MANA Essay Notes-Crawfish


食用蛙とアメリカザリガニ

――その渡来年をめぐって――

酒向 昇 noboru sako

エビ研究家


 子供たちの夏の遊び相手、アメリカザリガニ(Procambarus clarkii)のわが国への渡来年について、『採集と飼育』(1986年6月号)誌上の“アメリカザリガニ渡来考”で大森信は、これまでの記録としては1930(昭和5)年6月というのがもっとも確かなようだが、もう少し古い時期であった可能性があると述べている。
 渡来地の鎌倉に近い私がザリガニを調べているうちに、このエビの渡来に係わった故河野芳之助とその弟故卯三郎との、それぞれ次男にあたる栄次さんと昭二郎さんにお会いできた。昭二郎さんは独自の調査により事実を究明し、アメリカザリガニの1930年渡来説の誤りを立証して、昨年(1986)10月、小文をまとめて関係者に送付している。私はここに、その実話と残欠資料を紹介し、これまで不透明であったアメリカザリガニの渡来年や食用蛙移植との関連についての疑問に終止符をうちたいと思う。
 この縞を草するにあたり、ご協力をいただいた、河野栄次、河野昭二郎、石井晴子、田辺義男、北大水産学部鵜沼わかの諸氏に厚くお礼を申し上げる。
 北アメリカ産巨大種の食用蛙(Rana catesbeiana)が、初めて東京帝国大学の渡瀬庄三郎教授(1862〜1929)により輸入されたのは1918(大正7)年5月であった。ただちに東京市芝区白金の東京帝大附属伝染病研究所の池に放養し、卵を得た。この飼育にたずさわったのは、助手をしていた河野卯三郎たちで、翌年秋には数百匹の幼蛙が生まれて、翌1920年9月、農商務省菖蒲嘱託からの懇請により、これを茨城県と滋賀県の両水産試験場に分譲している。これ以来、国指導の副業奨励事業として養蛙が全国的な拡がりをみせていった。
 これと軌を一つにして、1920(大正9)年(1921年説は誤り)に神奈川県鎌倉郡小坂村岩瀬にて、河野卯三郎の長兄河野芳之肋が民間初の“鎌倉食用蛙養殖場”(以下、鎌倉養殖場)を開設した(図1)。田圃をつぶして造った養殖池は、地元素封家の栗田繁芳から借用している。
 栗田と卯三郎は、ともに神奈川県立横浜第一中学校(現、希望ヶ丘高等学校)1910(明治43)年卒の同期生である。中学を卒業すると2人はそろって、札幌農学校が東北帝国大学農科大学(1907年9月1日から)に改まった予科に入学した。だが、卯三郎はまもなくホームシックに陥り、翌年春、仙台の第二高等学校を再受験するため退学している。栗田も入学した年に父を失い、家督を継ぐため退学した。従って、栗田繁芳の1884(明治17)年札幌農学校第4期卒説は誤りである。
 鎌倉養殖場経営者の芳之助は、そのころ横浜で七宝焼などの貴金属貿易商を営み、芳之助と栗田との出合いは弟卯三郎を介してであった。これまでの説のごとく、卯三郎が養殖場を経営したのではなく、兄芳之助の蛙養殖事業の協力者であったにすぎない。卯三郎が、それまで住んでいた東京の蒲田から芳之助が住む大船の新鎌倉田園都市へ転居したのは、彼が第八高等学校教授になって名古屋の大曽根町に移る前年1925(大正14)年6月であった。
 かくして鎌倉養殖場はアメリカのニューオリンズのSouthern Biological Supply社から種蛙を直接輸入し、国内はもちろんのこと、遠く北米にまでThe Kamakura BulI Frog Farmとして知られるようになった。その分譲した蛙は、北は樺太から南は台湾にいたるまでの全県にわたり養殖されている。
 このような事情のもとに、養蛙の知識が必要となり、養殖場は1927(昭和2)年8月15日、河野卯三郎校閲、河野芳之功編『食用蛙の養殖研究』を自費刊行した。この書は、蛙の種から始まり、形態、生態、養殖池の設計、養蛙法、餌料、害敵や料理法にいたるまで、東西の資料を駆使し、その科学的記述は懇切丁寧をきわめている。しかし、全巻を通じてザリガニの語は一片すら見あたらない。
 この著の校了をまって、芳之助は商用を兼ねての、生涯でただ一度の渡米を計画し、これに愛娘の長女晴子の同行を求めた。だが晴子は、自由学園在学中の故をもって渡米をことわっている。
 その後に、芳之助の遺品となって晴子の手許に渡ったアルバムの渡米記録によれば、芳之助の横浜発は1927(昭和2)年3月某日の春洋丸であり、3月12日には日付変更線を越えていた。アルバムには、商用のため各地に行った風物、さらに、蛙の生息する沼沢や取引相手のPercy Vioscaの写真もある。その最後に、注目すべき一葉の写真があった。色あせたこの写真には、“昭和2年5月12日横浜へ入港の大洋丸”と添え書きされている(図3)。
 このときのことは、弟の河野卯三郎遺稿集『吾輩はお魚である』(“お魚”は八高教授時代のニックネーム、1974年12月、自費出版)の一節に、次のように記されている。
“当時米国に居た私の愚兄(芳之助)が、日本に帰るとき生きたブルフロッグと、その餌であるアメリカザリガニを、ビヤダルに一杯持参し、大船の田園都市の近くに水田を改造して養蛙池を造り、蛙をザリガニと共に放養したところが、そのザリガニが野生になって大船一帯に繁殖したのが、アメリカザリガニが日本に渡来した始めである”
 このように、アメリカザリガニが日本に渡来したのは1930年ではなく、1927年であった。そして、池から逃げだしたザリガニが、大森の聞き取り調査にある“脇田惣士氏が1930(昭和5)年に岩瀬の小川で補ったザリガニ”と符合する。このときの蛙とザリガニの輸入を最後として、昭和初年の経済恐慌のさなか、鎌倉養殖場は自然閉鎖されたとのことである、 なお、前出の『食用蛙の養殖研究』にザリガニについての記載がないのは、この著が芳之助の帰国まもない8月15日に発行されたため、アメリカで食用蛙の餌料にザリガニが用いられているという最新情報が加筆されなかったのであろう。さらに、これまで渡来日のもととなった、1951(昭和26)年9月25日付の河野卯三郎から平岩馨あての私信の“昭和5年6月”について、昭二郎さんは、“これは父の記憶違いが原因で、当時父には24年前の記録がなかったために、ザリガニの渡来年を私(昭和2年1月12日生)と弟(昭和5年1月12日生)の出生年(同月同日)と関連づけて覚えていて、本当は私が生まれた年であったのに弟の生まれた年であったと錯覚したものと思われます”と述べている。        

『採集と飼育』第49巻第9号、1987年より

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酒向 昇(さこう・のぼる)

1909年、岐阜県美濃加茂市に生まれる。農林省水産講習所(現東京水産大学)漁撈科卒。水産庁、葛ノ洋をへて退社後は、エビと人間との関わりについての文化史的研究を続ける。現在藤沢市在住。

著書:「えび・知識とノウハウ」1979年刊(水産社)、「ものと人間の文化史54 海老」1985年刊(法政大学出版局)、「えび学の人々」1987年刊(水産社)、「えびに夢を賭けた男―藤永元作伝」1992年刊(緑書房)。最新著は、著者の自伝的色彩のある美濃加茂の柿生村、蜂屋村の産業学的見地を加えた郷土史「柿と百姓」1997年(自刊)がある。

共著書:「日本のエビ・世界のエビ」成山堂書店、「近代日本生物学者小伝」(平河出版社)など。


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