まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録


Ice 001 桑野貢三・氷室エッセイ集

氷室雑話  (1)|(2)|(3)(4)(5)

――――――――――――――――桑野貢三 by Kozo Kuwano

copyrighit 2003,Kozo Kuwano 

(2) 〔掲載:「冷凍」69巻801号、1994年7月号。日本冷凍協会発行〕

 


◎狂言「氷室」

 能「氷室」が国立能楽堂の定例公演で演ぜられたのは昭和最後の64年1月4日であった。
 この「鑑賞の集い」を(社)日本冷凍協会の企画で行われたが、この氷室が演ぜられることは大変珍しく、好評であった1)
 このストーリーに就いては「謡曲・氷室」2)でレポートした通りで、観世流で公演された、このとき謡本にはない部分、即ち、前段が終り、中入りに「間(アイ)狂言」があり、これがまた、まことに楽しく見せて頂けた。
 謡本には「中入り」の頭注に「○狂言間・語りアリ」の記述があるが。
 「間狂言」を百科事典3)で調べてみると、能一番の中で出る狂言方の役、単にアイ(間)とも能間(のうあい)とも云う。もっとも普通なのは前シテが退場して後シテの扮装に着かえる間に出る役で、これに4種ある。


《語り間》 シテの扮する役にまつわる物語をワキに聞かせる。
《立シャベリ間》 立ったまま独白で物語する。
《末社間》 末社の神でシテの神徳を讃えた後、舞を舞う。
《早打間》 事件の急を触れて歩く。


 以上4種の他に、曲の最初に出る《口開間(くちあけあい)》
 ワキにところを教える《教え間》
 シテ・ツレ・ワキなどと交渉をもって筋の進展に加わる《アシライ間》がある。


 この能の間狂言本のコピーを野村恵智雄さんに頂いた。それは狂言方の大倉流のもの4)で、「末社間」に属するようだ。別に入手していた宝生流の本も「末社間」で能の筋と同じ流れであり、終りの部分は両者ともほぼ同じように舞っている。しかし、大倉流のものは少し見方が違っており新しい発見もあるのでこれを見ることにする。この台本はルビや送り仮名がないと読み難いが、本文のままで記載する。

図1 雪こうこうよ あられ こふこふこ

 

氷室:社人出立、大臣ゑぼし前折、ミヅ、衣、

   狂言 ハカマ下クゝリ。4) (図1参照)
 か様に候者ハ。丹波の国くわだのこおり。此氷室の明神に仕へ申しんしょくの者にて候。去程に我が朝ハ。小国と申せ共神国にて。王位目出度国なれバ。何事も君おぼしめすまゝの御代にて候。然ば。弥々君あんせん息才延命の斗事をめぐらし。此お山に氷室をかまゑ。ひの物のぐごをそなえ(申)され候へば。弥々君あんせんに、何事もをぼしめすまゝにめでたう御ざ有により。今に此の如にて候。去間此氷室のいわれを尋申せバ。むかしけいこう天王の御宇に。御狩のくわうやうに一村の森の下いほりの有しに。御門ゑいらんなされし其比は。さつきのすえの比にて候へしに。かんぷうしきりにしてぎよいの袖にうつり。さながらふゆ野ゝの御狩のごとくに御座候間。あやしみおぼしめしてゑいらんあれば。雪こをりお家の内につみたゝへて置候ほどに。是ハいか成事ぞと御尋あれバ。其時翁申され候様ハ。それせんかにはしせつこうせつとてむらさきくれなひの雪有。是則薬の雪なり。翁も此薬の雪をぶくする故に。か様にじゅミやうじやうおん息才延命なりと申て。則こおりくだきてぐごにそなえ申。それよりこおりの物のぐごと申事はじまりたると有り。又其後にんとく天王の御宇に。大和国つげのこおりよりそなえ申。それより後は山城の国よりそなえ。其後此国桑田のこおりに氷室(を)かまへ。ひのも(の)ゝぐごをそなへ申が。いよいよ君あんせんにして目出たう御座有により。今に至迄其れいをもって。六月朔日にひのものゝぐごを。我が君にそなえ申。なんぼう有難御事にて候。去程(に)。当今亀山の院に仕へ御申有臣下殿。此氷室を御覧可有ため。御次手にて候へども只今此所ゑ御着のよし承候間。我等ごときのしんしょくの者迄も御礼申さばやと存、是迄出て候。急で御礼申さばやとぞんずる。シヵシヵ御礼申候、是ハ当社氷室の明神に仕へ申しんしょくの者にて候。当今の臣下殿の御着と承候間。御礼申さんため罷り出て候。当社にはきどくじんべんの有御神にて候。其子細ハ此氷室と申に付て、今とても雪をこひ候へば。時ならず共ふり申ほどのきどくじんべんの御神にて候間。能御きねんあらふずるにて候。我等ごときの申事にて候間まことしからぬとおぼしめされ候ハゞ。只今にても雪をこひふらして見せ申さふずるが何と御座あらふずるぞシカシカ、ワキセリフアリ、何と雪をこいふらして見せよと仰候かシカシカ、畏って候、某壱人にてもなく候、我等が様成社人御座候間、是をよび出し申さふ
 シカシカツレヲヨビ出ス いさしますか ツレ誰にて渡り候ぞ 某にて候 ツレ何の用ぞ 其事にて候、当今亀山の院に仕へ御申有臣下殿。当社へ御参詣にて候間御礼申たれバ。雪をこひふらして見せよと御申有程に、それにてよび出し申て候よ ッレ其儀ならば追付て雪をこわふ シカシカ いざこわしませ タガイチガイニコう 雪かふかふよ、雪かふかふよ、あられかふかふこ シテさあさあふるハふるハ、たゞこわしませこわしませ、雪かふかふこ、あられかふかふ シテふったるゆきかな、したゝかにふつた程に、いざゝらば雪ころばかしをせう。ッレー段とよからふ
 シテ柱ノキバヲタガイニミズ衣ノカタ上ル
 シテ先身ゴシらへヲセう、扨出テ雪ヲアツムル躰也
雪ころばかし、あらさむやさむやのゆきころばかし、あらさむやさむやの シテいかひ物になったぞ、いざゝらば内じんゑころばかし入(れう) ツレー段とよからふ 雪ころばかし、ぐひりぐひりぐひりや ゑいゑいわふ いざ又雪をこわふ 雪かふかふよ あられこうこうこ
 ツレ コイながらは入候、跡ハシテヲサムル、一ペン廻り、左右ニテしとめル
 我が家のかきや木にふりやたまれこうこう。


 前文のアンダーラインをした部分は仁徳62年が氷室の嚆矢とされている通説(宝生流はこの説による)に対し、“けいこう天王の御宇”に氷室を見たと云うのは私には始めて出会ったものであり、面白い内容である。

 歴史年表5)に依れば12代景行天皇の御代は西暦71〜130で仁徳62年(374)より244〜303年も古くなる。しかし、前号にも引用した貝田禎造の説7)に依ればこの天皇は実在の可能性があり、372〜387年頃ではないか考えられている。この説を取り入れるなら氷室元年は仁徳の時期より50年は古くなるので、この伝承はどのような古典より引用したのか、出典が知りたい興味のある文章である。
 また、終りの方の「雪かふかふこ、あられかふかふ」が童謡の「雪やコンコ」のもとになったと云うのは国語学者・池田弥三郎氏の話である。この「雪」は文部省唱歌で明治44年の尋常小学唱歌(二)に掲載された。作詞も作曲も作者不詳となっている。改めて歌詞を読み直してみると私が歌っていたのとは違っているのでこれも掲載してみた。


――――雪6)――――

雪やこんこ霰やこんこ 降っては降ってはずんずん積もる 山も野原も綿帽子かぶり 枯木残らず花が咲く


 私は「雪やコンコン」と歌っていたが、正しくは「コンコ」であった。この雪の解説でも“コンコを「コンコン」と覚えている人は案外多いのではないだろうか。この歌のりズムからすると「コンコン」と歌ってしまうほうが自然であるかも知れない。メロデイはわらべうた風でなく、出だしの4小節はバイエルのピアノ教則本68番によく似た明るい曲である”とある。


◎中国古代の氷室

 もう、5年ほど以前の事である。「こんな資料がありますよ」と本誌編集委員の小泉さんから「人民中国(1988年9月)」のコピーを頂いた。
 これが今回紹介する「中国の氷室」の資料である。「人民中国」誌は中国の事情を海外に紹介する総合月刊誌で1953年6月の創刊、人民相互の友誼を増進する目的で編集されており、日本語版・英語版をはじめ相当数の言語で発行されている。私も仕事の関係から昭和50年頃から数年間、愛読していた。コピーの内容を拝見すると相当面白いので早速、神保町・すずらん通りの中国図書専門店の内山書店で、そのバックナンバーを求めた。
 これに掲載されていた「中国文化のルーツ・氷」郭伯南著をご紹介しよう。


 さて、世界で氷の貯蔵、冷たい飲物はいつごろから始まったのでしょうか。…中略…実は東方における氷の貯蔵の歴史は古く、人類の文明史よりもなお古い時代に始まっているのです。

《古代の氷貯蔵・凌人 凌陰 凌穿》


 氷の貯蔵については『詩経・7月』の「氷を鑿つこと冲冲(ちゅうちゅう)たり、凌陰に納る」という詩句がよく引用されて、これが中国における氷貯蔵の歴史が『詩経』と同様に古く、約三千年も経ていることを裏付けている。
 同時にまた、『周礼』の「凌人」のこともよく引合いに出される。「凌人」というのは、周代(BC1000〜700)に天子の氷に関する仕事を管理した機構のことで、〔注:わが国の主水司に当たる〕94人で編成されていた。「下士」という責任者2名、「府」という行政秘書2名、8班に分れ、それぞれ「胥」という班長がいて、各班の労働者は十名、「徒」と呼ばれていた。
 冬の氷貯蔵時は人手が足りず、大勢のきこりを動員し、採氷・運搬・積込みに当てた。
 陜西省の鳳翔で、春秋時代(BC770〜400)の秦国の君主の「凌陰(氷室)」が発見されている。それは二千五・六百年前のもので世界で確認されている最古の氷室であると云ってよい。
 この構造は土で突き固めれた工台(東西16.5m、南北17.1m)の中央に掘られ、深さ約2m、その上部は10×11.4mと大きく、底は8.5×9m、穴の四周は土で突き固めた断熱壁で厚さ約3m(間違いでは?)貯氷量190トン。穴の頂部は瓦ぶきの屋根に華麗な青銅の飾りが施され、底には板状の石が敷き詰めてある。入口は西側の壁に開けてあり、シャッタが5門。この下側には陶製の配水管が敷かれ、溶けた氷を付近の小川に流すようになっている。氷室の周囲、シャッター同士の間には大量の腐植物質が詰めてあったが、これは多分、麦わらでつくった保温層の跡と思う。この様に周代での貯氷の技術から儀礼まで良く整っていた。では、これ以前はどうであったか。
 商(BC1400〜1000)には氷の貯蔵の制度があった筈であるが、十数万点を数える甲骨と辞の中にも「凌」も「氷」の字のかけらもなく、発掘された穴倉等にも「凌陰」と判断されるものはない。しかし、1980年に商代の氷利用の物証となる青銅製「凌穿(氷を割るきり)」が2点出土した。大きいものは長さ13.8cm、今から三千二百年以上も前のものである。その形と造りは現在のものと殆ど同じようであり、これからみても商代には貯氷が行われていたことは明らかである。「凌穿」は河南省天湖村で出土し、殷の諸侯国の息国の人のものとされている。
 その人は「凌人」だったかも知れず、小さな諸侯国にも「凌陰」があったと思える。さらに夏王朝では貯氷されていたかどうか、言伝えでは孔子の発見した夏の暦法「夏小正」には毎年3月に夏の皇后は大夫から氷塊を賜った。これを「頒氷」と云うとある。以前、その記載は信じられないとされていたが、前述のように小さな諸侯国にも砕氷具があったことを見れば夏王朝の氷蔵の記載は信じられるのではないかと考えられ、もし、この推測が間違っていなければ中国貯氷史は文明史同様、少なくとも四千年以上と云うことになる。

《古代の冷蔵・氷厨 氷井 氷鑑》

 「凌陰」に貯えられた氷の用途は食物の冷蔵、保鮮・防腐で宮廷には「氷厨(冷蔵庫)」が調理室の地下に設けられていた。また、そこには「氷井(冷蔵用の井戸)」が掘られており、陶製の輪を積み重ねて井戸の壁とし、「陶鑑(陶製のたらい)」を底に据えると清潔な天然冷蔵庫として役だった。これらは河南省で発見されている。「氷厨」には五つの氷井が一列に並んでいて中から豚・牛・羊・鶏の骨が多く出土している。陶器自身にも「左厨」「宮厨史」などと記されていて、戦国時代(BC400〜230)の韓国の宮廷で使われた氷厨と氷井であったことがわかった。これらに似た氷井の遺物である陶製の輪は春秋・戦国時代(BC770〜230)の秦・楚・燕・趙などの古跡からも発見されている。
 この様な冷蔵室は黄河流域の諸侯国ばかりでなく、長江の下流の酷熱で有名な呉越にもあったことは文献に見える。「越絶書」による“呉王闔閭の「氷室」は呉の閭門外(蘇州の西内外)にあって、越主勾践の「氷厨」は会稽の東門外(紹興城の東)にある”とある。
 呉王闔閭の「氷庫」は現在残っていないが、その子・夫差の青銅の「氷鑑」(高さ44.8cm×口径76.5cm×底径47.2cm)が発見されている。
 「氷鑑」とは食品冷蔵用の容器で氷厨に入れて少量の食品を冷蔵したものとされている。
 先秦時期の氷鑑の出土は多く、なかで有名なのは曽侯乙のもので2つあり、箱型(高さ61.5cm×縦横76cm)で蓋があり、中央に方形の壷があり、酒を入れる。壷の周囲に氷を入れて、これを冷やしたものである。

 


 平成4年3月〜5月に日本国交正常化20周年記念として東京国立博物館に於て開催された“よみがえる中国戦国時代の美と音”の特別展「曽侯乙墓」は、1978年に発掘された代表的な出土品が展示された。展示品で注目を集めたものは発掘された豊富な種類と量の青銅器で現代の技術でも簡単に製作出来ない程の精巧な卓越した製造技術の製品である。私もこれを見学することが出来た。幸い、本稿で紹介した「氷鑑」が展示されていて、その絵はがきを入手していたので、これを掲載する。

図2 曽侯乙墓出土の「氷鑑缶」

 品名は「方鑑缶(ほうかんふ):酒を冷やしたり暖めたりしておく容器」として紹介されている。
 「楚辞・招魂」に「挫糟凍酒、耐清涼兮」という句がある。郭沫若は「氷で冷やした甘い酒をぐいとあおると実に爽快だ」と解釈している。
 この詩句は中国の文献の「冷用酒」に就いての最古の記載であり、約2千3百年以前のことになる。曽侯乙の酒専用の冷却具は少なくとも2千4百年以上前のものであり、中国飲物の冷蔵の歴史はそれよりもさらに古いと思われる。

《古代官廷の冷食・氷*[=女偏+乃 読みダイ] 氷酪 氷酥》


 アイスクリームはもと元朝の宮廷用のもので宮廷外では作らせなかった。世祖フビライはマルコポーロが中国を去った1295年にその製法を彼に漏らした。彼は帰国後、これをイタリヤ王宮に献上し、以来、ヨーロッパに伝わったとの説がある。
 アイスクリームは中国語で「氷*[=女偏+乃 読みダイ]」と云い、元の宮廷では「氷酪」と呼ばれていたことも確かである。
 詩人・梅尭臣(1002〜1060)は詩作の中で冷凍乳製品にふれ、「氷酥」と呼んでいる。多分、南宋(1127〜1279)の「氷酪」は北宋(960〜1127)の頃は「氷酥」と呼ばれていたであろう。
 もし、この説が間違いないとすれば中国冷凍乳製品は千年近くの歴史があることになる。

文献

1)桑野貢三:冷凍、64(736)、110〜111、(1989)。
2)桑野貢三:冷凍、60(696)、108〜113、(1985)。
3)世界百科事典・70年版1巻、平凡社、東京(1970)。
4)田口和夫:貞享年間大蔵流間狂言本二種、144〜146、わんや書店、東京(1986)。
5)高橋昇造:最新日本歴史年表、17〜19、三省堂、東京(1930)。
6)NHK日本のうた・ふるさとのうた100曲、67、講談社(1991)。
7)貝円禎造:古代天皇長寿の謎、六興出版、東京(1985)。
8)郭伯南:人民中国、9月号、86〜89、人民中国雑誌社、北京(1988)。

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