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味探検 江戸前シリーズ 14(東京新聞1997年5月1日首都圏情報ゆめぽっけ掲載) |
千葉県船橋・ふなっ子 とれたてイワシ料理がずらりと |
「イワシこーい」と中村勘九郎演ずるイワシ売りの歌舞伎があった。このところのイワシの入荷量の急減に「どこにいっちゃったんでしょうね」と「ふなっ子」のご主人・村山克巳さん。船橋港所属大平丸の大野一敏さんが東京湾でとったイワシを仕入れ、イワシ専門料理店を出して13年になる。 |
「ふなっ子」メモ 千葉県船橋市東船橋1−15−9。JR総武線東船橋駅下車歩き3分。南口を出て駅前通りを直進、一つ目の信号先右手に魚と港の大きな絵が目印。カウンター5席他1階20席、2階40席。(電)0474・23・3465。午後5時〜11時営業、日曜定休日。 |
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☆取材メモ 「イワシコーイ」の歌舞伎(鰯売恋曳網)について
[もの売り声〕試論―その1 イワシ売り
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●「いわしこーい」の歌舞伎とは、演題を「鰯売恋曳網」(いわしうりこいのひきあみ=原文タイトル「鰯賣戀曳網」)という。96年だったか97年の正月にNHKの歌舞伎放映でみて、勘九郎の演技もコミカルで面白かったのと、競演が坂東玉三郎とあって、ついつい引き込まれてかじりついて見てしまった記憶がある。(中村勘九郎と坂東玉三郎の前の演者は、中村勘三郎と中村歌右衛門。)
●あらすじは、京都五条の橋の上で、鰯売りの猿源氏(中村勘九郎)がふと見ることになった、輿に乗った姫の美しさに一目ぼれしてしまい、その姫のことが頭から離れられなくなってしまう。父親に相談をして、姫を探すと、高名な遊女・蛍火であることがわかる。身分違いの鰯売りでは会うこともままならず、父親が一計を案じて、猿源氏を大名に仕立てて廓に乗り出すことにした。蛍火に歓迎され、念願がかなった猿源氏だったが、蛍火の膝枕でグースカ寝入ってしまい、ふと、寝言で、鰯売りの売り声「いわしこーい」を発してしまう。……てなことがありまして、こんどは、紀州のさるお城のお姫さまであった蛍火が遊女ニなるためになぜ京の都に出てきたのかの因縁ばなしが次々展開していき、結局、猿源氏と蛍火は結ばれて、めでたしめでたしのハッピーエンドとなる話だ。 ●猿源氏の住む紀州の「阿漕が浦」(あこぎがうら)でふたりして鰯売りとなり、都に出てきては、「いわしこーい」と売り声を2人して掛け合う姿は仲むつまじく、姫を連れ戻そうと画策するお城の家来たちも、すっかり鰯売りとなった「蛍火」が「いわしこーい」という声になすすべもなく見過ごしている。という筋書き。歌舞伎としても、実に面白く、華があって、「いわしこーい」の売り声が忘れられなくなってしまった。 ●じつは、この「いわしこーい」とは、どういう意味なのか、言葉としては「鰯来ーい」というように聞こえたのだが、なんとなく疑問におもっていた。 気になって、すこし調べてみると、なんと、この歌舞伎の脚本は、三島由紀夫の作品だった。それも、昭和29年「演劇界」に発表し、その年の11月の歌舞伎座で初演されていた。中村座の元禄歌舞伎の様式を現代によみがえらせた戯曲であり、戦後の新歌舞伎のなかでも名作名演で知られた演目であった。(三島は、中村歌右衛門(6世)のために「鰯売恋曳網」を書いたのだということも後で知ることになった。) ●三島は、近松門左衛門の『傾城浅間嶽』をヒントに、お伽草子の「猿丸源氏草子」(さるまるげんじぞうし)や、「魚鳥平家」などを題材に取り、戯曲化したものという。三島戯曲の傑作に数えられるのだとものの本に書いてあった。ストーリーはさておき、「阿漕が浦の猿源氏」が、鰯売りをして売り歩くときの売り声は、引用原文の「猿丸源氏草子」では、次のように書かれている。 「阿漕が浦の猿源氏が鰯かふゑい」 そして、三島の脚本原文は、『年刊戯曲』(日本演劇協会編、昭和30年8月、宝文館)本では、 「阿漕が浦の猿源氏が鰯かうえい。」 である。 「かふ」は「買う」とみて「買おう」という意味と「猿丸源氏草子」注釈本にあった。「ゑい」は、売り声を響かせるときの「えーい」、余声である。「買おう、えーい」ということになり、鰯を「買ってください」ということのようだが、どうも、売り声としてみたときにしっくりこない。 ●と、おもっていたときに、喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、面白い説がのっていた。『嬉遊笑覧』といえば、江戸時代の百科事典的な内容のほんだが、とくに、農漁業者や商売人の姿や、売り方などを詳しく絵入りで書いている本で、江戸期の食の商い関係を調べるときには必携の情報を提供してくれる。 信節先生は、「〈かふ〉は〈かう〉」と書くべし。〈ゑい〉といえるは其の余声なるべし」と書いている。その前後の文脈で、京都周辺において物売りの呼ぶ声を分析している。青き菜を頭にのせて売りあるく女性のことを「菜さう売り」ということをあげ、「菜さう」の「さう」は、「候ふ」の略なり、とかいている。つまり、「菜そうろう」という呼び声が、「なそう」となったというのである。 そして、「かふ」についても、大根売りのことを例にあげて、「大こかう、大こかう」と売り声を上げて通るという。そして、これがさらに、「蛤こ蛤こ」と「こ」に短縮化される場合もあるそうだ。 ●さらに、京の町には、サンカ(山家〔窩〕)のものが物を買わんと呼び声を上げている。つまり、「ソウ」というところを「コウ」という場合もあれば、物の売り買いについて、田舎から出てきて商いをするものは共通して「コウ」を使うのだという結論を述べている。 「イワシコーエーイ」が「イワシコーイ」と聞こえたことがおわかりいただけたろうか。三島の原作脚本の演出家には、当然この「買う」と「売る」との意味のあやについて解釈済みであろうが、けっこう毎年上演される人気演目のようで、「イワシコーイ」に、ただのむかしあった呼び声ではこういうのだぐらいの判断で、ほとんど無関心のようだが、実際の歌舞伎関係者たちの解釈はどうであるのか、興味があるところだ。 道行く物売りの声が、テープに録音された味気ない、ただやかましい騒音になりつつある昨今、街道を行き交う人々の物売りの声のなつかしさを思い描いてみるのも楽しいことだ。「もの売り声論」は、小沢昭一や永六輔先生らも本に残しているように、立派に通用するテーマなのだから、こんどまとめてみることにしよう。 2002年3月。2003年1月補足 MANA――なかじま・みつる
○用例その(1)「三十二番職人歌合」明応3年(1494年)成立。歌題花と述懐からなる32種の職人歌合せ。この中に、「なうり」がいて、 「十六番 左持 なうり 春霞にくゝたちぬる花のかけにうるや菜そうも心あらなむ」 「三十二番 左勝 なうり 定めをく宿もなそうのあさ夕にかよふ内野の道のくるしさ」 がある。(群書類従第二十八輯 雑部 昭和7年発行。453ページ〜)
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参考―その1 「鰯売恋曳網」三島由紀夫著(日本演劇協会編、昭和30年8月、宝文館)本より、クライマックスの猿源氏と蛍火の、なかむつまじくも、滑稽な掛け合いの妙の部分を、引用しておこう。
―引用原文のまま―
(蛍火、猿源氏花道へゆき七三にて) 蛍火 コレ源氏どの、イイエわがつま。 猿源氏 ヘヘエ(ト崩折れる) けふ めうと 蛍火 ナンノイナア、今日よりは夫婦づれの鰯売、あの呼声教へてたも。 猿源氏 さらば聞きやれ。 (ト立上り声美しく)伊勢の国に阿漕ケ浦の猿源氏が鰯かうえい。 蛍火 そんなら、かうかいなァ、伊勢の国に阿漕ケ浦の猿源氏が鰯かうえい。 (本舞台へ) 蛍火 そのはうどもも見習やいのう。 (本舞台、次郎太、亭主、海老名、および贋郎党、下手に馬を引きて出でたる六郎左衛門、声をあはせて) 皆々 伊勢の国に阿漕ケ浦の猿源氏が鰯かうえい。 蛍火 オオ美しう呼んだわいなァ。 〔後略〕 |
参考―その2 「こむこむ」という三重方言による物売りの呼び声について |
熊野に出張に行ったおり、帰徒の時間を使って尾鷲市立図書館に寄って文献あさりをしていたら、「三重県方言資料集 第三編 南勢編 上」(北岡四良著編。昭和34年5月1日刊)に、魚売りの呼び声について「こむこむ」という項がのっていた。「あゆこい」というアユ売りの呼び声と2つの項目を、引用しておこう。買う、売るの呼び声の発声の簡略化、短縮化と方言による音韻の変化のアヤが表現されていて勉強になる記述である。 |
<原文はガリ版刷り。旧字体およびガリ版略字は新字体・正字に直し、原意を損なわない範囲で句点と改行を加えた他は原文のままである。ルビは、該当字にカッコをそえて(**)と原文通りに示した。〔**〕はMANAによる補字、注。>
こむこむ 吾党の故実にて、昔は魚類を荷ひゆきて商ふ者の鯛鮑等と吾持たる魚の名を高声に喚びて鮮に人の聞く如くに触行く事を禁制とす。故に彼商人コムコムと云ひて、買へよと喚びたる也。近世、其故実を失ひて咎(とが)むる人も無し。故に一々に魚の名を顕して喚(よぶ)なり。然れとも、鯛コヒ、鰒コヒと云ふは、昔のコムの遺りたるなり。今に於て中島の年魚売のみ其故実を存して、年魚コヒとは云はずして、コムコムとのみ云ふ也。浜郷の塩売等も四十年前迄は、コムコムと云ひけるを、今は明に塩と呼なり。菜コヒ、茄子コヒと云ふは、是等は古にも禁制ならされとも魚商人と類したる者なる故に何となく聞き効〔なら〕ひて云来るなり。然して古に此の禁制を立たるは他国の参詣人を宿したる中に、何の魚を買用ふると云事を旅人に聞かしめざる為なり。(杉〔=『杉の落葉』高早清在著。享保21年成立〕)<「あゆこひ」の項参照> 又一説には是元来、宮川の年魚は供御の外商ふべからざるを、忍て売るを以て明に喚ばらざりしが総ての魚商人に其制の及びたるにて、塩売りも同義なり。今に於て年魚売は他の魚売の篭に納れて商ひ行く事は禁制なりと云。(浜萩〔『伊勢の浜萩』倫興著、寛保3年成立〕) 魚売りの呼声(市史〔『宇治山田市史』下巻、昭和4年刊〕)
あゆこひ 魚売る者は年魚(あゆ)こひ、鮓こひと云ひ、菜売る者は菘(な)こへ、菜菔(だいこん)こへ、と呼ぶは、年魚献(こん)、菘献(こん)なるべし。(郷談〔『郷談』石崎文雅著、天明8年成立〕)
――鮎を売る物売りの呼び声で思い出した。前々から書きたいと思っていた江戸の「鮎歌(あゆうた)」について、書いておくことにしよう。
●「あゆはな〜」の鮎歌について―厚木街道(大山道)や甲州街道を江戸新宿鮎市場に鮎を運ぶ人々の“労働歌”。哀愁をおびて市場のあく早朝にまにあわせようと夜っぴて運んだ馬方たちは、夜の闇のなか街道の通る原野や峠越えをしながら、狐狸、魍魎たちに、われの存在を知らしめ、みずから恐怖感を消し去ろうと、大声で朗々と歌い続けたという。 厚木の郷土史家飯田さんから教えてもらった「鮎歌」について、街道ごとに歌詞や節回しが少しずつ異なったという、そのバリエーションや、歌い手である運び手たちのこと、新宿鮎市場とはどんな市場だったのか、江戸の鮎事情について記してみたい。→鮎歌メモ
2003年5月記。MANA――なかじま・みつる
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参考―その3 「エイ鰯コイ」の鰯売の呼び声 浜田義一郎『江戸たべもの歳時記』(中公文庫)72〜73頁に、イワシ売りの呼び声の記憶を書いている貴重な証言があるので、記録しておこう。 暑い夏も、いつか衰えると、海の幸、山の幸ゆたかな日本の秋の幕が開く。海の幸の先ぶれはイワシであろうか。大正初年ごろでも、夕暮れの空を蝙蝠(こうもり)の舞う時分、街灯のガス灯の点灯夫が道を筋かいに走るじぶん、夕河岸の鰯売りが、「エイ鰯コイ」と叫んで売り歩いたのを、かすかに覚えている。[イワシの川柳略] いれものを早く出してくれと大急ぎで、また鰯コイと呼んで行く。あとから篩屋(ふるいや)が、フルイフルイとついて行く。そのまたあとから古金買がフルカネー古かね――これは落語のほうである。 江戸・東京の市中でも「こい」の用例があるということは、「鰯売り」の売り声は、「鰯コイ」と相場がきまっていたということになる。 2003年6月記。MANA――なかじま・みつる |
参考―その4 「代う」と「買う」はものの交換を指す言葉 折口信夫「鷽替へ神事と山姥」(『折口信夫全集 第一六巻 民俗学編2』中公文庫版、1976年)に次ぎのようにあるので、なにか関係があるかもしれないのでメモっておく。
山男、山姥の持って来た山づとは、山人が、只置いて行くのではない。山人からひつたくつて来るか、或はすりかへるか、の二方法で、つまりけづりかけを持つて来たのと、すりかへる、之が市の交換で、今の「代ふ」と「買ふ」とは、文法上違った義になって居るが、同じ事である。つまり交換――引き替へが「かふ」で、秋祭りの夜行はれる。
●アキの意味について……商い・商う=アキナイ・アキナウの「アキ」は、秋の「アキ」と語源を同じくするという。1年のうち、実り、収穫する季節のアキの語源は、知らないが、このアキに収穫物を人の集まる場所で必要なものと交換をするひとのことを、秋の人の意味で、アキヒト・アキビトというそうだ。アキヒト→アキウト→アキンドにより、この言葉に漢字の「商」「人」を当てた。たぶんアキビトが先にあって、アキビトの交換行為にたいする動詞としてアキナウ・アキナイが生まれたのか。いずれにしろ、「カウ」「コウ」「コイ」という物売りの呼び声の由来と、アキビトの行き交う場がイチ・マチであることから、だんだん昔の交易や旅といった遍歴する人々の姿が浮かびあがってきた。 2003年6月追記。MANA――なかじま・みつる |
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