Profile


 

1949年埼玉県浦和市(現・さいたま市)に生まれる。

 

my family

 

家族  女房と女房の母親と女房の姪の4人と老犬1匹。中野区の妙正寺川沿い沼袋に住む。17歳になる柴犬Genkiは、2001年春のある日、ふらふらと散歩の途中に倒れた。命はとり止め、元気を取り戻したが、失明、ワンの声も失い耳も聞こえなくなってしまった。朝の散歩係りのぼくは、さしずめ毎日盲導人として彼の散歩中の五感役を果たしている。

 追補⇒近況 愛犬MOMO家族に加わる

 追補2⇒ワンぱ〜くクラブ中野(中野区平和の森公園なのドッグランに集まる愛犬の買主たちの集まりができました。ぼくも同会に参加、ホームページ作成などで協力しています。)

 追補3⇒近況 2005年2月26日〜28日六日町〜越後湯沢でスキー旅行敢行。ほんとうに久しぶりのスキー三昧の休暇をなりました。当日の写真here

 

仕事 フリーライター・出版企画会社経営。

 

my personal history

 

乳幼児  ほとんど記憶なし。

 

N小学校時代  公園の木に登って落ちたときの叫び声から、ギャーサンというあだ名がついた。別所沼という沼の浅瀬にはまっておぼれたことがあり、このときのPTSDによって泳げなくなってしまった。以後夏のプールや臨海学校は嫌悪感さえ感じた。水はきらいになったが、何度落ちても木登りはだいすきだった。庭のケヤキの樹上に板を打ち付けて自分の空間を作り上げた。木の上がマイルームだった。早朝からサッカー、ときどき教室で授業があって午後はソフトボール。日が暮れるまでまたサッカーという小学校生活だった。ゲルマニウムラジオ(じきにトランジスターになった)の組み立てやボルトに絶縁銅線を巻いてコイルにして強力磁石を作る「子供の科学」少年だった。近くの金物屋に入り浸り、5寸釘やボルトを眺めていると飽きなかった。腰にゆわえたひもにくくりつけた磁石を引っ張りながら釘拾いもした。アカと呼んだ銅線や釘を集めて鉄くず屋に売ると結構な小遣い銭になった。

 

T中学校時代  野球部に入るが、Sという教師に頭を殴られてやめてしまった。生物部に入り昆虫採集漬けとなる。仲間たちと荒川の河川敷、田島が原周辺を歩き回る。高尾山、奥多摩、秩父に足を広げた。とくに武甲山が好きだった。週末になると熊谷経由秩父鉄道の浦山口駅かお花畑駅からの登山道を登った。いまや、石灰岩の採掘で、牛の背のような雄大な武甲山の姿は見る影もなくなってしまった。美しい山姿を奪ったセメント会社を今でも恨む。蝶の採集からオサムシ、マイマイカブリ、ゴミ虫類の越冬昆虫の世界にのめりこむ。生物教師の指導で、カワゲラ、ヘビトンボなど水棲昆虫の採集をとおして荒川にすむカジカやハヤ、アカザなど川魚に興味を持つ。当時、荒川の河川敷に作られたゴルフ場が、ぼくらの絶好の採取地、遊び場を奪い去っていった。ゴルフ嫌いはこのときに始まったと思われる。11歳はなれた兄貴につれていってもらった長野県信濃四谷から登った白馬岳や唐松岳で高山蝶をはじめて知る。最後の夏休み、美術教師五月女先生と仲間で出かけた奥秩父縦走以来、山登りのとりことなる。

 

U高校時代  テンカのウラコーに入学したが、成績はびりから数えたほうが早かった。どんなに記憶をたどっても、教室暮らしの記憶はぽっかりと空洞となっていて同級生の顔も名前も思い出せない空白の3年間であった。

 

U高校山岳部 教室外にもう1つの高校生活があった。山岳部。夏の南アルプス全山縦走や冬の八ヶ岳縦走、春の荒川岳登攀……。縦走や積雪期登山の面白さを知る。当時のあだなはモドキ。バイキンやイヤミなどと呼び合う先輩同僚後輩たちとは、その後、ずっと付き合いが続き、新潟県平漂山麓の標高800メートルの二居集落に山小屋を建てた。山小屋を建てる前年の冬、49豪雪と呼ばれる歴史的な豪雪となる。廃屋を借りて仮の山小屋にしていたが、1日で50センチ、1メートルとふる日が続き、毎週末、雪降ろしのために小屋に通った。この豪雪の経験を生かし、2階+地下室構造の山小屋“ヒュッテ・アルペングリューヘン”が完成してもう10年以上たってしまった。

 

Y大学時代 大学の所属ガクブを聞かれると、山岳部と答えた。1970年代の学生運動もいっちょうまえに経験したが、たまたま入った学生寮のまん前が東京湾内に残された最後のノリ漁村であったことから、漁業や漁師の仕事に興味をもつ。このあたりが、山好きで泳ぎのできない人間が海と漁業をフィールドに仕事をする端緒となったのであろう。

 

Y大学山岳部 山岳部に入り年間最長120日近く山ですごす。アルバイトで金をため山に入り、下界に戻ればまたアルバイトの繰り返し。剣岳や穂高の岩壁、黒部の沢を登りまくった。夏合宿のテント生活で、不足する食料補給のために渓流釣りや山菜採取の技を磨いた。これが味探検の原体験とでもいえようか。テント場近くに現われたツキノワグマを撃ちに来た猟師に協力した礼にもらった熊肉ブロック。熊カレーにして食べた。散弾が打ちこまれたノウサギの足肉を焚き火で炙り焼きにした。肉をかむとガシッガシと散弾が歯にあたり食いずらかったが、ホックリとしたいい味だった。

 山菜のなかでいちばんのご馳走は、剣沢雪渓のとけぎわでとれるノアザミの新芽の天ぷらだった。タラノメやヤマウドなどより数段うまかった。黒四ダムの下流にBCをよく張ったが、同僚に釣り名人Hがいて、飯前に尺イワナを10数匹釣ってくる。大物が入れ食い状態だった。名人から川の流れをじっと見詰めて、水面下のイワナが見えるようになればすぐ釣れるよといわれ、その通り実行した。沢の大岩に座り、1日流れを見ていた。あるとき、ふっと流れの表面の波紋が消えて、イワナの姿を目でとらえることができた。

 

サラリーマン 25年間サラリーマンをする。

 

脱サラ 編集企画会社をつくり現在にいたる。50数年間の行動を凝縮したものが「味」「海」「本」「山」である。HPの対象から「山」を除いたのは、あまりにも情報がありすぎて、いつか余裕ができたらページを追加するつもりで楽しみにとっておくことにした。山でも、とくに、じっくりと腰を落ちつけて取り組みたいテーマが「峠」である。登山家大島亮吉著『随想・山』をむかし何度も読んだ。登山家は峰をめざし、旅人は峠を目差す、……というようなことを言っていたような気がする。峠は目標地点ではなく、通過点であるとともに、山人の交通路である峰の道と、里や町に住む人の日常道との交点でもある。峠に神が宿るものであれば、その神が道祖神の眼になって、人の行き交う歴史のドラマを見続けていただろう。峠はタムケ(手向け)の音韻変化だという説がある。峠を越える前に峠や山に宿る神や道行き倒れた人の霊魂に手を合わせ旅の安全を拝み、無事峠を越えて感謝の礼をしてまた拝む。

 このような道行く人の感慨を込めて、身近な場所にある、丹沢や奥武蔵や多摩丘陵、秩父の山や丘の峠を特に歩いてみたい。その名もなき峠の歴史を探し、記録に残ることのなかったドラマを掘り起こしたいのだ。いつか、継続中の「街道」歩きから「峠」をからめこんであらたなページを追加する日があるだろう。いつになるかは分からないが……。

 

my homepage

 

HPとの出会い 世のHPは、どれも簡潔かつ視覚に訴えかけるものをもって良しとしている。ところが活字好きのアナログ人間からすると、データ―ベースに重点に置いた私的HPが作れないものかと考えつづけてきた。しかし、HPの構造がちんぷんかんぷん。仕事部屋に散乱する新聞の切りぬき、資料やアイデアのメモを整理する格納庫のつもりでパソコンを利用し始めたのだが、時間ばっかりかかって、パソコンにいいように遊ばれっぱなしだった。

 ところが、初歩のパソコン操作術の本の執筆制作の仕事が舞い込んできて、連日連夜パソコンと格闘の末に、あるときインターネットのハイパーテキストの概念がすーっと分かった感じがした。それまでのちんぷんかんぷんだったインターネットの世界が、霧が晴れるように分かってしまった。それからというものフロントページ2000を利用してHPづくりにチャレンジ。試行錯誤の末、なんとかかんとか、第1号試作版「」ができあがった。

 ふと浮かんだアイデアと昔のアイデアとのあいだにぎっしりつまった、雑然とした情報の束を、ハイパーテキストのリンクによって、関連した情報どうしを瞬時につなぎ合わせることができたときは、まさにおどろきであった。パソコンが救世主に思えた。

 そして思ったのである。

 

記憶の糸すじ  あと数年、5年か10年後かわからぬが、頭が痴呆症状となりボケがきたとき、ためこんでおいた情報の蓄積を利用して、自分のおとろえた記憶やボーとした知識の確認をしたり、補うことができないだろうか。自分の名前すら思い出せない病におかされた人が、体で覚えていたキーボードの手さばきで、過去の記憶をたどっていく、こんなドキュメンタリー番組があった。

 ハイパーリンクの機能を駆使して、HPのなかにためこんでおいた情報によって、自分の過去と会話をする。そんな使い方ができるかもしれない、と思ったのである。

 私的なデータベースとしては、いまだこころもとない水準にしかないのだが、いちおうかたちができてきた。まあ、ここらでエイやっと公開してみたしだいである。

 したがって、このHPは、自分の性格がら、少々文字が多くなるきらいがあり、いまどきのひとからは敬遠されそうだが、もくじや索引機能に全文検索ソフト(勉強中)を働かせて、同じような関心を抱く人が万が一いたとすれば、必要事項を探しやすいように、適宜更新のさいに手直ししていくつもりだ。

 追記⇒全文検索ソフトNAMAZUの勉強は挫折した。Googleのネットサイト内検索機能で十分過ぎるほど満足できることがわかった。でも、NAMAZUの搭載の方法いつかマスターしたい。だれか教えて!!

」に偶然遭遇されたかた。こんな発想でできあがったものを、まあちょっと覗いて見るかと読んでいただければそれはそれでうれしいし、くだらん、この忙しいのにつきあえんと、飛ばしていただいておおいにけっこうです。

また、メールでお便りなど下されば感謝感激必ずやご返事を差し上げます。厳しいご批判もありがたく拝受致します。

 

 


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