味探検草鞋雑記 01坂道論


 

街道と坂道について

道は高きところに作られる

 

 


も く じ

 首都圏の旧街道をぶらりと歩いてきて感じるのは、昔の道は、すこしでも高いところを目指して、できるだけ峰(稜線)状の地形を選んで作られているということである。首都圏の5街道をみても、関東平野の平坦な場所の方が歩きやすいというのは、現代の整備された道や車社会になれきった人の勝手な思い込みであって、江戸時代、平らな場所が続いている地理的環境というのは、宿の形成されたマチを除くと、川の氾濫でとおれなくなったり、日常時でも湿地帯になっていたり、氾濫がなくても雨が降るだけでひどいぬかるみになって、1年通して通行するにはかえって困難を伴う場所だったのである。
 この、道が泥んこになるという状況は、舗装される前の水はけの悪い道路では都心部でも良くあった話しで、「田んぼのような」という形容詞がピタリの道路がさぞ多かったことだろう。だから、道は、自由かってに好きなところに作られたのではなく、地形の弱点と長所、物資輸送路であるのか、峠道なのか、軍事道路なのか、さまざまな要素をクリアしながらある法則性をもって作られたというような気がする。


東海道・横浜台町  例をあげると、まず東海道。品川からあるいて海沿いの道は、生麦を越えて神奈川の浜までで、旧東海道は、京浜急行神奈川駅のところから、現在の横浜駅を左手にみて、青木橋をわたり、台町の坂を登る道筋をとる。この坂がどれだけ急か、1度横浜駅の西口を下りて、いわば海川から台町側に歩いていくとよくわかる。右手に相鉄バスセンターの脇を通り鶴屋町1丁目のあたりまでいくと、右よりの正面にそそり立つ崖と、旅館田中屋の方向に細くうねった急な階段がある。この階段をひーひーいって登ると、味探検でも紹介した料亭田中屋の横に出る。こんな地形に道が作られているなんて、この場所に住んでいるものでもないときっと信じられないだろう。
 北斎の有名な、富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の浮世絵作品は、大きな波浪の合間から小船と富士を遠景に配す図だが、これはどこから見たものかといえば、おおよそこの現在の青木橋から台町よりの高台に立ったあたりからと言われている(杉田村からという説もある)。この場所でもう1つ有名な浮世絵が、広重の、東海道五拾三次の内「神奈川」だが、この絵は左に埋め立て前の横浜の海〈関内から根岸、杉田〉と、台町の坂に並ぶ茶屋と旅人の姿が描かれている。この坂を登って、現在は住宅地になっている鶴屋町から浅間下交差点までぐるっと低地を迂回して山側の道を通っていた。
 ちなみに、この浅間下交差点当たり(正確には軽井沢から芝生村芝生新田)が、横浜開港とともに、関内の地と東海道を結ぶ直通ルートである「横浜道」が突貫工事で作られた入口。例の生麦事件の発端となる薩摩公の一行をさえぎった馬に乗ったイギリス人数名も、この横浜道をとおり、浅間下から台町、神奈川を通り生麦から川崎あたりまで乗馬散歩に出かける途中だったという。
 横浜道自体も、平沼橋まで数本の川を渡り、戸部の商店街をすぎると野毛山の切り通しを通り、野下坂から吉田橋をとおり関内に入った。



保土ヶ谷・権太坂から品濃坂まで山稜を歩く  東海道の旧道は、洪福寺商店街、天王町商店街をぬけて保土谷駅西口戸塚方向の踏みきりのところで1号国道と合流する。保土ヶ谷の代官屋敷があった地点でほぼ90度に右に曲がり(軍事的な意味合いがあったとされている)、外川神社あたりから山がちの道となり、保土ヶ谷町信号あたりで1号国道とわかれて右に旧道となり、右にJRのガードのある住宅街の一角を左折して、100mも行かないところを右折して坂が続く道が、旧権太坂である。 ぼくは、ここを初めて歩いたときが9月末で、夜の9時ごろだった。首都高狩場インターチェンジの上を通ったあたりから両側から山陰が迫ってくるようになり、境木地蔵を過ぎ、今も進行方向左手に1里塚の小山が明瞭に残っていた。この境木あたりはすっかり住宅地となっているものの、けっこう樹林が道の両脇に繁り、それまでの坂を抜けて右手に境木地蔵の境内が現われる。(以下続く)


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