味探検食単随筆 010901

Notes 江戸前考―その1

江戸前ずしのルーツのはなし

 最近ではフランスを中心に欧米で回転ずしがおおはやりなのだという。日本人だけが大好物だと思っていた握りずし。いまや健康食の代名詞として、おすしは地球規模でファンの輪を広げている。いったい握りずしのルーツはどこにあるのだろう。すしの代名詞ともなった「江戸前ずし」発祥から、現代の人気商法回転ずしまでの「すし物語」を早足で眺めてみることにしよう。

 

保存食としてのナレずし

―魚獣肉とご飯が作り出す発酵食品―

 

 琵琶湖の沿岸で古くから郷土食として作られてきた「フナずし」。あの、クサーいけれども、一度食べたら病み付きになる味の食品が、おすしのルーツである。

 古代の祭式をまとめた延喜式には、すでに福井県若狭から「鰒鮓(あわびずし)」や「胎貝鮓(いがいずし)」が神饌として都に納めらている記述がある。奈良時代には、アユやフナのような淡水魚や海産魚貝を米など穀類を炊いた飯の中に漬け込み、自然な状態で乳酸発酵をおこさせ、酸味とうまみと、時には臭みも味としてナレさせた保存食が完成している。

 これが、「ナレずし」と呼ばれるすし。こうした発酵食品は、弥生、縄文にまでさかのぼるといわれ、魚貝のほか、シカやイノシシの獣肉やヤマドリのような鳥肉の保存食としても生産されてきたことが考古学の発掘出土骨の研究からわかってきている。

 今でも、東北や北海道の郷土食にあるサケやハタハタの飯ずしは、このナレずし系に属している。

 室町時代ごろになると、漬け込みから発酵期間を経て完成まで長い時間を要するナレずしを、もう少し簡単に作って食べようとする「生ナレ」の加工法が誕生する。生ナレは、米飯の発酵時間を短くし、魚貝に酸味が程よくついた、まだ生の段階で食べてしまう。お魚もご飯も別々に食品としての個性を生かしておいしく食べる半発酵段階の簡便なおすしに発展を遂げる。

 これが、関西方面を中心とした「押しずし」や「散らしずし」として現代に受け継がれていくわけだ。

 

江戸っ子文化が生み出した「握りずし」

―江戸のファーストフード「早ずし」の誕生―

 

 生鮮魚貝獣肉の発酵食品は、ナレずし状の食品を含めて、世界中に多用なバリエーションの食品がある。ところが、「握りずし」となると、これに似た食品をちょっと思い出せないくらい、日本のオリジナル食品の典型といえるだろう。

 握りずしは、江戸の文化が作り出したといっても過言ではない。江戸っ子の、気短さや心意気、庶民性や旅や芝居の娯楽好きなど、江戸に生きた庶民文化が生み出した傑作食品のトップにあげていいだろう。

 徳川家康の江戸入りが1590(天正18)年。江戸幕府を開くのが1603年。この2年前の1601年に、家康は、天馬制度、いわゆる五街道に宿場を置く宿制を定めている。

 今年は、ちょうどこの年から400年目にあたり、宿場フェスティバルのような催しが各所で計画されている。

 江戸の文化を作り出すうえでいろいろな要因が考えられるが、ぼくは、この街道整備こそが、人とものと文化の交雑を生み出し、江戸っ子の粋な心意気を作り出すことに大きな貢献をしている最大の要因だと思っている。

 江戸市中の人口が急増するが、多くの人口を占めた庶民たちは今だ貧しく、手っ取り早く食事をするための屋台やぼてフリによる行商の物売りが数多く出回り、いわば外食ブームがおきる。

 ソバやウドンの類が中心だったが、当初は早ナレ系の押しずしが江戸市中でも食べられていた。「釣瓶ずし」や、お茶の水に今でも伝わる「笹まき毛抜きずし」や「こはだのすし」のような、塩も酢もきつい、握りずしとの中間型のすしであった。

 1800年もだいぶ回り、文化・文政のころになって、現代の握りずしスタイルのいわゆる「早ずし」が誕生する。酢でしめた魚貝を、握った酢飯の上にのせて食べる「握りずし」は、屋台の外食習慣の定着もあって、江戸の人々に大人気となった。

 「喜遊笑覧」(きゆうしょうらん)という本に、文化のはじめ頃、深川六軒掘りに「松がすし出できて世上すしの風一変し」とある、「松のすし」という高級料理店で開発され、その店の出身であったといわれる華屋与平衛が、文政始めに握りずしを江戸中に広めるスタイルを確立したとされている(他説もある)。

 当初、売り切れると数日後にまたおいで、という意味から「おじゃれずし」といわれていた商売が、ちょっと待ってねというぐらいの意味の「まちゃれずし」という握りずしの呼び名が付いたという。

 すしといえば、現代でもそうだが、お祝い事の日のいわばハレの食事という食品から、江戸っ子御用達の現代でいえばファーストフードにあたるような簡便なスタイルの握りずしの誕生は、確かに「世上一変」するぐらいの革命的な食品であったといえよう。

 

江戸前の豊かな魚たちが握りずしに

―そして「江戸前ずし」がすしの代名詞となった―

 

 江戸は、現在の東京湾という天然の良港と、遠浅の干潟をかかえた豊かな魚貝を生む漁場を抱えていた。江戸の後期には、百万人を超える世界第一の大都市となり、生鮮食品の需要はますます増大していく。各地から輸送されてくる物資にくわえ、幕府に鮮魚貝を献納することで広域的な漁業権を保証されてきた御菜八か浦を中心に、江戸の地先では活発な漁業生産が展開された。

 ところで、江戸前とはどこからどこまでを指すのか。

 狭い意味では、千葉県側の境である江戸川から多摩川の内側羽田沖が江戸前の海とするのが一般的だが、御菜八か浦に加えて、千葉県木更津・富津までの東京内湾を含めていうこともできよう。海上交通の歴史から見ても、中世から近世にかけては、内陸の通行より、金沢六浦のミナトから木更津のミナトを幹線ルートとするまさに「海道」が活発に利用されてきたことが知られている。この六浦⇔木更津のラインは、東京湾の外海の波浪を避けて1年をとおして比較的安全な航海を可能とした、外と内とを分けたラインとすれば、この内側(前後含めて)が、歴史的にも内海としての意識がされてきたわけであろう。自説というほどではないが、こういういい方をあまり見たことがないので、「海道内側が江戸前」と広く考えて、この海を江戸前という位置付けもできるとおもう(何年か前、鶴見の川沿いに住むわが師匠S氏の船外機つきボートで春ウララの日がな一日湾内散歩をして、海道の一ルートを案内していただいたことがある。そういえばこの話は、まだどこにも書いたことがなかったなあ。「三番瀬から湾内海堡海上散策記」とでもいうようなタイトルでいずれまた書くことにしよう。)。

 事実、こうした豊かな江戸前の海の多用な魚貝を握りすしとして成立させるために、後背地の利根川の海運によって成長した醤油や酢の醸造場の発展もあった。

 現在のマグロのトロを使った握りずし誕生は大正時代までかかることになるが、通じて、握りずしは庶民性の高い購買力によって支えられてきたのである。

 ところが高度成長期以降、いつ頃からか、すしは庶民の高嶺の花の食べ物に変わっていった。

 そして、10年ほど前から、この高級食品化への流れに、また変化がおき始めている。

 回転ずしや、すし握りロボットの発明によってスーパー量販店内での一個売り方式が定着してきた。すし本来の庶民性回復という意味では大歓迎である。

 また、日本の魚食文化の典型である握りずしが、回転ずしのスタイルによって、欧米でブームとまでになっているそうだ。それも、高所得者たちに受け入れらているというところも、日本のすしの風潮の逆を行く展開となっているのも、面白い現象だ。

 高級すしバーのような施設で、ドレスを着た女性同伴で回転ずしをぱくつく、逆輸入商品が受ける日本人だからこそ、そんな時代は遠くないのかもしれない。(続く)

○江戸の人々はお米が大好きだった。

○千葉県立上総博物館の「おすしの模型」はすごい。

○回転ずしこそ江戸前ずしの正式伝承食だとおもう。

○江戸前考。三田村鳶魚の「江戸城の前」「江戸前鰻」説が有名だが、鳶魚にしても、この他まだいろいろコメントをしており「江戸前」とは何ぞや、どこを指すのかについては諸説ある。江戸の漁業史や湾内漁村の変遷、街道整備、食文化史の観点も加えて、「江戸前」について整理をしてみたい。

……以下、また暇になったら書くつもりです。写真も入れます。

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