五家宝について
さっくりとした独特の歯ざわりと、こうばしい黄粉の香り。どこか郷愁をそそる素朴な菓子、「五家宝(ごかぼう)」は、川越の芋菓子や草加の煎餅とならんで、埼玉の三大銘菓の一つといわれ、全国にその名を知られています。
県内にはこのほか、焼き団子(川越・所沢)、練羊羹(小鹿野)、味噌付饅頭(飯能)などの名物菓子があり、親しまれてきました。なかでも五家宝は、その材料や製法など、シンプルでありながら、全国的にみても類例の少ない菓子です。
和菓子は大きく生菓子と干菓子に分けられています。生菓子には棹菓子(羊羹・ういろう等)、蒸菓子(鰻頭)、餅菓子などが含まれ、干菓子には米菓(あられ・煎餅)、飴菓子、豆菓子などが含まれています。五家宝は、干菓子のうち、おこし類に分類されています。
おこしは、もち米を蒸して乾かし、これを煎ったものに胡麻、落花生、海苔などをまぜ、水飴と砂糖で固めた菓子です。
五家宝の製法もこれに良く似ています。五家宝の場合、もち米を一旦もちについてから薄くのばし、細かく砕いて煎り、あられ状にしたものをタネにしますが、もう一つ、欠かせないのが黄粉の存在です。黄粉の風味が五家宝の旨みを決定するといってもよいでしょう
また、生地(タネ)をまとめて円筒状にし、より板(のし板)で長くのばしてから切るという工程は、飴の製法とも似ています。
五家宝は、今もなお昔から継承されてきた独特の手作り技法によって、熟練した職人の腕や勘に頼りながら、家内工業的に作られています。
和菓子業界全体が洋菓子に押されがちな昨今ですが、添加物を一切使わず、控えめな甘さで消化も良く、滋養に富む五家宝は、「自然食品」として、近年の健康ブームの中で再び注目を集めてい
五家宝の由来あれこれ
「五つの家の宝」と書いて「ごかぼう」と読ませる。よく考えてみると奇妙な名前です。この菓子を知らない人なら、まず読めないでしょう。
この名の由来は何なのか、またどのような意味がこめられているのか、いつ頃から作られ、賞味されてきたものなのか…数々の謎はこの菓子の来歴に隠されているようです。ここでは、「五家宝」の歴史をひもといてみましょう。
五家宝誕生秘話
埼玉県内では、五家宝は熊谷市と加須市の銘菓として知られていますが、その由来には諸説があり、誕生した地についても北関東全域にわたっています。
@水戸説
水戸光圀の頃創製されたといわれる水戸の銘菓「吉原殿中」をまねて、群馬の一菓子商が「五ケ宝」を創製し、売れ行きが極めてよかったため、大里郡玉井村(現熊谷市)の高橋勝次郎が知り、これをまねてこの地で製造販売したのが始まり。
A水戸説
文政年間(1818〜1829)、水戸藩から忍藩に移り、成田用水の水役人を勤めていた水野源肋が武士をやめ、中山道沿いに駄菓子屋(茶店)を開いた。その際、故郷の銘菓「吉原殿中」を参考にして干菓子「五嘉棒」を作って売り出した。
@・A説はいずれも水戸の菓子「吉原殿中」を起源とするものです。Aの水野源助は熊谷市の菓子店「水戸屋」の初代であり、熊谷五家宝の創始ともいわれる人物です。
B群馬説
享保年間(1716〜1735)、上州邑楽郡五箇村(現群馬県邑楽郡千代田町)の人が初めてこれを作り、地名に因んで五箇棒と名付けて売った。
C茨城説
今から150年前、利根川の氾濫に見舞われた利根川河畔の五霞村(現茨城県猿島郡五霞町)の一老婆が、干飯を食べるのに水飴で甘味をつけた黄粉にころがして食べたのが始まり。
B・C説に共通するのは「ごかむら」という音と「利根川河畔」ということです。両者が混在した説もあり、同じ話であった可能性もあります。
D熊谷説
大里郡奈良村(現熊谷市)の名主吉田市右衛門は、天明3年(1783)の飢饉の際、倉が焼けたので焼き米を出して地元民に与えた。その後江戸の菓子商を呼び、これ(焼き米)を用いた干菓子を作らせたところ、五家宝を創案した。
E加須説
150年ほど前、印旛沼(千葉県)のほとりに生まれ、武蔵国不動岡に住み着いた鳥海亀吉は、利根川の大洪水の際、干飯を蒸し、黄粉に甘味をまぶし、棒状にした菓子に五菓棒と名付け、文化年間(1804〜1817)に売り始めた。
E説はC説に非常によく似ています。鳥海亀吉は加須(不動岡)五家宝の祖といわれています。
以上、列記してみましたが、熊谷ではAの水戸起源説Uが、加須ではEの加須起源説が優位に立っているようです。
その名はどこから
現在では「五家宝」「五嘉宝」の文字があてられていますが、古くは「五箇宝」「五荷棒」などとも表記されていました。
誕生に諸説があるように、「ごかぼう」という不思議な名がついた経緯もさまざまです。
先に紹介したB・C説によると地名が由来となったようですが、このほかにも「上武地方では、木・大豆を原料とする干菓子が江戸時代から製造販売されており、一荷棒と称されており、その5倍大のものが五荷棒といわれた」「水野源肋が、長さ3寸の“一ケ棒”といわれていた干菓子を大型にし、五嘉宝と名付けた」というものや、「直径1寸、長さ3寸くらいの菓子で、1本を一箇棒、2本を二箇棒、5本を五箇棒といった」などの説があります。
家の宝という文字をあてたのは水戸屋4代目の水野市三郎といわれており、この菓子に五穀(米・麦・豆・粟・黍または稗)のうち米、麦(麦芽糖=水飴)、豆(大豆=黄粉)を使うことから、「五穀は家の宝である」として、五穀の豊穣を祈念してつけたといいます。
熊谷の歴史と五家宝
豊かな宿場町
五家宝の由来を特定することはできませんが、それがどこからか伝えられたものであるにせよ、銘菓として定着し発展していくには、原材料や流通ルートの確保が必要となります。
熊谷は埼主県北部の中心都市です。熊谷直美ゆかりの地であり、熊谷寺、高城神社といった古い寺社も数多〈残されています。高崎線、上越新幹線、国道17号線等が交差する交通の要衝です。
江戸時代には中山道の宿場町として栄え、市も開かれていた熊谷では、「石原米」と称する良質の米がとれ、田の畔では大豆が作られており、水飴の原料となる大麦も多く生産されていました。
五家宝の原型となった干菓子は、現在の風味とは程遠かったようです。明治45年刊の『熊谷百物語』によると、「昔は駄菓子で“粉ぬか”を付けて一山百文的のもので随って製法も頗る幼稚であった」といいます。天保の頃、玉井村生まれの高橋忠五郎が従来の五家宝に改良を加え、現在のものに近い形にし、その製法を広めました。
近代から現代へ
日持ちのよい五家宝は、土産物として人気を呼び、幕末には江戸にも知られるようになっていましたが、名声が全国区になったのは明治以降です。
高橋忠五郎の店で修業した水野丑松(水戸屋5代目)は、従来の手法を改良し、現在のようにのばしてから切る手法を考案しました。また明治16年に高崎線が開通すると、「熊谷停車場特設販売品」として五家宝の駅売りを始めました。
また同じく高橋の店で修業した風間浅五郎(風間堂の祖)は、蜜の煮詰め方や貯蔵を工夫し、五家宝の年間製造を可能にしました。
先に挙げた『熊谷百物語』には、「販路は全国一円に渉り、清韓諸外国より続々注文」「熊谷町に於ける一ケ年の五家宝生産高は約十万円」と当時の盛況ぶりが伝えられています。
戦後、交通量の増加と共に五家宝は埼玉を代表する銘菓となり、県の保護もあって、最盛期の昭和30年頃には30軒以上もの業者がありました。
現在、製造業者は10軒ほど、年間生産高は8億円から9億円といわれます。伝統的な技法は今も守られ、手作りの良さが見直されてきています。
五家宝のできるまで
(1)夕ネをつくる
五家宝の主体であるタネ(おこし種)はもち米から作ります。これを粉にひき、水や湯を加えてもんで(練って)から蒸し、砂糖を加えながら臼でついて薄くのばします。これを乾燥させたものを切断機にかけ、米粒の1/3〜1/4くらいの大きさにしてから回転ガマで煎り、あられにします。(切断機のない頃は臼でついて砕き、篩・ふるいにかけ粒をそろえてから煎りました。)
始めは単なる煎り米であったタネを、一旦餅についてから再び細かく砕くことで、より口ざわりが良くなるように改良したといいます。現在はタネ専門の業者から購入することも多いようです。
○せいろで蒸す もち米を粉にひき、水でこね一晩水につけてから蒸す。
○餅をつく 上白糖を加えながら餅つき機でつく。戦前から機械化。
○餅をのばす つきあがった餅をのし棒で1〜2ミリの薄さにのばす。一せいろ畳二畳分になる。
○切断する 乾燥機に入れて一晩寝かせた餅を適当な幅に切り、切断機で1〜2ミリ角に砕く。
○煎る 砕いた餅を回転ガマで煎り、あられにする。真珠のような輝きの丸い粒である。
(2)黄粉をつくる
五家宝の口ざわりに関わるのがタネならば、風味や外観を決定するのが黄粉です。以前は青大豆が使われていましたが、非常に高価であるため現在は普通の大豆が用いられています。
大豆を煎って、製粉機ですりつぶします。煎り加減が風味に影響するので、業者によってその程度が異なってきます。
(3)砂糖蜜をつくる
黄粉生地に用いるものと、タネに用いるものの2種類の砂糖蜜を作ります。
グラニュー糖、上白糖、水飴を合わせ、黄粉用には弱く、夕ネ用には強く煮詰めます。煮詰め加減や配合は季節によって異なります
○夕ネ用の蜜 蜜はその日の作業量に合わせ毎日新しいものが作られる。
(4)黄粉生地をつくる
製粉した黄粉に砂糖蜜を加え、機械でこねつけます。耳たぶ程度の硬さになった生地は、1回分量ずつまとめ、のし棒でのばします。
○黄粉と蜜を合わせる。
○生地をのばす@ 1回分量ずつまとめた生地をのし棒でのばす。
○生地をのばすA 35cm角程度に広げる。
(5)夕ネをこねる
こね桶に夕ネを入れ、蜜を合わせ、しゃもじで手早く混ぜます。こねつけたタネを作業台に広げ渋団扇で風を送りながらさまし、あら熱がとれたら一回分量ずつまとめます。
○こねる 桶をゆすりながら、タネをつぶさないように混ぜる。
○さます こねたての蜜は粘着力が弱く、まとまらない。
○まとめる 1回分量ずつ円筒状にまとめて形を整える。
(6)仕上げる
棒状に整えたタネを薄くのばした黄粉生地の上にのせ、包みこみます。手粉を振りながら、のし板(より板)で転がしてのばし、さましたらピラミッド状に積み上げ、端から包丁で切ります。
○つつむ 黄粉生地でタネを巻き、両端を包みこんでふさぐ。
○のばす のし板で転がしのばす。1回分量は2.4mの丸棒2本分。
○切断する 積み上げた五家宝にサシをあて、包丁で5.5cmに切る。
五家宝づくりの道具
五家宝づくりにはあまり多くの道具は用いられません。餅つき機、製粉機なども戦前には既に開発されており、職人の負担も軽くなっていました。
とはいえ、蜜のあわせ加減やこねつけ方、のばして切る工程など、職人の勘と経験が頼りです。
特徴的なものは、のし板(より板)、切断に用いる歯の薄いヨウカンボウチョウ、太さをはかるウマ、長さをはかるサシ(ものさし)などです。
[以下の写真のリンク⇒こちら]
○渋団扇
○シャモジ
○マスとのし棒
○ヨウカンボウチョウ
○ウマ
《参考=加須の五家宝》
五家宝のもう一つの産地として知られる加須は、県の北東部に位置し、利根川流域の豊かな耕地に恵まれています。江戸時代には中山道と日光道中を結ぶ街道の宿場として賑わいました。
不動岡の総願寺の門前には鳥海亀吉を元祖とする「武蔵屋」をはじめ、数件の五家宝屋があります。総願寺は、この地方の人々に広く信仰され、絵馬や算額(さんがく)も数多く奉納されました。
五家宝は参拝者の土産物として販路を広げ、総願寺の縁日には境内でも売られたようですが古い記録などは残っていません。
現在、加須市内で五家宝の生産を行っているのは武蔵屋1軒だけです。
《参考=水戸銘菓「吉原殿中」》
茨城県水戸市には、外観・風味ともに五家宝に大変よく似た菓子があり、「吉原殿中」と呼ばれています。
この菓子の誕生については、「水戸家九代藩主徳川斉昭(二代光圀説もある)は、文武を奨励して勤倹貯蓄を実践させていた。あるとき、膳部の始末について御下問があり、吉原という名の奥女中が干飯として日頃から置いてあったものを早速煎って飴でこね、黄粉をまぶして出した。斉昭は大変これを褒め、吉原の創った菓子として吉原殿中と名付けた。」と説明されています。(『茶の菓子』淡交社刊より)
五家宝水戸発生説の根拠となっていますが、これが埼玉に伝わったとしても、その経緯などに関する確かな記録は残っていません。
吉原殿中は、現在の五家宝の主流の形(直径2.2cm、長さ5.5cm)よりもやや大きい形(直径2.5cm、長さ8cm)が一般的です。
●講師紹介
桜井良雄氏《五家宝職人》
桜井氏は、昭和9年、熊谷市上之に生まれました。中学校を卒業した後、住み込みで市内の五家宝屋に修業に入り、一時東京の工場につとめた後、25歳で現在の紅葉屋本店に入りました。
当時の休みは月2日で、盆と正月前などの繁亡期には残業も多く、重労働でした。
はじめは親方や先輩職人の雑用しかやらせてもらえませんでしたが、見よう見まねで仕事を覚え、数年かかってようやくのばしや切断など難しい仕事ができるようになったといいます。
●紅葉屋本店(代表取締役下田国臣氏)
熊谷市佐谷田に本社工場をもつ紅葉屋は、もとは石原町にあり、江戸時代から最中の皮や五家宝種の製造販売を行っていました。五家宝屋としての創業は昭和2年です。現在は3代目の国臣氏が普及や職人の育成に力を注いでいます。
黄粉・タネづくりから一貫して五家宝づくりを行っているのは紅葉屋だけであり、デパートや市の産業祭などでの実演も行っています。
《参考文献》
『熊谷の五家宝』沢田豊行著(昭和45年)
『熊谷名物考』熊谷図書館(昭和33年)
『茶の菓子』鈴木宗康著(昭和54年)
「埼玉県の諸職関係民俗文化財調査票」より五家宝(昭和61年熊谷市、62年加須市)等《協力》紅葉屋本店(熊谷市)
●本資料の文章及び図・写真の版権は「埼玉県立民俗文化センター」に属します。本ページは、同センターから転載の了解を得て使用しています。
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