して居た季節觀である。我々の祖先の有力な一部分は、南島から幾度となく渡つて來た事は疑ひがない。此種族が、わが中心民族の祖先と謂はないまでも――此に對しては、私は肯定説を持つてゐる。後に述べるであらう。――其等の南方種は、二度の秋の刈り上げをした。自然、種おろし・栽ゑつけには、暖いと暑いとの二度の春を持つてゐた。十一月の新甞祭がありながら、六月の神今食(ジンコンジキ)の行はれた理由は、まだ先達にも、假説たり得るものすらない。私は、此をかう考へる。
陰陽道に習合せられて殘つて、其が江戸期まで行はれたものと見られる「二度正月」の心理であらう。同時に、徳政や古代の商變(アキカヘ)しなど言ふ變態な社會政策の生み出される根柢になつたものとも思はれる。大祓への如きも、單に上元・中元に先だつ季節祓へでなく、やはり一年を二年と見た傳習から出たものと見る方がよい樣だ。一年に一度刈り上げる國土に來ても、固定した信仰行事の上では、二秋(フタアキ)の舊郷土の俤を殘したものらしい。
  支那及び其影響を受けた民族の將來してゐた傳承では、めぐり神の畏怖は、まだ具體的にはなつて居ない。が、守護神の眼の屆かぬ季節交替期、所謂ゆきあひの頃を怖れる心持ちが、深く印象せられた。我が民族の中心種族の間にも、時の替り目に魂の漂(ウカ)れ易い事を信じて居た。其が合體して、五節供其他の形代を棄てる風が、段々成長して來た。日本に於ける陰陽道は、其道の博士たちの學問が正道を進んで居た間さへ、實行方面は歸化種の下僚の傳説的方式――必、多くの誤傳と變改とを含んだ筈の――をとり行はしめた。宮中或は豪家・官廳の在來の儀式に、方術を竝べ行ひ、又時としては佛家の呪術をさへ併せて用ゐる樣なことがあつた。其間に、呪術の目的・方法・傳説さへ混亂する樣になつた。七夕の「乞巧奠(キツカウテン)」の如き、「盂蘭盆會」の如き、「節折(ヨヲ)り」の如き、皆、鎭魂・魂祭り・祓除・川祭りの固有の儀禮に、開化した解説と、文明的な――と思はれた――方式の衣を着せたものであつた。
かうした變化法・吸收法を以て、外來の傳承に融合して行つたものである。だから、季節毎の畏怖を鎭魂又は祓除によつて、散却してゐた。勿論、上巳・端午には、支那本土でも、祓除の意味があつたのだが、我が國では、節分にも、七夕にも、盂蘭盆にも、八朔にも、玄猪にも、更に又、放生會にすらも、此側から出た痕跡が明らかに見えてゐる。
  鎭花祭(ハナシヅメマツ)りには、多少外來種の色彩が出てゐるが、やはり魂ふりに努めた古風が、少分の外種を含んで出たのである。寧、歸化種の人々に及んだ影響が、あゝして現れたと見るべきであらう。二度の大祓へに伴ふ鎭魂や、上巳・端午の雛神や、盆・七夕の精靈に對してする「別れ惜しみ」の式などは、芻(スウ)靈や死靈の祭り以外に、生きみ魂の鎭魂の意味が十分に殘つてゐるのである。
名は同化せられて行つて、上邊(ウハベ)は變化しながら、實は固有種と違つた意味に育たしめるのが、我が民族の外來文化に接觸の爲方であつた。だから、常識化し、傳説を紛らした道教の方式にたやすく結合して、傳承を伸して行つた。其で上元の外に、中元を考へ、季節の祓除・鎭魂を行ふことになつた。量り難く古い道教傳來の昔から、徐々にさうして進んで來て、祓除の根本思想を穢れの排除にあるとさへ古代に於ても考へるまでになつてゐた。吉事祓へが、凶事祓へに先だつてあつたことが考へられなかつたのは、全く道教の影響である。
神に扮し、又、神を迎へる爲の人及び家屋の齋戒や祓除をするのが元であつた。神としての聖(キヨ)さを獲むが爲の人身離脱が、祓へ・禊ぎの根本觀念であることを考へぬ人が多い。凶事祓へを原とする考へ方は、祓への起原を神にあるとした、凶事祓へが主になつた時代の古傳説に囚はれてゐるのである。吉事祓へは、畢竟たぶうの内的表現で、外的には、縵・忌み衣などを以て、しるしとした。
  季節のゆきあひ毎に祓除を行ふとゝもに、其附帶條件たるまれびとのおとづれを忘れなかつた。地方によつて遲速はあつても、まれびとの信仰は、ともかくも段々變化して來ずにはゐない。元々まれびとを祖先とする考へすら夙く失うて、ある地方では至上の神と考へ、又ある地方では、恐るべく、併し自分の村に對する好意は豫期することの出來る魔物とし、或は無力・孤獨な小人を神と思ひ、或は群行する神の一隊を聯想したりして來た。而も青蟲の類をすら、此神の姿とするものもあつた。行疫神をも、此神の中にこめて見る觀察も行はれて來た。
  おとづれが頻繁になつて、村の公事なる祭りでなく、一家の私の祝福にも、常世神が臨む樣になる。殊に村君の大家(オホヤケ)の力が増せば、神たちは其祝福の爲に、度々神の扮裝をせねばならぬ。其以外の小家でも、神の來臨を請ふこと頻りになつて來る。
  酒は旅行者の魂に對する占ひの爲に釀されたものだが、享樂の爲に用ゐる時にも、ほかひはせねばならぬ。壽詞は昔ながらで、新釀(ニヒツク)りの出來のよい樣に唱へると言つた形をとつて來るわけである。家々の婚禮にも神が臨み、新室開きにも神が迎へられる。釀酒にも、新室にも、神の意識は自他倶に失はれて了うた。とようかのめにことゞふ神は、夙く大刀うち振ふ壯夫と考へられ、家あるじの齡をほぐ神は、唯の人間としての長上の尊者としてあへしらはれた。
  此通りまれびとは、必しも昔の樣に、常世の國から來ると考へられた者ばかりではなくなつた。幾種類ものまれびとがあり、又、神話化し、過去のことになつたのもあると共に、知らず識らずの間に、やつした神の姿を忘れて、唯の人としてのまれびとが出來た。又、衣帶(エタイ)の知れぬ遠處新來の神をも、まれびとに對して懷いた考へ方に容れる事になつた。一つは、新神の新にして、萎えくたびれない威力を信じ畏れた爲もある。が併し、如何なる邪神にでも、鄭重なあるじぶりと、纒綿たるなごり惜しみの情を表出して、他處へ送る風の、今も行はれて居つて、其が盂蘭盆の聖靈送りなどに似て居るのを見れば、自ら納得の行くことがあらう。其は遠來神・新渡神に對するのと、精靈に對するのとは、形の上に區別がないことである。即、常世の國から毎年新しく、稀におとづれ來る神にした通りの禮式を、色々な意味のまれびとに及したのである。決して單純に、邪神に媚び事へて、我が村に事なからしめようとするのだといふ側からばかりは、考へることが出來ないのである。」

 

(3)本居宣長:『日録』:「今月、町々家々正月之儀式ヲナス、或餅ツキ、豆ハヤシ、雑煮等アリ、甚シキ者ハ、門餝〔かざり〕、松ヲタツルニ至ル、他国ヨリ段々流行来ルト也」(宣長全集16巻―147頁)……安永七(1778)年六月の記述。

 

(4)『日本民俗学辞典』(中山太郎著):「正月のし直し」(「奇態流行史」ヨリ)(656ページ):「旱魃洪水虫害等が連続するか、兵乱相続くか悪疫流行甚だしき際には不時に正月祝ひをすれば凶災免れ有べしと信じ、餅つき門松立て注連縄張り屠蘇酒酌む事が、中古以来間歇的に各地で行はれた。安永七年に疫癘除〔えきれいよけ〕として六月朔日を正月元旦とし、天明八年五月、安政五年八月、明治四十三年十一月等に同様の事が行はれた。」

(5)現代の時代小説家、杉本章子作「はやり正月の心中」(「週刊新潮」1994年6月16日号に発表。新潮文庫:時代小説:第3巻に含む)

(6)キーワード「ナデシコ」:日本女性の代名詞「ヤマトナデシコ」の語源となっているが、不幸・災厄除けの時に飾る花としても記録にのこされていて、近世江戸の町で災厄が多い年の六月朔日に行われたという「はやり正月」の時に飾られた。

 

 

【はらか】【腹赤】  そのうちにかきます。

 

ひ―HI

【ひのためし】【氷様】 →氷室。正式には、「氷様の奏」。宮中正月1日に行われる元日の節会に各部署から天皇に奏せられる一つ。中務省陰陽寮から今年の七曜暦を奏上したのちに、宮内省主水司から氷様を奏上する。氷様の奏に続けて、太宰府から腹赤贄(はらかのみにえ)を進める。氷様は、前年の氷室の設置数やその状態、または氷池の氷の厚い薄いを奏聞する儀式で、氷が厚くはれば吉、豊作を予報したが、氷が張らなかったり、薄かったときには、この儀式は行われないときもあった。

【ひむろ】【氷室】 冬の氷や雪を夏まで蓄えておき、夏になってから蓄えていた氷や雪氷を利用するための貯蔵施設。氷や氷室の利用については、下記の専用ページを設けてあるので、ご覧下さい。

○氷食論―氷と人間のふれあいの歴史について

○氷食論2(MANAライブラリー・氷の文化史)

       日本氷業史・氷室文献雑録

   ―皆川重男、桑野貢三、田口哲也、川村和正氏らの著作、近代新聞雑誌記事より―

○味探検で紹介した、かき氷や、氷室、アイスクリームなど冷たい食関係は、以下の通り。

   ◇かき氷

   ◇アイスクリーム

 

 関連語 (キーワード)=氷。天然氷。かき氷。氷水。水売り。すいか売り。夏の文化史。中川嘉兵衛。皆川重男。氷様(ひのためし)の奏。雪合戦。雪打ち。雪投げ。雪礫(“ゆきつぶて”と書き“ゆきなげ”“ゆきうち”と読むのか)。雪廻(ゆきまろげ)。

 雪と氷→人と冷たさとのふれあいの歴史を前提に考えると、雪⇔冬、氷⇔夏という区分けができそうだ。⇔季語。俳句や歌の世界。夏の文化史の成立。

 三伏⇔盛夏

 西瓜→すいか売り……「暑苦しい夏、これさえあれば雪山氷海を踏ずとも」凌げるものとして、「西瓜」「西瓜売り」をあげている。(「風俗画報」bP25、明治29年10月20日発行号「江戸市中世渡り種」西瓜売りの図あり)

 井戸冷やし西瓜

  ……「炎天に市中を“エイ井戸冷し西瓜スイカ、真赤[マッカ]”と大声を発して船形の車を引き、大桶に西瓜まくわ瓜を水につけ、其風も白晒[シロサラシ]に水浅黄色の大浪形を横様せしを着し、白股引にて小走りに呼びあるく」(「風俗画報」bP48、明治30年9月10日号「京都売物屋の風俗」)

 六月⇔水無月……常夏月(とこなつつき)、風待月、いすすくれ月、涼暮月(すずくれつき)、松風月、鳴雷月。冷や菓子の考察。6月朔日の文化史。→【二度正月】【はやりしょうがつ:流行正月】

 海水浴→「風俗画報」bX7、明治28年8月10日号。大磯の海で海水浴の図あり。参考図「錦絵『五代目 尾上菊五郎』大磯海水浴場にて水着になる図」あり。

 仙洞御所のお冷しの考察→虎屋との関係いかに。

 江戸の氷餅……駒込真光寺には、小さな山を富士に見たて、富士参りを行う習わしがる。むかし、この小山の大木のもとに、六月朔日に大雪が降ったという伝承がのこる。人々、みなこの木に近寄ることを恐れ、ここに富士権現を勧請し、富士参りと称して毎年5月晦日より貴賎を問わず群集したという。ここに、氷餅などの商いが行われてきたがいつしか消えたという。(「風俗画報」aH明治27年1月30日号「江戸歳時記六月朔日」より)。 6月朔日の文化史。→【二度正月】【はやりしょうがつ:流行正月】

 氷の商人“氷供御人”

 

 

【ひゃっこい】 →【水売】みずうり 冷水売りの呼び声。

【冷水売り】ひやみずうり →【水売】みずうり

 

ふ―HU,BU

ぶっかけ】 そば、うどんなど麺類の食べ方のひとつ。文字どおり“ぶっかけ”るものは汁(しる)であり、「ぶっかけ」という単語で、ぶっかけそばを指す(“うどん”についても「ぶっかけ」というかどうかは、未確認)。「かけ」は「ぶっかけ」から生じた言葉としてよいだろう。食文化史として、汁をかけて麺類をたべる食べ方の時代を推定しようとしても意味はないのではないか。麺と汁と器さえあれば、この食べかたは可能なのだから、麺が生まれた時代に遡って考えてみてもしょうがないだろう。

  「ぶつ」は「打つ」で、うつ、たたく、なぐるの意味から、さらに強調したり、乱暴(強引)に……する、という使い方をする。『全国方言辞典』(東條編)では、「打つ」の仙台方言、とある。蕎麦を「ぶつ」(打つ)は、栃木県でもよく聞くので、関東以北に広がっているのかもしれない(分布域未確認)。

  「ぶっかけ」がぶっかけそば、うどんを指すようになった時期は、ほぼ特定できるという。三田村鳶魚文庫5『娯楽の江戸 江戸の食生活』の「蕎麦と鮨」に、  

「ぶっかけ」というのが、今日の「かけ」であるが、この「ぶっかけ」という言葉は、明和の頃から使われている。(鳶魚江戸文庫5―284頁)

  とある。

  明和は、1764〜1772年。『三田村鳶魚 江戸生活事典』(稲垣史生編)の「江戸風俗年表」にみると、「食物の辻売り・屋台店始まる」「料理屋はじまる」とある年代にあたり、その10年ぐらい前の宝暦年代に「早鮨が市販さる」とあるように、江戸庶民の外食のバリエーションが増え、定着したころにあたる。

  笠井俊彌『蕎麦』(岩波書店)268頁に、「ぶっかけ」の項あり、宝歴、明和年代の川柳の用例があり、参考となる。

  植原路郎『実用そば事典』の「ぶっかけ」の項には、「元禄ごろからのものであろう」とあるが、とくに根拠を示していない。

【ぶっかけ】その2  鳶魚の文章に、前記「蕎麦と鮨」の記述を補足して、「ぶっかけ」、「もり」などの言葉を使い始めた時期について、出典を明記した「蕎麦屋の繁昌」という文章があるので参考に引用しておこう。

「一体蕎麦は皿盛りにするのが丁寧なので、井にするのが略した方であったそうです。皿盛りの風は、天保度まで残っておりました。今日でみると、芝居へ行った時に、更科〔さらしな〕の店では、皿盛りにして蕎麦を持って来る。何だか変なような気がするけれども元来はあの方が本当らしい。それから少し前のところになると、大平〔おおひら〕に盛って来る。ですから、古いところは、蒸蕎麦は蒸籠に載せるし、さもないのは饂飩桶へ入れて来る。それが大平盛りになり、皿盛りになり、丼となって、また蒸さない蕎麦をも、見てくれのいいように蒸籠へ盛る、ということになったものらしい。「ぶっかけ」というのが今日の「かけ」ですが、この「ぶっかけ」という言葉は、明和頃のところにいくらも使われています。あるいはもう少し古くからあるかも知れません。『道外百人一首〔どうけひゃくにんいっしゅ〕』の中ですから、元文くらいだろうと思うが、「一八ぶっかけ」という言葉がある。「ぶっかけ」は随分古いものと思われます。晒落本の中に書いてあるのは、たしか天明くらいのものとみてよかろうと思いますが、亭主が「かけ」を誂えているのを、女房が、それは「もり」にした方がいい、残ったつゆを冷たい飯にかけて食おうと思うから、ということを書いたものがある。「もり」という言葉は、いつから出来たかわかりませんけれども、もう天明にはあったに相違ありません。無論「もり」になれば、丼じゃないはずだし、桶でもないはずだ。それだから皿盛り、それから体裁を造って大平へ盛るということは、極めて便利な法で、一番略した仕方だといっている人もあります。」(鳶魚江戸文庫9「江戸ッ子」249〜250頁。中公文庫、三田村鳶魚著、朝倉治彦編)

調味料論その1―ダシとタレの言葉の意味について

 

ほ―HO

【ほっこり】【ほかほか】【ほこほこ】 この言葉の語源考は、下記サイトに記載した。

「ほっこりほいのほい」ってなあに?

   ―“ほこほこ”“ほっこり”の言葉の意味について―


ま―MA

 

【まち】 「まち」と「いち」と「まつり」の共通する意味を考えることは、人々がマチに住み、アキナイで生計をたて、そしてマチからマチへと移動をする旅=タビの源流へと導いてくれる。言葉遊びとしてはとてもどきどきするテーマである。

○中山道余話(2)―マチとイチ=町と市のことばの意味は同じであることについて

 

み―MI

【水売】みずうり  under construction

 

め―ME

【めぐり】廻り・巡り・メグリ(→【環境】)  この「めぐり」ということばを「里海」の訓みとして与えようと思う。「里海」は、里山を想い描きつつ、海沿いに住む人々が海での生業(なりわい)と陸での暮らしを成り立たせることを前提として、海や浜や磯と陸上の自然環境をも守っていこうとする意識、あるいは運動の過程で、その対象となる、一定の広さをもった「海と海辺の社会的、経済的、自然的な関係」を言い表すことば、といいかえることができるかもしれない。わたし自身、「里海」を「めぐり」(海のめぐり)と呼ぼうということに、それほどのこだわりをもっているわけではない。沿岸地区及び沿海地区の英語圏におけるエンバーロンメント(environment)の訳語とした、「環境」ということばが、現代の日本に、ほんど無意識・無批判に定着してしまっていることに対する疑問が昔からあり、「環境」ということばの再確認の作業をする過程で、ふと、であったことばが、「めぐり」であったにすぎない。なんでもかんでも、「環境」ということばで、現代の自然や社会・経済と人とのかかわりを語ってしまおうという、安易な思考回路に、もうチョットわかりやすい表現で言いあらわせないかと、自らに再考を促す意味もあって、「環境」ということば、あるいは概念や観念について、日本人が昔から口にしたり表現してきた言い表し方について整理をしておくことも必要だろうと考えたからである。その意味において、環境と里海とのかかわりの考えをすすめると、(a)自然景観の領域や社会生活範囲といった広さや境界をどのように位置付けるかの「地理的範囲」あるいは「社会的領域」としてのとらえ方、と、もう一つ(b)漁師の暮らしをもっと活性化させようとか、漁村振興やあるいは自然環境の保護・保全という場合の達成目標となる運動論的な象徴的な概念としてのとらえ方に分類できそうである。

    まず、「環境」とはどんな意味をあらわすことばなのかを、いくつかの辞書から引いておくことにしよう。

    (1)環境という言葉の意味について

 [A] 環境(カンキョウ)……『大言海』メグリ、カコム境域。元史、余闕伝「環境築堡砦、選精甲、外扞而耕稼其中」(a)「人ハ環境ニ支配セラル」/『広辞苑』(1)めぐり囲む区域。(2)四囲の外界。周囲の事物。特に、人間または生物をとりまき、それと相互作用を及ぼし合うところの外界。自然的環境と社会的環境とに分けることができる。/『諸橋大漢和』(1)めぐり囲まれた区域。〔元史、余闕伝〕(a)に同じ。(2)人の周囲の事物。四囲の外界。/『国語大辞典』(小学館)(1)四方のさかい。周囲の境界。まわり。元史・余闕伝(a)の前段。(2)まわりの外界。まわりをとり囲んでいる事物。特に人間や生物をとりまき、それとある関係を持って、直接、間接の影響を与える外界。自然的環境と社会的環境とに大別する。*パーカー氏統合教授の学理(1900年―明治33年)〈市川源三〉「故に人類進化の過程を明かにせんとならば、其の環境、事情、勢力等の……以下略。」〔語誌〕漢籍に見える(1)が原義。(2)の意は、はじめ「環象」(「哲学語彙」のenvironmentの訳語)あるいは、「境遇」(同じくcircumstanceの訳語)という語で表していた。「環境」が一般化したのは大正期。/『社会学事典』(弘文堂)環境は、自然環境、社会環境、記号環境の総体であり、「自然」―「人間」―「社会」の客体的な「空間」の布置を意味する。……後略(筆者:田中義久)。

 [B] 環象(カンショウ)……『大言海』記載なし。/『広辞苑』周囲をとりまいている一切の現象。個人を取りまく社会的現象の類。/『諸橋大漢和』有機体の外囲にあって、有機体に影響を及ぼす総ての事情状態等をいふ。

 [C] environment……『研究社 新英和大辞典』(1)包囲、取り巻き。(2)周囲、外界。(3)環境、周囲(の情況)。(4)〔生物〕環境《生物体を取り巻く周辺の自然界の総和》。以下略。

  とりあえず、これくらいにしておこう。こうして、わが国の昔からの言葉で「環境」という言葉が定着するまでは、「めぐり」という言葉があることがわかった。われわれは、明治維新後に西洋言語の翻訳語を通して多くの西欧で培われてきた概念や観念に接し、身に付けてきた。実に便利ではあるのだが、欧米の世界で使われることばでは、表現しずらい(できない)ような事象や概念・観念までにも当てはめて使っている場合がけっこうある。

    なかでも、自然と人との関わりについての世界を表現する言葉の中に、翻訳語では意を尽くせないものが多いように思う。その理由を語りだすと、文化論や宗教論になってしまうから、これは、とりあえずとばして、現代の辞書では「環境」という字義にあてた「めぐり」や、その関連語を、昔の人々は、どのように使っていたのかの実例を拾っておくことにしよう。海と海沿いに暮らしていた場を、具体的にどのように眺め、また広さや対象物をどのように意識し、また、実際のくらしに役立てた言葉として使っていたのだろうか。そうした用例を見ておくことも、現代、大きく変貌してしまったとはいえ、海という自然の景観に含まれることになる「里海」を考えるための参考となるにちがいない。

    (2)「メグリ」という言葉の意味について

 [A] めぐり(回・廻・巡)……『大言海』(1)メグルコト。マハルコト。回転。(2)どうどうめぐりのノ略。(3)行キテ故(モト)ニモドルコト。歴テ来テ始ニ返ルコト。周。運。(4)物ノ外囲(ソトマワリ)。カコミ。マハリ。グルリ。周囲回。周囲。(5)アタリ。ホトリ。周辺。以下略。/『広辞苑』(1)めぐること。まわること。回転。(2)かこみ。周囲。(3)あたり。近所。(4)どうどうめぐり。以下略。

 [B] 「めぐり」の用例……万葉集に「海のめぐり」を想起するための格好の用例があるので引用しておこう。万葉集巻17、巻18、巻19は、越中国府に国主として赴任した万葉の編者の一人とされる大伴家持(おおとものやかもち)の短歌・長歌を中心に編まれている有名なセクションだ。今回、改めて読み直してみて、詩歌に歌いこめられた自然景観を表現する言葉の使い方に注目してみると、おもしろいことがわかってきた。右図は、家持が、拠点とする越中国府の位置と、当時歌の主題となる「布勢水海」(ふせのうみ・ふせのみずうみ)と富山湾沿岸の地名を概観したものである。布勢水海は、現在では干拓によって氷見の水田地帯となって、昔の入り組んだ入り江からなる湖の姿は、一部の十二町潟が残るだけになっている。古代の海岸線は、現代の2万5千分の一地形図の5〜10m等高線に沿って残る神社や遺跡によってほぼその姿が推定される(右上図。Aの上に描いた現氷見市に含まれる入り江は、古代の布勢水海の想定図を描く時余り描かれないが、地形図を見ると、布勢水海の推定湖面とほぼ同じ標高であるため、小水海が存在していたのかもしれないので、書き込んでおいた。)。閉鎖された淡水湖というよりも、現在の氷見市街の中心部Aのあたりで、富山湾とつながっていたと思われる(このことは未確認のため後に実際のところを調べることとする)。京都府の久美浜湾や天橋立で知られる与謝海のような閉鎖性だが、干満のある海面であったろうと地形から見ると予測される。こうした景観の予想図を参考にしながら、歌に記された「メグリ」が示す意味を、声を出して読んでみると、景色・景観を「眺める方向」と一定の広がりが浮んでくるのだから、これまで詩歌の素養などまったく無いMANAにとっても、実に不思議な経験となった。仔細な検討は、あらためてするとしても、このあたりに(といってもどのあたりなのかはまだ良くわからない)、日本人にとっての環境の捉え方の特徴を考えるうえでのヒントが隠されているような気がしている。

   (1)万葉集巻17より(岩波文庫版「新訂新訓 万葉集 下巻」佐佐木信綱編。以下同。) 

   ○大伴家持(3961) 白波の寄する磯廻(いそみ)をこぐ船の楫(かじ)取る間なく思ほえし君

   ○同(3962) 右は、天平十八年八月……、而して同じき年十一月、本任に還り到りき。よりて詩酒の宴を設け、……。……ここに守大伴宿禰家持、情を二つの眺に寄せて、いささか所心を裁(うた)ひき。

   ○同(3985) 二上山の賦一首{この山は射水郡にあり}/射水川 い行き廻(めぐ)れる 玉くしげ 二上山(ふたがみやま)は 春花の さける盛に 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて ふりさけ見れば 神(かむ)からや そこば貴(たふと)き 山からや 見がほしからむ 皇神(すめがみ)の 裾廻(すそみ)の山の 渋谿(しぶたに)の 磯の荒磯(ありそ)に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに ……以下略

   ○同(3991) 布勢水海(ふせのみづうみ)に遊覧する賦一首并に短歌{この海は射水郡舊江村にあり}/もののふの 八十供(やそとも)の緒の 思ふどち 心遣(や)らむ 馬竝(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 渋谿(しぶたに)の 崎たもとほり 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比(うなひ)河 清き瀬ごとに 鵜河立ち か往(ゆ)きかく往(ゆ)き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 船浮けすゑて 沖べこぎ 辺(へ)にこぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢむら騒き 島廻(しまみ)には 木末(こぬれ)花咲き 許多(ここばく)も 見の清(さや)けきか 玉くしげ 二上(ふたがみ)山に 延ふ蔦の 行きは別れず あり通(がよ)ひ いや毎年(としのは)に 思ふどち 斯(か)くし遊ばむ 今も見るごと

  ○同(3992) 布勢の海の 沖つ白波あり通ひいや毎年に見つつ偲はむ

  ○同(4017) 東風(あゆのかぜ){越の俗語東風をあゆのかぜといへり}いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣する小舟(おぶね)こぎ隠るみゆ

  ○同(4018) みなと風寒く吹くらし奈呉の江に妻よび交し鶴さはに鳴く

  (2)万葉集巻18より

  ○天平二十年春三月二十三日、左大臣橘家の使者造酒司令史田辺史福麻呂を、守大伴宿禰家持の館に饗へき。ここに新しき歌を作り、竝に便に古き詠を誦みて、各心緒を述ぶ。

  ○田辺福麻呂(4033) 波立てば奈呉の浦廻(み)に寄る貝の間(ま)無(な)き恋にぞ年は経にける

  ○同(4035) ほととぎす厭(いと)ふ時なしあやめ草(ぐさ)かづらにきむ日此(こ)ゆ鳴き渡れ

  ○時に明日を期(ちぎ)りて布勢水海(ふせのみづうみ)に遊覧せむとし、よりて懐を述べて各作れる歌

  ○田辺福麻呂(4036) いかにある布勢の浦ぞここだくに君が見せむと吾を留(とど)むる

  ○大伴家持(4037) 乎敷(おふ)の崎こぎたもとほり終日(ひねもす)に見とも飽くべき浦にあらなくに

  ○田辺福麻呂(4042) 藤波のさき行く見ればほととぎす鳴くべき時に近づきにけり

  ○大伴家持(4043) 明日の日の布勢の浦廻(み)の藤波に蓋(けだ)し来鳴かず散らしてむかも

  ○二十五日、布勢水海に往く道中にして、馬の上に口ずさめる二首

  ○田辺福麻呂(4044) 浜べよりわがうち行かば海べより迎へも来(こ)ぬか海人(あま)の釣舟(つりぶね)

  ○同(4045) 沖べより満ち来(く)る潮のいや増しに吾(あ)が思(も)う君が御船(みふね)かも彼(かれ)

  ○同(4046) 神(かみ)さぶる垂姫(たるひめ)の埼こぎめぐり見れども飽かずいかに吾(われ)せむ

  ○大伴家持(4048)  垂姫の浦をこぐ船楫間(かじま)にも奈良の吾家(わぎへ)を忘れておもへや

  ○田辺福麻呂(4049) おろかにぞ吾は思ひし乎不(おふ)の浦の荒磯(ありそ)のめぐり見れど飽かずけり

 ……MANAメモ=家持「布勢の浦廻」のウラミ、福麻呂「荒磯のめぐり」のメグリの表現のみごとさは、いったいどこから来るのだろう。「メグリ」の短縮形が「ミ」であるのかどうかは、国語学の専門家に今度聞いてみよう。いずれにしても、ただ美しい景観を眺めて愛でるという感覚よりも、もうすこし見ている対象について具体的な広さや長さや対象物までの距離感までも伝わるような表現であるような気がする。それと、メグリ=ミには、もうひとつの特徴がある。眺めている対象には、漁家や農家や狩猟者という生活者たちをも含む、都市生活者の目であるということ。現代に当てはめれば、市民が自然を見つめ実感する目であろうか。

 [C] 「めぐり」の用例(その2)……ムラとムラの境界を示す。ムラ境のカミ。

  ○『定本柳田國男集 第二十七巻』「廻り地蔵」――「村の境をメグリと云ひ、境の木を廻木と云って氏神神幸の霊場とする例は甲州東八代郡もと圭林村の熊野社にもあった(山梨縣市町村誌)。道祖も猿田彦も地蔵も共に境の神であるから、廻地蔵は単に境の地蔵という云ふことに過ぎなかったのを、何時の世にか廻りて祀を享くる由緒不明の神像に其名を転用するに至ったのかと考える。」(298ページ)

  ○墨田区向島2丁目の三囲神社(みめぐり神社)のメグリも、3本足で立つ鳥居や浅草を通る奥州街道(鎌倉道)沿いである砂州に立地していることから、よく調べれば「結界」のメグリとのかかわりがあるのかもしれない。 

 ……MANAメモ=万葉のメグリとミの表現は、美しさを感じた自然と生活者の息吹、生業の姿の一体化した対象をとらえた言葉だが、メグルの言葉の意味にある、「囲む」、あるいは「囲み」と「その外側」とのサカイの意味に通じることも指摘しておかなければならない。ムラザカイをメグリと呼ぶことは、城砦をメグラスというときの、攻撃者と攻撃を受ける城内のものとを隔てる壁の意味から、転じて、ムラとムラとのサカイをいうようになり、ムラサカイのカミが宿る霊域をも意味するようになったのであろう。

 (3)“メグリ”の中に暮らす生活者たちの視界や漁場を確認するための視角をあらわす言葉について。……海でくらしをたてる漁師・漁業者にとっては、生活し寝起きする住居や船着き場・船揚場や網干し場や漁具置き場や寄り合い所など港湾とその周辺施設、寺社などの集合である漁村=ムラがあり、また仕事場となるムラの地先や沖合の海域には「漁場」(ギョバ・ギョジョウ)がある。すでに、民俗学者により、この漁場や操業する場についてのことばの報告がいくつもなされているように、漁業者にとっては、自らの海上における位置を確認し、漁場の位置にぴたりと船を定めるために、海上から見渡せる陸上の標識物を「ヤマ」と呼び、位置を決めることを「アテ」ということは広く知られている。さらに、陸上から海を見渡せる岬や高台に「ウオミ」や「ヤマミ」と呼ぶ、魚群を発見する役割をもつ人や場の存在が知られている。

  [A]ヤマアテウオミの用例について(その1)……漁場の境界と位置確認によって使われてきた漁師ことばの妙をみておくことにしよう。

  ○内海延吉著『海鳥のなげき―漁と魚の風土記』(いさな書房・1960年刊)

   ――「海は広いが漁場はその広い面の一点であり、或いは短い細い一線である。」(漁場と魚道・91頁)

   ――「漁場をバと呼び、バは地形的にいって、ネ・セ・ヒラマ・カテ・ノマの五つがある。」「ネ(根)とは海底の岩礁で、海底の岩場で、海底に離ればなれにあるのと、大陸棚のように続いているのとある。この大陸棚の等深線をカテ、カテップチと呼ぶ。5、6百ヒロ以上も深いカテの淵は泥土が堆積していると考え、そこをノマという。中略。浅いところでも泥土の海底をノマという。沼の訛音である。」(漁場の地形・92頁)

   ――「セ(瀬)とは一般には浅いところのことであるが、漁場の場合には特別の意味があるようだ。このセの名で呼ばれる漁場は房総半島の突端に、メラゼ・カワナゼ・ナカノセ・ハサマゼ等がある。これらは陸の海中へ延びた背と解すべきか。このセとセの間の海溝を漁師は川と呼んでいる。海底の平らな砂のところをヒラマと呼ぶ。」(同・同)

   ――「バはヤマを立ててきめる。ヤマといってもそれは山に限らない。陸にあって目標となるものは総べてヤマという。ヤマの立て方は陸の目標となる2点を一直線に見通し、さらにこれと交わる別の2点を同じように見通し、その二つの直線が交わる点を、その目標となったものの名をつけて漁場名とする。」「三崎沖の昼イカ場は主としてトゲ山が原標となり、これに海岸の山・岬角・森・灯台・その他の特徴ある地物に合わせたり、外したりして東西の位置を見、これに交わる線を房州沖の岬先端に沖となるほど現れてくる布良(めら)の崎の塚状をなす小山の数によって、布良一塚、二塚、三塚といって南北(沖タカ)の位置を定める。しかし、東へ寄るに従ってその塚状の小山が洲の崎に隠れるから-中略-隠れて見えなくなれば、その代わりに内房州タイブサの鼻で見る。」(漁場の見方・92頁)

   ――「場は陸に教われとの言葉がある。海にも山脈があり、崖があり、谷があり、平地がある。水がなければ海底は陸と同じである。しかし、この言葉はそうした常識以上に、場に就いての適切な内容を持っている。例えば海岸が磯ならば海底は岩礁、砂浜ならばヒラマ、半島の地続きは海に入ってメラゼ、沖の山の背となったり、海岸線の屈曲がよく似ている等である。またムツ場の内バタ外バタに就いても、イヤドガケはその地山のイヤドのように幅が広く、安房崎ガケは安房崎のように幅が狭いという類である。」(場は陸に教われ・94頁)

   ――「〈鹿を追う猟師山を見ず〉と言うが、魚を捕る漁師は、漁があったといっては山を見、漁がないといっては山を見、道具を捨てたといっては山を見、年中山ばかり見て暮らしていた。」「押しも押されもせぬ一流の船頭の頭の内には、山を見れば海底の起伏が海図のように展開していたのだ。恐ろしい記憶力であり、知識の構成力であった。こうした船頭を、ヤマが良い・ヤマ心が良い・ヤマが固い・ヤマが細かいなどと言った。その反対がヤマが悪い・ヤマ心がない・ヤマがあらい・ヤマを知らないなどという。」(ヤマのよし悪し・100頁)

  ○貝井春治郎著『若狭の漁師、四季の魚ぐらし』(草思社・1997年)……MANA(中島)が聞き書きをしてまとめた本からの引用だが、貝井さんは「ヤマ」を「アテ」るといわず、「カケ」ると言う表現を使っている。ヤマアテを「ヤマカケ」という例である。

   ――「漁師が海上で自分の位置を知るやりかたを話しておきましょう。わたしらは、「ヤマカケ」というております。遠くの山の頂と近くの山の頂や目標物の先端を重ね合わせて目で確認することを山をカケルといいますのや。」「ヤマアテというところもあるようですが、わたしらはヤマカケという言葉を使います。わたしは、大敷網漁やタコ壷漁、コウイカ籠漁の道具を海にいれる場所を確認するときに、東西南北の方位を瞬時に見きわめます。」「青葉山は標高六九三メートルありますが、たしかに高浜港に近くなるとどこからも立派に見通せますが、岸からせりあがった独立峰のために、手前がわにカケルための適当な目標物がありません。そのため青葉山は、ヤマカケの方位を決めるときの中心点にはしますが、ヤマカケ自体は別の山々を使います。」(青葉山の山カゲに誘われてやってくるブリ・36頁)

   ――「間礁大敷網(まくりおおしきあみ)の位置を決めるとしましょう。青葉山からちょうど真北に音海(おとみ)半島があります。西に日引山(ひびきやま)という四ハ九メートルのはっきりと頂が特定できる山が音海半島ごしに見えます。手前にある風島(かざしま)の岩の頭を目標にして、この岩と日引山の山頂とを結び、洋上における自分の東西の緯度を確認します。南の方角からは槙山(まきやま)(四二九メートル)と手前にある三松(みつまつ)の森の背の高い木、あるいは中礁の岩頭を結んで南北の経度を確認します。その三本のヤマカケの線の交点に船をもつてくればいいというわけや。同じように日引山に対して手前に今戸ノかやみしおど鼻、しゆぅずの岳、風島、ことまり、貝山(塩土区では「かやみ」、事代区では「かいやま」と呼んでいる)、わにくり、くるさき、名島、小黒飯をそれぞれ結んだ線と、南のヤマカケの山としては、月のくら山(二五六メートル)、槙山、妙見山(一四〇メートル)やその東たかしまいねしまの峰にある忠魂碑などと、手前の中礁、鷹島、稲島や城山を結んで見立てた線とをいくつも組み合わせて海の上の位置を確認しております。しゆぅずといいましても、別に靴の格好をした岩があるわけではないんで、むかしから「志やうず」(清水が変じたらしい)とつけられたクリ(礁)の名称です。」(同・37頁)

   ――「わたしたち漁師にとって、青葉山は航海を見守ってくれる山ではありますが、もうひとつ大切な役目を果たしておるんです。高浜湾を岸沿いに船で走ってみるとよくわかるんですが、青葉山から北の音海半島に連なる山々のカゲがとぎれなく海に映っています。湾奥にいけばいくほど遠くからはそれほど目立たなかった青葉山のカゲが海にくっきりと映るんや。冨山の定置網の業者も高浜に来て、「ブリは岸伝いの深い山カゲができるのを知って回遊してくる」というて、「青葉山はちょうどブリが好みそうなカゲをつくっている」というのや。青葉山の山カゲに誘われてブリが寄ってくるということは、大敷をやるものは昔から聞いておりました。」(同・38頁)

  [B]ヤマアテウオミの用例について(その2)……

 

も―MO

【もどき】A:もどき(抵牾・牴牾)=(1)もどくこと。非難。(2)歯のこまかな鋸。(3)日本の各種芸能で、主役を揶揄したり、模倣したりして、主に滑稽を演ずる役。

  B:もどき(擬)=接尾語=他の語についてその風采・風情に似てたように作りたてられている意をあらわす。まがい。「芝居もどき」「がんもどき」(広辞苑)

  〔用例〕鮒膾・鮒擬[もどき]膾〔『合類日用料理集』元禄2(1689)年〕。「あんこうもどきといふときは、此汁をまねたること也」〔『古今料理集』―『本朝食鑑』(東洋文庫版)第4巻、注釈274ページ〕

  ○松もどき(まつもどき) 〔ナスの切り方について〕【洛陽集】に切形や青海水に茄子浮(元好)、塩鯨茄子の浪に寄にけり(友吉)今まつもどきといふやうに切たるなるべし。松もどきとは、松茸に似せて切たるなり。又丸ながら竪にきりめを多く付る茶筅茄子という所見なけれど近頃の名には有べからず。又竪に二つにわりて切り目付たるは蓮の花びらに似たり、こを蓮花茄子といへり。(『嬉遊笑覧』昭和33年刊・緑園書房版) 

 


や―YA

 

【焼き芋】やきいも「ほっこり、ほかほか、ほこほこ」へ

 

【雪あそび】【雪合戦】ゆきがっせん・ゆきかっせん。【雪打】ゆきうち。【雪まろげ】。→氷室(ひむろ)。冬の雪や氷の遊びについては、

ニチレイHP・人と氷のふれあい史「くらしの中の氷」その1・その2・その3・その4

  の、その4「氷遊びと春を待つ歌」で書いた。このなかで、ふれることのできなかったことを書いておこう。いまや「雪合戦」というと、将来はオリンピックの種目入りか、などとテレビで紹介されるほど、雪国(とくに北海道)の冬のスポーツとして、国際ルールが定められ、さかんに競技会がおこなわれるまでになった。ドッジボールの雪投げ版にアメフトのスピード感をあわせたような競技だが、二つの分かれたバレーボールのコートを大きくしたぐらいのコートを野外に作り、雪の玉をあたらないように防護壁が用意されており、その防護壁をうまく使い、相手陣地に雪だまにあたらないように1人でも攻め込んだほうが勝利を収めるというようなルールのようだ。

   この雪合戦のルーツについては、冬の悪魔率いる冬軍を夏の大王が率いる夏軍との闘いを氷のかたまりを投げ合って、結局は毎年夏軍が勝利を収めるというヨーロッパの森の祭りにあると書いたのだが、この出典は、フレーザーの「金枝篇」にある有名な話に若干脚色を加えて示したものだ。べつにヨーロッパでなくとも、春迎えの祭りや行事は、人の文化的な生業がおこなわれるようになれば、自然と発生してきたものだろう。ただし、その場所は、春夏秋冬のような温帯域で、しかも冬に、雪や氷に閉じ込められる厳しい気候があってこそ、春を待ち望み、そして農耕や狩猟という生産活動にいそしむ季節を迎えるという1年の節目をくらしの中でもつことのできる地域でおこなわれる“あそび”であり、年中行事化すると“まつり”となるのであろう。森の精霊やヤマノカミさまや冬のカミさまが暮らしに根付いている人々によって、自然や気象風土とともに生き抜いていくなかで信仰し、たいせつにされる世界・社会のなかで営々と続いてきたということなのであろう。

   そういう観点から、雪合戦や氷合戦、雪だるまあそびをみることもできるのだ、ということを「氷遊びと春を待つ歌」の拙文では書いた。

【よめがさら】【よめのかさ】ヨメガサラ・ヨメガカサについてのFISH−ML情報(2005年7月8日〜9日):おもしろいメールの交換になったので整理して載せておきます。
(1)MANAなかじまです。私の手元にあった資料でこれまで、崩し字の早行書体でルビがふってある字を読めなくて、まったくお手上げの貝の名前について、ふとしたことから、それが「よめかさら」と読めるのがわかったのです。ネットの検索や、手元の貝類図鑑でみると、巻貝の仲間「ヨメガカサ」の別称と書いてあります。
そうとわかって江戸時代の漢字辞書を調べると、虫ヘンにツクリを戚(親戚のセキ)とかいて、ヨメガサラとあります。
 貝類の名称の一覧に含まれるので、貝類であることは分かっていたのですが、最近、又別の本で、この虫偏にセキの字の漢字が出てきて調べなおしたら「ヨメガサラ」だと分かったのです。
ちなみに、この漢字は「ヒキガエル」のこととなっています。
ヨメガカサ、ヨメガサラの地方方言や名前の由来などについてご存知のかた、ぜひどういうことでもよいので教えてください。(MANAしんぶん なかじまみつる)

(2)MANAさま:こんばんは、忠です。:貝類の図鑑は、あまり見たくないというのが本音なのですが(笑)とりあえず見てみました。日本及び周辺地域軟体動物総目録には、
C . toreuma (Reeve, 1855) ヨメガカサ(目八)=ヨメノサラ(大本)
と書いてありました、和名の由来は目八譜からではないかと思いますが。
=ヨメノサラ(大本) とあるので、なんじゃそりゃ?
と思い貝類図鑑をひらくとヨメガカサの別名にヨメノサラがあるのだとか。
地方方言や名前の由来などのお話は面白いので、いろいろ聞けるといいなぁ〜と思い、反応したしだいです。
おそらくご存じの事を書いてしまったのだろうと思いますがお許しを。。。
それでは(^^)/~~

(3)忠さま:MANAです。:すぐ返信いただきありがとうございます。
〈和名の由来は目八譜からではないかと思いますが。)
ありがとうございます。貝類の名称については、まったく知らないのです。
「目八譜」は現物見ていませんが、これが1850年ごろの本です。
ぼくが、まったく読めなかった虫偏にツクリが戚の字にルビがふってあるのが、魚名や貝名をずらずら並べている「字尽」(じづくし)の系統の本で「四民童子字尽安見」という寺子屋で使われる手習い(教科書)でして、正徳6年ですから1716年ですから、古くからあった貝の名前なんですねえ。こんな小さな目立たない貝に、嫁(よめ)の何がしという名前がついているのですから、面白いですね。
小さな貝と庶民の暮らしの結びつきは現代よりずっと深かったのかもしれませんね。(MANAしんぶん:なかじまみつる)

(4)MANAさま:また反応してしまった忠です(^^;

  > ありがとうございます。貝類の名称については、まったく知らないのです。
いやぁ〜私もまったく知らないのです・・・
> 「目八譜」は現物見ていませんが、これが1850年ごろの本です。
「目八譜」は、武蔵石壽著、1843年だったかしら
以前↓のリンク集から
http://www1.linkclub.or.jp/%7Esmano/linkpage.html

  インターネットでも見ることできるんだぁ〜と、知ったのですがクリックしたら表示しませんでした。
何処へ行ったのかしら?
「四民童子字尽安見」1716年ですか。興味がでましたが難しそうで私には読めないのでしょう・・・
「虫の名、貝の名、魚の名」2002年という本があって、これの貝類の話で引用された本がかれているのですが
 「貝盡浦之錦」大枝流芳著 1751年
 「怡顔齋介品」松岡玄達著 1758年
 「丹敷能浦浦」 1825年頃
 「貝類和名彙」 1907〜15年頃
などがあります、どれも古い書籍ですね
お持ちでない書籍があれば探してみるのも面白そうですねヨメガカサの話以外にも新たな出会いが期待出来そうな予感ですね。
しかし私には難しそうなので、この本達に出会えたら、面白い話などお聞かせください。それでは(^^)/~~

(5)すみません:忠ですが自己レスです。
> ■「丹敷能浦浦」 1825年頃
「丹敷能浦裏」でした変換をもう一回押すのわすれました。
失礼しましたm(_ _)m

(6)隠岐のなかがみです、皆様ご無沙汰してます。
ヨメガカサの隠岐地方の方言名は「ぼべ」「ごんべ」「せんた」「せんたべ
べ」「べべ」など地区によって異なります。島後地区ではこれの炊き込みご飯を「ぼべめし」とか「ごんべめし」とか言いますし、島前地区に住む私の知り合いは洋風に「せんたピラフ」にして食べたりします。
最近食べてないですね。名前の由来はわかりません。

(7)忠さま:MANAです。:「目八譜」は、武蔵石壽著、1843年だったかしら。
以前↓のリンク集から
http://www1.linkclub.or.jp/%7Esmano/linkpage.html

  インターネットでも見ることできるんだぁ〜と
知ったのですがクリックしたら表示しませんでした
何処へ行ったのかしら?
このリンク集べんりですねえ。
そうでした。国会図書館の電子ライブラリーに「目八譜」の15巻の2000ページ近い全ぺーじが載っているのでした。この電子ライブラリーは、すごいのですよ。
http://www.ndl.go.jp/jp/data/endl.html

   から入って、
http://rarebook.ndl.go.jp/pre/servlet/pre_com_menu.jsp;jsessionid=CEBA3334D06CFBF768F521111E3C4683?syubetu=1

  が全部のトップぺーじですよ。この検索で「魚」でも「水産」でも打って御覧なさい。
あっと驚く本が手元のパソコンの画面でカブリツキできますよ。
ぼくが、個人で蔵書をする必要がなき時代が来ているのだなあ、と実感させる国会図書館の情報公開制度による、国宝級の図書の画像が公開されているのです。
「目八譜」で検索して、その11巻のアワビ=石決明の巻きで、ヨメガカサは、その「十」に「娵」(女偏に取)=@、「@ケ皿」として出ておりました。(さすがにこのぺーじのリンクは張れませんでした)
「ビン書南産志ニ云。[虫+戚]、海中ニ生ジ石ニ附キ、殻ハ[鹿/几](鹿の仲間のキ、ノロの仲間?)ノ蹄ノ如シ……云々……」と彩色画像つきで4ページにわたり漢文交じり文で詳述されています。
図書館の本探しのための検索機能に使い慣れていると、ここまでそんなに時間をとらずにたどり着けます。すごい時代ですねえ。
いやあ、収穫でした。ありがとう、忠さま。
「字尽安見」もうすぐ整理しおわりますから、あとで関心があるようでしたら忠さまに虫偏の貝の部分の画像ファイルを送ります。(MANAしんぶんなかじまみつる)

(8)中上さん。MANAです。大感謝です。
〈ヨメガカサの隠岐地方の方言名は「ぼべ」「ごんべ」「せんた」「せんたべべ」「べべ」など地区によって異なります。島後地区ではこれの炊き込みご飯を「ぼべめし」とか「ごんべめし」とか言いますし、島前地区に住む私の知り合いは洋風に「せんたピラフ」にして食べたりします。最近食べてないですね。名前の由来はわかりません。〉
ボベやらベベやら、またまた危ない名前のオンパレードですが、貝の方言をやるとしょうがないのですよ。
それにしても、ボベ飯や、センタピラフ、食べたくなりました。(MANAしんぶんなかじまみつる)

(9)MANAさま:こんにちは、忠です。
> この電子ライブラリーは、すごいのですよ。
> http://www.ndl.go.jp/jp/data/endl.html

拝見しました6月にリニューしたみたいですね
だからリンク集から飛べなかったようです
紹介していただいたので遊んでみました(^^;
時々エラーがでるのは、まだ微調整中かもしれません。
> 「字尽安見」もうすぐ整理しおわりますから、あとで関心があるようでしたら忠さま>
> に虫偏の貝の部分の画像ファイルを送ります。

興味があるのは間違いない話ですが今の私がみても感想すらいえないと思います ;^^A
お気持ちだけありがたく頂戴いたします。
それでは(^^)/~~

(10)皆様 こんにちは:私、みか@横浜と申します。:こんなHP見つけましたので載せて起きます
ヨメガカサ:http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data01/a0037.html

   的外れかもしれませんが お役に立てれば光栄です

(11)みか@横浜さま:MANAです。
ヨメガカサ
http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data01/a0037.html

  ありがとうございました。
きれいな貝です。(MANAしんぶん なかじまみつる)
 


ら―RA

【ラスク】らすく →英語=rusk。広辞苑に「パンやカステラを薄く小さく切ってバターや砂糖などをつけて焼いたもの」とある。子供のころには、現在のようにスナック菓子やチョコレート菓子のようなものは限られていたから、ちょっと洋風でバター臭くってハイカラなおかしだけど、けっして上等なものではない、というような感覚で「ラスク」を食べていた。そのラスクは、四角くって、パンの上には砂糖を溶かしてバターやミルクのようなものを加えたものを塗りつけて焼いた「焼き菓子」の一種の感覚が強い。

   A例:「王様のお菓子」について=http://abocavo.web.infoseek.co.jp/boobeaujournal/03juillet/030705.htm

   B例:「お菓子ビジネスの成功譚」=http://www.yanoresearch.jp/pdf/teikan/venture/VentureReport-10.pdf

  ラスクは、「お菓子」か?、「パン」か、それとも「パン」から作った「お菓子」か?。スペイン語のroska=ねじれたパン、環のパン、2度焼きパン(要確認)から来ている説。いろいろあるが、つまり食べ残しのパン状のものを再利用しておやつにしたものがラスクなのだろうが、ゆかいなのは、この廃物利用の食品を、フランス語やカタカナ語の日本語の融通無ゲの造語の可能性によって「ちょっと高級感をもたせた」とハイレベル化をはかった商品をけっこう見かけるということ。上記の「王様のお菓子」をキーワードに「ガトーラスク」という商品に変化していく妙は、じつにおもしろい。むかしの下町のぼそぼそとして、なかには噛めないようなかたーい駄菓子が出世すると「ガトーラスク」になる。お菓子とパンとの境界線上にある食品としてみたラスク概念規定の遊びは十分にできそうだ。

   ○味探検「鎌倉街道探索編」=2003年9月18日掲載「キッキリキ」の「ラスク」の味余聞

 


わ―WA

【若水】わかみず →主水司(もんどのつかさ、もひとりのつかさ) 立春の日主水司が天皇朝餉に若水を奉納、年中の邪気を除くとされる。

   村田春海  朝日子のひかりまうとるわか水に

           汲まはや千世のはるの心を

 (風俗画報 bS、明治22年5月10日、19頁 図像アリ)

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