まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録


Ice 001 桑野貢三・氷室エッセイ集

氷室雑話  (1)(2)(3)|(4)|(5)|(6)

――――――――――――――――桑野貢三 by Kozo Kuwano

copyrighit 2003-2004,Kozo Kuwano 

 

(4) 〔掲載:「冷凍」69巻805号、1994年11月号。日本冷凍協会発行〕

 

金沢・湯湧温泉・復元氷室の氷室開き

 

 金沢の奥座敷・湯涌温泉に「氷室」が復元されて6月30日に「氷室開き」が行われることを2、3年前のNHK・TVローカルニュースで見たことがあった。NHK金沢支局に様子を問い合わせたが、情報が入らなかった。
 昨5年末に「北陸冷蔵70年のあゆみ」を頂戴し、この中の記事である程度の知識を得ることが出来た。そこで6月29日から2泊3日で取材旅行をした。
 29日にANAで小松空港経由で金沢に正午に入った。腹ごしらえの後、石川県歴史博物館(図1)に資料を求めて見学したが、残念ながら収穫はなかった。

 この建物は旧陸軍の兵器庫で3棟の赤煉瓦造りを歩廊で結んで展示場としたものであり、重要文化財に指定されている。この種の建物としては九段・北の丸の国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)と共に数少ない貴重なものとされており、懐かしい思いのする雰囲気であった。ここは兼六園の南に当たり、厚生年金会館・美術館・能楽堂・護国神社が隣接している。私は旅のスケジュールに各地の護国神社を詣でることを必ず入れている。今日の繁栄した日本はあの戦争で、「後に続く者を信じて散っていった多くの人々の犠牲の上にあると思っているので、ここでもお参りをして感謝と冥福を祈ってきた。
 湯涌温泉へのバスは1時間1本しかないので、時間待ちのために喫茶店に入った。ふと見たポスターは「加賀宝生能」の定例公演スケジュールで、6月は5日に「氷室」と「通小町」、狂言「宝の槌」が演ぜられていた。金沢は能が盛んだと聞いていたが、新暦の氷朔日(6月1日)にあわせたように「氷室」が演じられていたのはさすがだと思った。
 バスは30分ほどで温泉に到着した。宿は氷室に一番近い「やました」にとっておいた。玄関を上がり、導かれた廊下の両側に竹久夢二の絵が並んでおり、セピア色に変色した夢二と彦乃のツウショットの写真が掲げてあった。夢二の文学碑があることはパンフレットで知っていたが、この宿は“随分、夢二に肩入れしているなあ”と思っていたら、彼が大正6年9月から笠井彦乃と逃避行し、この宿に20日間逗留して居たのだと言う。早速、その文学碑を見に出かけた。宿の前の石段を登ると薬師堂がある。ここが明日、献茶式が行われるところだ。
 その境内に文学碑はあった。
「湯涌なる、山ふところの小春日に眼閉じて死なむときみのいうなり夢二」とあった。
 そこから氷室のある玉泉湖に廻り、明日の下見をした。かやの小屋掛けをした氷室はだいぶくたびれた模様であった(図2)。これでは雪も相当溶けてしまっているだろうと思って宿に引き上げた。
 そして待望の「氷室開き」の当日(6月30日)となった。式は10時から始まると言うので宿を9時半過ぎに出て玉泉湖へ登って行った。氷室の前では関係者が準備の最中で、時刻のすすむに従ってぽつぽつと観光客が集まってきた。そのうち、バスツアーの78人のグループが到着し、NHK・TV金沢をはじめ報道関係者が集まり、にわかににぎやかになった。裃に袴姿の安藤観光協会長はTVインタビュアにこの行事に就いて説明している。「この湯涌地区には昭和30年頃まで氷室があった。歴史的・文化的遺産として。61年に復元され、9年になる。この行事も年々盛んになり、来年は10年を迎えるので盛大にやりたいと思っている。氷室の大きさは間口4m、奥行き6m、深さ2.5mで地下にコンクリートの槽を造り、その上に丸太の小屋組をして茅の屋根を葺いている。大寒の頃の雪を積んでは叩いて(図3)約60トン保存している。小屋は昨年、骨組と茅屋根を新替えした。いま残っているのは10トンあればよい方だろう。積み込んだときの締め具合とその後の天候で残量は大きく変わる」。槽は60uだから、かさ比重からいってせいぜい50トン入ればよいだろうし、25mmの保冷板が廻されていてもあの屋根では相当に溶けてしまう。
 10時少しまわって式は始まった。参加者はおよそ200人、安藤会長の挨拶の後、金沢市経済部長・地区市会議員の祝辞があり、湯涌薬師寺の住職の仏事の後、氷が切り出され、そして氷室から雪氷が差し出される(図4)。本日のクライマックスである。これをTVカメラは逐一、撮影していった(図5)。ツアー参加者も献氷用の後に切り出された雪にさわって楽しんでいる。倉の中を見ると溶け残ったのは7〜8トンあるかなと思える程度であった。
 それから献氷の奉納行列は玉泉湖の廻りを回って薬師堂まで進む。「のぼり」と氷室大鼓がふれ乍ら先頭にたち、住職・献氷を捧げ持つ会長・役員・観光客の順で続く(図6)。薬師堂に着いて仏事・玉串の奉奠があり、ここの原泉と献氷で沸かした湯でお茶が点てられて、献上される。
 その後、観光客に氷室万頭とお薄が振舞われた。また、一方で氷室そうめん・氷室酒も振舞われている。氷室酒は「加賀のK酒・B楽」で「氷室の酒・94年2月25日瓶詰めし、氷室に入れました」のラベルが張ってあったが、相当低温の倉に入れたのか、まだシャーベット状で美味しいとは云えなかった。昨年、高山で味わった季節限定出荷の「氷室」銘柄の吟醸ものにはとても比べものにならない味であった。
 式は無事、11時過ぎに終了した。
その後、百万石文化園・江戸村を観て、金沢市内に戻り、昨年、尾山神社を詣でたとき見落とした「氷室」跡を訪ねた、境内を廻ってもそれらしきものが見あたらないので社務所に聞いてみた。「境内からは見られません。合同庁舎側の道路の中ほどのところにあります」と云う。早速そこに回ったが確かに境内を歩いては見あたるはずもなく、道路から10m程入り込んだところに「尾山神社氷室跡地」の石標が建っていた(図7)。裏側には「昭和48年石川県神社庁の敷地に譲受を記念し建之」とあった。敷地は奥行き10m・幅20m程の芝生になっていた。
 ここにどんな氷室が建てられていたのであろうか。こうして、この日の取材を終えた。

金沢市で「氷室の日」に「万頭」を食べる

 ホテルを出ると昨夜来の雨はまだ少し残っていた。駅への途中、護方山専光寺へ立ちよる。
 ここに加賀の千代女の埋骨塚がある。その脇の説明板に依れば、「加賀の俳人・千代女とは元禄16年(1703)松任町の福増屋六兵衛の子女として生まれた。福増屋は専光寺の門徒であり、千代尼没後遺骨を納めている。安永4年(1775)9月8日、“月も見て我はこの世をかしく哉"の一句を残して72才で去った」とあった。千代女は次ので句を残している。

  「涼しさや 氷室の雫 しずくより」

 金沢駅でロッカーに荷を預け、取材をはじめた。改札口前に立看板があり、「ようこそ金沢へ氷室の日』観光キャぺーン」
 “7月1月は「氷室の日」です 金沢ではこの日におまんじゅうをたべて1年の健康を祈ります ぜひお試しください”主催 金沢市・同観光協会・湯涌温泉観光協会・JR旅連、他多くの協賛団体の名が連記されている。
 駅名店街に入ると、献上水の展示コーナーがあり、湯涌氷室の写真パネルと氷室のいわれの説明板がある。ここで13時から氷室万頭3千ケが配られると云う。
 「氷室万頭」は加賀藩中興の5代藩主前田綱紀が将軍家に「お雪献上」をする「氷の節句(旧暦6月1日)」に城下の菓子司に赤・青・白の3色の麦万頭を作らせ、塩味のつぶしあんを入れ(現在は甘いあん)、「氷室万頭」と称し、この日にこれを食せば「無病息災」になるという風習を作らせた。「子どもらに山拝ませて氷室餅」の千代女の句がある。爾来、300年続いており、現在では月遅れの7月1日を「氷室の日」として金沢市民の間にすっかり定着している。
 TV・CMでは「氷室万頭の御予約をお早めにどうぞ」と盛んに流していた。このほか、併せて竹輪・アラレ・生アンズの実を食べる習慣があると云う。各名店街ではそれぞれ「氷室万頭」のPOPを置いて宣伝している(図8)。オリジナルの3色があり、酒万頭あり、焼印のみもあり、大きさもまちまちで、価格も90〜130円/ケととりどりである。その日1日だけの商品なので日持ちのよい真空包装などはない。賞味期間も2日と云っていた(図9)。
 井上雪著の「金沢の風習」に依ればこの日は特別に作った氷室万頭を食べて一家の健康を喜びあい、娘の婚家先へも届ける習わしがある。

 金沢の町には杏の木が多いのだが、ちょうどこのころ、用水や長い土塀の上から、ほどよく熟した杏の実がのぞく。地に落ちそうなその寸前をもぎ、ほかに焼き竹輪を添えて万頭とともに娘の婚家先へ持参するならわしは、恐らく金沢だけに行われている習慣のようである。
 いただいたお万頭は、お重箱に、あるいは折詰めにつめて、嫁入りの時に持参した定紋入りの紅の袱紗をふわりと掛けて、お仲人さんや近隣へまで配るのである。だから、数十個以上求める人もあって不思議でない。なんとも丁寧な、悠長な金沢びとではある。
 注文で忙殺される万頭屋はその日に備えて前もって予約をとり用意を万端にととのえて、早朝からの来客を侍ったり、予約の配達をしたりする。万頭は夜通し作られるらしく店員は寝不足の眼に手早く大小の包を数えながら並べ、右往左往して忙しげである。
 ふっくらと蒸した赤、青、白、三色の万頭は初夏の爽やかな空気の満ちる早朝の町々に配られて、この日いちにち町は万頭がさわぐ。家々のお茶菓子にも、事務机にも、大工さんの小昼にも、この日は万頭が必ず出される。金沢の町では客人にお菓子を出すときは必ず半紙を斜めに折り、その上に載せた菓子を帰りに持たせてあげる風習がある。――中略――近所にある越山甘清堂は酒万頭で特にふっくらと柔らかいお万頭で知られ、氷室の日には謡曲氷室を謡い氷室万頭をいただく風習が四百年伝えられ、全く庶民の暮らしに溶けこんでいる。

 こうして2日間の取材も終り、12時43分発の特急、「かがやき」に乗り東京に5時には戻ることが出来た。とかく、民間習俗が消え去っていく今日「暮らし易さ日本一」と云われる金沢には連綿と続く「氷室の日」の様な懐かしい風習が続いていることに羨ましく思える旅であった。


氷の文化史もくじBACK  (3)←|→(5)


ーーーーーcopyrighit 2003-2004,Kozo Kuwanoーーーーー 

本ページのリンクはフリーですが、本文内容の引用及び

図表の使用は著者の了解を得ずして禁止します。    


 

HOME 海TOP 味TOP