味探検食単随筆 氷食論もしくは氷室論03


氷と人間のふれあいの歴史

雑誌『自遊人』2003年9月号氷特集「氷のごちそう」より

夏の風物詩、

氷旗に見る天然氷の歴史

ちょっとマニアックですが、こんな氷の歴史もあります――

by MANA(中島満)


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03 雑誌『自遊人』2003年9月号氷特集「氷のごちそう」について

氷の文化史ライブラリー


も く じ

|エピローグ|氷の旗と“セミコロンK”|御用氷から官許氷へ|函館氷と中川嘉兵衛|

|氷旗と“氷”の文字の起源|プロローグ|

 

エピローグ


 夏になると街のあちこちの店先にかけられる「氷」と白地に赤く染め込まれた氷旗。甘味喫茶専用のようだが、かき氷を売る店ならそば屋からデパートの地下食料品売場やコンビニまでみかける。夏の季節到来を知らせるシンボルマークといってよいだろう。
 この氷旗、日本にいつ頃から登場したのかご存知だろうか。

雑誌『自遊人』2003年9月号氷の特集

ページ12〜14(下記)


氷の旗と“セミコロンK”


双肌(もろはだ)脱いだ儘仰向(あおむけ)に寝転んでいると、明放した二階の窓から向ひの氷屋の旗(フラフ)と乾き切った瓦屋根と真白い綿を積み重ねた様な夏の雲とが見えた。

――カッコは原文ルビ。


 毎日新聞明治42年(1909年)8月に掲載された「氷屋の旗」と題する石川啄木の文章からの引用である。
「一握の砂」を発表する前年、氷旗に自らの苦悶を写したエッセイだが、明治という世相を氷屋と氷旗の風景をとおして描いた作品は数多い。明治は氷の話題が花開いた時代でもあった。
この時代をなつかしんで詠んだユニークな句がある。

    
明治消ゆセミコロンKの旗ゆらぐ

 洋菓子史研究にして異色の社会風俗史料コレクターであった池田文痴菴(いけだ・ぶんちあん)作だ。“セミコロンK”とはなんだろう。

 わが幼かりし頃の話に、博言博士イーストレーキ(東湖と称し子孫帰化)が、東京で「夏になると ;k (セミコロンK)と書いた旗が立つが、あれは何を売る店か」との事。なるほど「氷」の文字に彼等には、そう見えたのも面白い事だと思った。

 文痴菴は、洋菓子研究にかかわる収集資料から氷に関する文献について整理し、皆川重男という新聞号外コレクターに草稿の束を書き送った。氷業史研究者でもあった皆川が集めていた資料の足しにしてくれと手紙に添えられていた「氷で思い出す仁徳天皇から下文痴菴まで」の草稿に出てくる。イーストレーキは明治14年と22年来日したアメリカの言語学者で「英和大辞典」の著者だ。
「世事画報」という庶民の暮らしを描いたグラフ雑誌の明治31年第2号に「上野公園氷店の図」として、この話をほうふつとさせる図がある。木蔭にヨシズをはった屋台の縁台が並ぶ風景にセミコロンの旗がひらひらと揺れている図が描かれていた。

御用氷から官許氷へ

 皆川重男さんは平成9年に亡くなられたが、そのコレクションの大部分を、息子さんがだいじに保管されている。皆川さんは、実家が氷屋をしていたことから、氷に関することなら何でも集めた。

  指令第四七七号
   東京府北豊島郡南千住大字千住〇番地
                皆川六太郎
  明治四十年五月七日願の肩書地ニ於テ氷水店営業之件許可ス
     明治四十年五月十八日
        千住警察署長 何某

 現代まで100年続く寿司店(息子さんが営む南千住「満寿家」)の営業許可も同日許可されていたということで、氷店の営業許可証を氷業史コレクションの第1号だといってお会いしたとき大切そうにみせてくれた。
 いまでこそ厚生省という役所があるが、戦前までは、いわゆる市民の"衛生"は生命安全を守ることと同列にあり警察署による許可管轄事項だった。
 
   
主のこころと夏くる氷/解けるととけぬで苦労する
 
 明治13年ごろの「開化どどいつ」の一節だが、このどどいつ集に描かれた氷水屋の看板に「函館氷」とある。「夏くる」函館氷は、いつくるようになったのだろう。
 宮武外骨「文明開化―広告篇」にも採用された「氷室会社売出しの氷」という東京日日新聞明治5年壬申5月7日付け掲載された記事がある。


夏日氷を用候事ハ只炎暑を凌候のミならず西洋諸国に於てハ各種の病症に用ひまた魚類獣肉牛乳蒸菓子水菓子酒類青物にすべて腐敗しやすきものに氷を添ヘて囲置ばいつ迄も新鮮也故に暑中の氷ハ世上必要の品に御座候間私共数年苦心勉励の上漸く近年研究致し北海道の清水に産し候氷を戴取地方官の御検査を請函舘氷室に貯蔵致し当節東京に氷室を移し申候就てハ恐多くも宮内省御用仰付られ病院御用も仰付られ冥加至極に奉存候最早逐日暑気彌増ニ付今日ヨリ発売仕候尚処々取次所も出来候間御手寄にて多少に限らず御求め下され候様伏て奉希上候
 氷定価 一斤 四銭 四百文ノコト也
       氷室会社 中川嘉兵エ
            佐藤 終吉


この記事は、中川嘉兵衛というものが、幕末から何年もかけて天然氷の採氷販売の試行錯誤を重ね、ようやく函館で採氷に成功し、官の検査も請けて清冽で安全な氷を販売する体制が整ったので東京で600g4銭で売出すとある。当事、米が1升4銭ぐらいだから高価なものだった。

函館氷と中川嘉兵衛

 中川嘉兵衛は、幕末から明治にかけて洋食文化の導入に名前が残る人で、愛知県に文化14年(1817年)生まれ、横浜開港を機に江戸、横浜で英国公使館コックになる。福澤諭吉、ヘボンらの薫陶を得て、牛肉、牛乳などの販売などをはじめ、医療用や生鮮食品冷蔵用として高価だった輸入氷(当事は「ボストン氷」と総称されていた)に対抗する国産氷の生産販売に情熱を燃やした。富士山や鰍沢、諏訪湖など各所で製氷採氷販売を試みるがことごとく失敗のすえ、函館五稜郭周辺が製氷環境に良いことを知る。明治2年試行採氷をへて輸送、東京での販売に成功した。明治5年にかけて、ようやく本格的な販売体制が整ったために広く新聞で「函館天然氷」をPRしたものが前記の広告だった。
 天然氷を使った明治維新の氷水は、東京横浜から神戸をへて全国的ヒットを飛ばした。

氷旗の“氷”文字の起源

 中川嘉兵衛が販売した天然氷には「天然氷」「函館氷」に龍が舞う図柄がデザインされていたという。この図柄は、筆者も見たことがないものだが、「龍紋氷」と呼ばれ、基本型は販売店にかけられた看板で、今に伝わる氷字の下に水流模様の原型になったとみられる。氷水売りの氷旗としては、明治8年10月出版「明治の光」という雑誌にヨシズ張り屋台に「氷店」とかけられた長方形の手ぬぐい型の図がある。おそらく「氷」の1字のものもあったろう。
もともと、江戸時代には天然氷は流通しておらず「冷水売り」が樽を天秤棒でかつぎながら「ひゃっこいひゃっこい」という呼び声で売り歩く商売法が主体で「水」のシンボルマークは定着していなかったようだ。
 天然氷がヒットし、「氷は儲かる」と評判を呼び、氷販売業者や氷水店が急増する。また粗悪氷による悪評も新聞紙上をにぎわすようになると、内務省は明治11年12月4日付けで「氷製造人並販売人取締規則」を発令し、「卸売小売ノ店頭ニ何地製造ノ氷ト大書シタル看板ヲ掲ケ行商ハ荷ヒ(桶箱)等ニ表出スヘシ」と、「産地表示」を義務づけた。
 「官許」の字の下に「氷」と産地を染め抜いた「官許 氷 函館」あるいは「官許 氷 中川氷室」のような氷旗が登場する。現代の氷販売店入り氷旗の原型は、この官許氷旗にっあったと考えている。

 御用氷から官許氷へと移行した天然氷も明治30年以降は機械製氷が主流となり市場から消えてしまう。

 皆川コレクションの目録「氷業史資料文献目録」は、プロフィルに乗せたHPに全文載せておいたので関心のある方はチェックして戴きたい。
 
プロローグ

 文明開化とともに花開き明治の終わりとともに消えた天然氷の歴史を氷旗の変遷から紹介した。現代の夏、電力エネルギー供給が不足し、真夏の最需要期には停電の恐れもあるという。この時代にほんまかいなと思いつつ、100年前、天然氷の氷水で得た冷気のありがたみを思い出して、庭先に縁台をだし、ろうそくの灯のもとでスピックでカチ割った氷でオンザロックをやるのもよし、氷水をすすりながら夜長を過ごすのもオツなものかもしれない。

 

――雑誌『自遊人』2003年9月号(12〜15ページ)掲載原稿に訂正加筆して本ページに再掲した。

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