まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録


Ice 002 諏訪湖氷業史譚

氷のきらめき(抄)  (1)(2)(3)|(4)|(5)|

――――――――――――――――浜 森十 by Moriju Hama

桑野貢三 編

copyrighit 2003-2004,Moriju Hama&Kozo Kuwano 

 

(1)|本稿掲載の経緯|1-張りてきびそき厚氷|2-諏訪氷の着手|3-下諏訪採氷の草分け小口安蔵|

|4-安蔵伝聞|5-安蔵に続く人々|6-諏訪湖天然氷株式会社|7-氷の切り出し|

(2)8-小野氷室9-「氷の今昔」から10-「諏訪の風土と生活」から11-廣瀬町小口義美氏のお話

12-北四王、小口勝巳氏のお話13-天竜川通船・諏訪氷の東京廻し14-岡谷の氷庫思い出話

15-湊地区の氷庫

(3)|16-石船渡から上諏訪へ|17-神宮寺氷池|18-茅野の氷庫|19-富士見の採氷|

(4)|20-高木十吉日記|21-採氷作業|22-氷庫貯蔵|23-氷の検査|24-十吉青年活躍す|25-他社の採氷視察||26-貨車へ積込出荷|27-会社閉鎖に至る|28-十吉周辺日記録|

(5)島木赤彦と諏訪氷(準備中)|29-「氷むろ」創刊|30-氷室と茂吉「悲報来」|31-赤彦晩年の氷湖の歌||32-おわりに|編者よりひとこと|

 

 

(2)   〔掲載:「冷凍」69巻796号、1994年2月号。日本冷凍協会発行〕

 

 

8.小野氷室(ひょうひつ)

 諏訪湖天然氷株式会社は明治44年解散し、そのあとを大正3年頃小野通雄氏の小野氷室が継ぎました。諏訪湖天然氷株式会社というのは前回書いたように下諏訪駅東側に明治39年設立され、県外各地へも引込線を使って広く出荷されました。しかし最盛期が過ぎると経営陣の足並も乱れてきました。小野通雄氏は諏訪湖天然氷株式会社の社長だった小口金三郎氏の親戚関係でそのあとを引継いだわけです。

 以下は小野通雄氏(昭和25年歿73才)の長男宗一郎氏(83才)よりのお話。

○小野氷室は、まず氷庫を大きな1棟にまとめて建てかえた。冷蔵庫を造り、これは大へん評判がよく肉、卵、魚、りんご、ビール等の他、県外もふくめ各地蚕種業者から蚕種冷蔵の委託があった。魚肉類用、蚕種用と2つの冷蔵庫にわかれ入口は大きな重い扉で仕切られていた。
○前回ふれた高木十吉氏は諏訪湖天然氷社解散ともとともに、菱友醸造に勤め出し水から手をひいていたが、その経験に基づく助言をしてもらい大へん世話になった由。
 父は始めは製糸経営者山共小口金三郎氏の縁で岡谷橋原の丸共製糸をやっていたが大正のはじめ私の5、6才の頃製糸をやめて氷庫を引継いだ。それから昭和にかけて続けたが戦争がはげしくなってやめた。(後押しをしてくれた小口金三郎社長のところは父通雄の母方の実家である。)個人営業に切りかえ「諏訪氷室(ひょうひつ)」とも呼ばれた。大正4年頃から住宅も氷庫の場所(皆野町線路ばた)へ移した。
 昭和に入ると不景気になり、同時に氷の質も悪くなり、人造氷に押されて営業は振るはなくなった。
○採氷は前日のうちに「線引き」といって採氷、予定区域に大きな定木で筋をつける。雪の降った時はその都度まず雪かき作業を町内各区グループの分担請負いでやる。
○湖水から氷庫への運搬は片道25分位だが、なかなかのスタミナ労働で、2人がかりの荷車(山車)は半日、4回が最高。1回に氷を12枚位運ぶ。馬運送なら25枚平均で2、3回、これは積込積卸に時間がかかる。
○氷庫の係は長年の地元ベテラン12人程が働いた。合計係が伝票引替に賃金を渡す。他の地方からも人夫を採用し農家の空室を借りて間借の室を用意した。期間は短いが率のよい仕事だった。皆よく働いてくれ父は秋になると慰安旅行につれて行った。氷の出荷の上得意ということで鉄道省より毎年6ヶ月の二等車パスが与えられた。それを利用して父は販路の開拓をし取引先を廻り各地の業界を視察し研究をした。
 2年ほどたってから氷の積込みやすい高さに引込線ホームを駅で造ってくれて、これには何とも言えない感謝をした。家でもトロッコでホームまで20米を完成した。駅長とは駅も官舎も近く父は友人のような楽しいつき合いをしていた。
○2月始から3月節句頃まで積込の盛りで氷庫から駅のホームまで氷の山になる。毎日2、3車の貨車に積込作業が行われる。遠くは仙台まで氷を送ったことがある。横浜の三ツ矢サイダーは上得意だった。
○氷の不足の時は、杖突峠の守矢氏の氷池から手車で運んだことがあった。長地の蚕種業小口長重氏の家へ運んだこともある。奥さんが氷切りの人達まで、もてなしてくれたことを覚えている。氷の不足の時はお互に融通し合ったものだ。
○氷の衛生検査があったが当時のことで警察や係員への袖の下は普通のことだった。

9.「氷の今昔」

 吉澤忠重氏の記録「氷の今昔」を紹介します。吉澤氏が若い時採氷の仕事をした経験を思い出して書いたものです。その中から、

 「当時は下諏訪には氷庫が2つあり、1つは菅野町の小野氷室といい今の踏切りの向うの石屋の西側に2棟の庫があった。そしてもう1つは(富部の)富田屋の氷庫だった。富田屋の氷庫は小野氷室の半分位の大きさだった。富部の若者は毎年富田屋の庫を請負った。(小野水室は友の町や四王の人達が多かった。)1庫分でいくらと金額を決めた為その年によって思うように氷が出来なかった時は予定した日当稼ぎにはならなかったが大寒で厚い良質の氷が出来た年は予定以上に能率が上がり日当勘定も多くなり、そんな時は仲間の連中で馬肉等買い込んで、たらふく食って一杯やり楽しんだ。」

 「朝飯は夜が明けると間もなく家族の者が湖水端(ばた)まで運んでくれる。湖岸の石垣の下で北風を避けながら熱い味噌汁をすすりメンパで食った飯の味は格別で今でも忘れることはできない。時々は正月の餅等お雑煮にして来てくれて、どろっとした雑煮汁は体を温めてくれるに充分だった。」

 「料理屋や食品店で使う冷蔵庫は全部この氷が使用され氷庫から出された氷は1貫目いくらと言う値段で配達され、ひきぬかだらけの氷がズック袋にくるまれて運ばれてゆくのをよく見かけた。」

 吉澤氏から直接伺ったお話。

○高浜沖から高木下にかけては二本木浜といって氷の質が良かった。
○高浜温泉の林嘉平氏は、なかなかの企業人で国鉄バスよりずっと以前に和田峠へバスを走らせたという人で、彼が中心となって高浜に氷庫を設けたことがあったが間もなく湖氷の汚染で、その他の氷庫と同様廃止となった。
○精算の時、日当が3円から3円50銭にもなると大喜びで現金収入の無い冬の仕事として割のよい仕事だった。
○バラス道の新道は凍(し)み上がり車の轍(わだち)だけが深く刻まれ、氷の張った溝をたどって動いた。馬の運送は1台で3、40枚(富田屋は小野氷室より湖水から近いせいか多く積む)馬方は手綱を肩に鼻唄で歩いた。山車は厚い氷の時は12枚位、薄い時は16枚も積んで2人で組みになって曳いた。
○暗いうちの作業だったので時には切り離した氷の上に乗り湖中に落ちた。皆でひき上げ岸の田園で藁を焚き応急に温め着替えさせることもあった。

10.「諏訪の風土と生活」から

 この本(小林茂樹著)にも諏訪湖の採氷のことが書かれています。その中から、

○「口開け」といって水切り鋸の入るだけ5寸から1尺位切り開けて、切り手はそこから筋付鋸で付けた筋目を後ろへ切り進み、切り終れば小さい木槌でチョンと氷上を打つ。厚い氷は雑作なく折れて離れる。(尚、氷を水面から引き上げるのにコツがあり浮力を利用し一度すこし水中へ押しこんで浮き上る時の力でタイミングよく大氷挟(カンパ)をつかって引き上げる。これは岩本素樹氏のお話)
○切り手は四ツ釘のカッチキ下駄、引き手は三ツ釘の力ッチわらじ。
○(前回でふれたが)諏訪天然氷社の氷庫内に諏訪蚕種冷蔵庫を併設して大正5年頃まで相当数の預け入れがあった。大正3年頃の管理者は矢ケ崎三弥氏。
○上諏訪町の氷水屋、昭和2年夏62軒、内当年開業9軒。

11.廣瀬町小口義美氏のお話

○氷を伐り出す寸法をはかるのに三間もある貫の三角定木を使った。氷の持ち上げ方にコツががあり*でなく*、角の両側に手をかけて持ち上げると手がすべらなくてよかった。
○小口巻雄、正一、義美の3兄弟は湖畔の採氷作業の人集めを取りしきり毎年各所の氷庫から頼まれた。人不足で高遠からもやって来て町内の安宿に泊っていた。中には作業のきびしさに一晩で逃げ帰る者もあった。
○小口正一氏の奥さんは岡谷の氷屋カネサン小口一司氏の伯母で、同じ氷採取業のつながりがあったかもしれない。
○氷厚2寸位の薄い氷は2枚を重ねて1枚に合わせる。氷庫の高い所へ積みあげる時は斜面の桟橋を万力(まんりき)をつかって引き上げた。
○夜中に食事をして出て来て、暗いうち仕事を続ける。朝登校の子供が弁当を持ってくる。火を焚いて朝食をとった。氷を伐る間は体があつくなるので、シャツ1枚でやり、一ぷくする時は火にあたって厚いものを着る。4区の人が湖水へ落ちた時など、竹竿で引きあげたが、まるで鎧のように服が氷ってしまい家へ帰ったなり、もう出て来なかった。氷を切ったあと忽ち薄氷がはりその上に雪がつもるのでそこへ踏み込んで落ちる者が時々あった。

12.北四王、小口勝巳氏のお話

 大正末から昭和初めにかけて小野氷室で働いた方。
○米俵2つ折にして背中にあて氷が滑り落ちないように背中に段を作って背負った。
○飲食用氷の他保管料をとって魚肉類や蚕種の冷蔵を委託された。(町内富士見町西尾長太郎氏の蚕種など)
○大きな氷鋏(ばさみ)はガンバといったが(ガンバサミがつまったのか)ガンバには長短2種あり、引きあげるのは長、岸へ引っぱって運ぶ時は短と使いわけた。

13.天竜川通船・諏訪氷の東京廻し

 湖水の水の落口の岡谷から天竜川を下って河口の遠州豊田郡掛塚まで51里30町、この長い川筋を舟運でつなぐのが天竜川通船でした。諏訪湖の氷を天竜川通船によって江戸横浜へ送る計画が文久3年横浜に住む中川嘉兵衛によって企てられました。しかしこれは結局成り立たず、更に彼は群馬、栃木、岩手、青森でも試みて失敗を重ねた後、北海道へ渡り遂に函館五稜郭の外濠で成功しました。これが世に函館水と言われるものです。

 天竜川通船は当時はまだ岡谷、平出間の舟便が開けていませんでした。一刻もはやく送り届けなくては忽ち融けてしまう氷輸送にとって積荷の積みかえは大変な支障となります。更に河口まででも50余里、その先の海路へと続く長丁場。舟で諏訪湖の氷を運ぶという中川嘉兵衛のこの壮大な計画は実現しませんでした。
 岡谷から河口まで全川通運が可能となったのは明治6年のことです。(下りは河口まで3―4日1駄分賃銭94銭、上り1円58銭3厘。)中川嘉兵衛が企てた文久3年より14年たって明治10年に結ばれたこの天竜川通船で、諏訪湖氷を東京へ送る約定に関する資料を三澤彌太郎氏よりいただきました。

 松本新聞第264号写(明治11年2月10月付、岡谷林義博氏蔵)これを要約すると、

○通船問屋尾澤辰之助及び戸長、副戸長連名で、明治10年12月24日、長野県権県令代理少書記官宛。
 天竜川通船で東京へ氷を輸送したい。売捌がうまくゆけば相当の税金も仰付け下さい。何卒許容下されますよう御願申上げます。
○次いで明治11年1月、為取換約定証写。
 東京日本橋蠣殻町、徳川従二位邸内、田中傳代理小西久治郎(買主)より尾澤辰之助を含む8人(売主)連名宛。
氷500頓、此金凡15,680円也、諏訪湖――遠州掛塚を経て東京港までの運賃買主負担。
(その他買主の売肌利益の処分法まで規定されている。)この約定書は実際取引の前歿階、基本契約の如きもので、諸条件は売主有利になっています。
諏訪側の売主連名8人には地元郵便通運業者の尾漫辰之肋(岡谷)と小平俊吉(下桑原)の他に上諏訪村々会議員等有力者が加わっています。

○蠣殻町3ノ1、現在この近くで明治中頃から永く氷屋をしている日本橋冷凍、手島賢司氏の語るところでは、
 「諏訪の氷の取引先田中伝と思われる店は昭和10年頃まであったような気がする。というのは自分が10才位の時、有名な氷屋さんだった家が、引越してゆく、と父が話しているのを聞いた記憶がある。しかしその頃その家は氷屋をやめていたと思う。この氷屋は徳川様の屋敷へ出入していた。当時は遠くから氷を引いて来たので諏訪からも引いて来たこともうなづける。」(以上は東京の昔の生徒小林靖幸氏が聞いて知らせてくれました。)
○徳川従二位邸は紀州徳川家。江戸時代に濠にかかる橋を紀伊国橋とよび明治になって蠣殻橋となった。氷を積んだ船を着けることができたと思う。明治11年地図を見ると、橋の向かい濠をへだてて箱崎町。ここに北海道開拓使本庁があり文久3年諏訪氷の天竜川通船輸送を計画した中川嘉兵衛の函館氷は開拓使庁の倉庫を借りて氷庫としたから、ひょっとすると、函館氷と諏訪氷がはるばる東京のこのあたりで相会したかもしれない。

14.岡谷の氷庫思出話

カネサン小口氷屋、小口一司氏のお話
 明治43年頃、一司氏の父艶治氏が氷屋を始め、後に魚屋を兼ねた。岡谷駅前の旅館岡谷館がNTT近くで氷屋を始めたのも同じ頃である。既に明治40年或はそれ以前、岡谷では御倉小路鉄橋下、舟付場近くの小林さんがタバコ屋を兼ねて氷屋をやっていた。大正初期にやっていたのは丸山橋ぎわの正星(しょうぼし)、小口の北村槇三郎氏、新屋敷の三省堂、今井マルモ高木の先代、(御小休本陣今井梧楼氏らと共同で塩嶺峠下の氷池で採氷、梧楼氏宅の向かいに氷庫があった。)など。一司氏は昭和初年(24才頃)に家業を継いだ。(村にはよく氷屋とよばれる家があった。家の者が、はしかやかぜで熱を出すと氷を買いにそこへとんでいった。私も、小さいバケツを持ってお使いに中央通りのカネサン氷屋へ行った。電球を換えてくれる電気会社のそばで、夜店の八百屋も出ていた。いつも暗い晩だった。)
 カネサンの氷庫はサス中(なか)の交叉点を上浜公会所へぬける道少し入ったところに15坪1棟。それと田中線若官郵便局辺、線路下600坪の地に氷池(飲食用の良質)と氷庫(20坪)。夏場は上の池は鯉、下の池は鰻を飼った。氷池は衛生上、人家から100米以上離れていなければならないという許可条件だったが当時はまだ附近に人家は無かった。その他カネサンは湊村小田井、久保寺(きゅうほうじ)下にも15坪の氷庫(今は人家になっている)を持っていた。
○飲食用の氷には県衛生部の検査があり、岡谷警察衛生課の立合検査がすむとその人達の接待をした。検査員が氷庫へ入ってくることもあり、こちらから警察へ氷を持ってゆくこともあった。時には不意打の検査もあった。一応アンモニア分析検査があって結果の通知が来た。
○氷の伐り出しには湖畔の漁師をたのんだ。主に湊の人だった。毎年凡そ同じ人を頼み分業で仕事をした。日当はまとめて終ってから払った。
○切り出した氷を湖畔の空地へ置き夜の明けぬ道を運送で運ぶ。その音はやかましかった。
○氷を積み上げる時、内部の氷にはオガクズを入れずピッタリと氷を重ね、まわりと上をオガクズでかこむ。出荷の時は凡そ3尺幅の取出口から、厚くオガクズを敷いた上へ割れないように氷を落とす。オトシにしてあるのでだんだんオトシ板をはずしながら下へと移る。
○病人用、魚肉貯蔵用、料理屋の料理保存用、(36貫1本で3日はもった)アイスクリーム、氷水用(夏の興行のある所へは大量に出た)など。
 大きな製糸家には病室があり、夜半、病人が急に出ると、そこからの使いにたたきおこされた。
 馬運送で岡谷病院へも氷を運び、1、2台分を病院の貯蔵庫に入れた。
 特殊の用途としては或年間下(ました)の変電所へ機械を冷やすため毎日何百貫と氷を運んだことがあった。
○県へ切出量を自主申告し税金を払った。毎年の例で何十円位だったと思う。
○暖冬で困り坂室(さかむろ)、神宮寺や軽井沢から取りよせたり今井の中堤(なかつつみ)の氷(あまり良い氷ではなかった)を切らせてもらい間に合わせた。感冒チブスの流行で氷が間にあわず看病の人が氷の到着を並んで侍っていることがあった。
○オガクズの運搬は積込に手間がかかるのでいやがられた。不足の時は辰野からも買入れた。古いものと新しいものを混ぜて使った。

岡谷館(中村屋)赤羽惣肋氷部
 岡谷駅の近く翠川医院の裏、NTTの路地のあたりに氷庫があり、駅前旅館岡谷館の経営でした。ここは近くに岡谷市場(よりあいマーケット)、平野衛生病院、又お盆の見世物のテントがいくつも張られる空地もありました。昭和10年前後少年時代をこの氷庫で働いた辰野氏のお話。

○凡そ6間に12間位の氷庫で素立(すだ)ちの柱に二重板壁、壁の間にオガクズ。床は土間、窓は無くトタン葺き。大鋏に大鋸、割刀(共に3尺位)、木槌(丸太から柄(え)を削り出したもの)、大型天びん秤。
○仕入先はカネサン小口氷屋や富士見の植松など。市内の食料品、魚商のカネカ、ヤマショウや、山せん楼へ100貫、150貫と大量に納入した。
 飲食用氷は1貫目10×15×30センチ位で10〜12銭。(当時氷水は1杯5銭位、本町通り宮津園喫茶部の高級品なら15銭)一般の病人用は1、2貫目の注文、工場は多量注文。製糸工場では石油箱に木屑をつめて保管していた。夏期に氷のぶっかきを女工たちに与えたところもあった。蒸気、熱気の中で糸をとる人達のために救いとなった。
 氷の気泡の数で飲食用、冷蔵用を区別することがあった。飲食用は泡のない殆ど透明の上質水だった。
○よく夜の配達があって、無灯火の自転車で警察の大目玉をくった。提灯(ちょうちん)のローソクが途中でよく消えた。氷庫の屋根ぬりのコールタン容器を落として叱られた。御倉小路へ10貫程の氷を白転車で届ける時、駅前でマルエスの車掌さんと正面衝突し氷は路上に散乱し大勢が飛び出して来てアッという間に氷を持ち去ってしまった。その分は暮の給料から差引くと怒鳴られた。15貫以下の小口は自転車、それ以上はリアカーを使った。
○月2回の定休日、通りは女工さんであふれた。映画館や食堂、小間物屋、下駄屋、写真屋などいっぱいで町中が特有のにおいになった。定休日の夕方になると製糸工場から氷の注文が来た。工場で飲食に使うのではなく、町へ遊びに出た女工さんが久しぶりの休みに解放されて暴飲暴食となり夕方から夜にかけて熱発患者が出るからだ。他所で聞いた話だが友達にアイスキャンデーを買って帰った女工さんが、友達の帰りが遅いので溶けてしまうのが惜しく一人で何本も食べた結果重病になり翌朝大変なことになったとのこと。

丸山橋の正星(しょうぼし)、唐津氏のお話


○大正3年酒屋を始め、2年後氷を扱った。昭和16年応召の頃まで続けた。氷庫は田中小学校の両脇にあり、左側が飲食用、右側が冷蔵用。
採氷は小坂観音下と弁天沖。後に輸送の便から近くの弁天沖だけになった。
 特別の販路はアイスクリーム用の氷で、当時朝鮮の人達が赤い旗を立てた乳母車様の手押車でアイスクリームを売り歩いた。正星はこの特約店となり元締めの人を通して、たくさんの人が氷の仕入に来た。のちにこの氷庫で実験動物を飼ったりしたが台風でつぶれてしまった。
 諏訪湖が汚れてくると飲食用氷を富士見から大井や平井トラックで運ぶこともあった。
○当時酒の醸造にも氷が役立った。暖冬には氷をつかって温度を抑えた。
○マルモ金物店のじいさんは山浦出身の鍛冶屋で採氷用の特製鋸を扱った。

中央通赤羽多津男氏のお話

○多津男氏の父英一氏が提出した河川産出物採取願(昭和10・2・21県知事宛)が諏訪市豊田出張所に残っている。採氷池は豊田村船渡。氷庫は湖畔街道岡谷東高校の裏あたり。この付近には他の家の氷庫もあった由。
○氷は半分に割るので16貫8貫4貫というように半分割で取引した。夏は1/3の目減りがあった。
○天気次第のウンプテンプの商売で安定性がなく昭和12年には氷の商売をやめた。
○アイスクリームの引き売りは「盛(も)って盛って盛りからかして……」と路地に声をひびかせた。塩と氷をまわりに入れて回転すると零下10度位に下った。
 赤羽のアイスまん頭(じゅう)は氷を桃の型に押して甘露(いちごカンロ)をかけた。卵を多くすると、うまく凝結しないから黄色の着色料をまぜた。当時としてはしやれたレストランが上諏訪、岡谷にでき、本式アイスクリームが作られるようになった。

15.湊地区の氷庫

 湊には氷庫が何個所もあったので、まずそれを書き並べると、

 花岡公園下      山岡孫作等経営
 湊2丁目南中校庭東側 浜治郎左衛門等経営
 〃〃久保寺下、小田井 カネサン小口一司経営
 〃3丁目3、     みゆき屋経営
 〃4丁目9、     小坂勘作等共同経営
 〃5丁目1、     花岡民之肋経営
 その他、小坂安全館、味澤八百吉魚店の氷庫など。

小口恵吉氏のお話

○湊の湖面は日照時間が短いので良質の氷がとれた。(恵吉氏は岡谷中央通り氷屋カネサン小口一司氏のいとこ。)カネサンでは中央町、田中線の他、湊小田井にも氷庫を持ち、恵吉氏が協力して村の漁師たち14、5人を頼み、ここに採氷貯蔵した。
○カネサンの中央町氷庫へ夜のうちに馬運送で運んだ。細い通り道は夜通しガラガラとうるさく響いたが当初は通りの人からあまりウルサイことを言われなかった。夜間の労働をする人への同情もあったかと思う。
○氷の目がタテになってザラザラとくずれやすい氷をタツ氷といった。渋のエゴ(入江)のところは一番先に氷り又一番遅くまでとけないので採氷にもスケートにも適していた。しかし次第に人家ができてきて、そのうちにガラガラ馬車の音や夜間仕事がうるさいと近所の苦情が出るようになり久保寺下へ採氷も氷庫も移転した。
○恵吉氏の父恵三郎氏(30年前死亡)がカネサンの湊での採氷を取りしきった。釜穴もすくなく良い氷がとれた。2枚ずつ背負ったり、2人組みのモッコで運んだ。ゴム長にカッチキをつけた。ぬれるのでゴム長がよかった。藁靴は軽くて地上の運搬には適していた。
 若かったから寒い夜の方がかえって仕事がやりやすかった。あったかい夜は氷がとけてぬれてくる。それが夜明けにまた氷るので仕末がわるかった。(これは近所の浜泰一郎氏のお話)

 

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