まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録


Ice 002 諏訪湖氷業史譚

氷のきらめき(抄)  (1)(2)(3)(4)|(5)|

――――――――――――――――浜 森十 by Moriju Hama

桑野貢三 編

copyrighit 2003-2004,Moriju Hama&Kozo Kuwano 

 

(1)|本稿掲載の経緯|1-張りてきびそき厚氷|2-諏訪氷の着手|3-下諏訪採氷の草分け小口安蔵|

|4-安蔵伝聞|5-安蔵に続く人々|6-諏訪湖天然氷株式会社|7-氷の切り出し|

(2)|8-小野氷室|9-「氷の今昔」から|10-「諏訪の風土と生活」から|11-廣瀬町小口義美氏のお話|

|12-北四王、小口勝巳氏のお話|13-天竜川通船・諏訪氷の東京廻し|14-岡谷の氷庫思い出話

|15-湊地区の氷庫|

(3)16-石船渡から上諏訪へ17-神宮寺氷池18-茅野の氷庫19-富士見の採氷

(4)|20-高木十吉日記|21-採氷作業|22-氷庫貯蔵|23-氷の検査|24-十吉青年活躍す|25-他社の採氷視察||26-貨車へ積込出荷|27-会社閉鎖に至る|28-十吉周辺日記録|

(5)島木赤彦と諏訪氷(準備中)|29-「氷むろ」創刊|30-氷室と茂吉「悲報来」|31-赤彦晩年の氷湖の歌||32-おわりに|編者よりひとこと|

 

 

(3)   〔掲載:「冷凍」69巻797号、1994年3月号。日本冷凍協会発行〕

 

 

 16.石船渡から上諏訪へ

 

諏訪の湖 雪こんこんと渡り初め    柳樽

       うみ                 ぞ

 

すはや狐が 渡ったと 触れ歩き      〃

  (狐は諏訪の神様のお使い、すわに掛ける)

陸は弓 湖に氷の弦を張り        〃

薄氷 ふませぬ諏訪の 御神徳     〃

  (御神渡があって始めて人馬が氷にのる)

 

石船渡氷倉、小泉源七氏のお話

○諏訪湖周辺で石船渡は湖面の日陰になる時間が一番長く良質の氷が取れる。しかし氷の出荷運搬には駅や中心地から遠くて不向きである。北有賀の県道上、山寄りの所に四〇坪(10間×4間)位の氷庫があり、主として地元の平林医院や組合製糸、東英社病院(大正3年設立)などの患者用に氷が使われた。夏期、工女―暑熱の夏の日、煮えた釜の前、むんむんする熱気の中、汗びっしょりの糸をとる人たちにぶっかき氷を与えたこともあった。

○電灯のひかれる前、製糸工場では夜業にカンテラ(ブリキ製の石油灯火)を使ったが、電灯がひかれるとカンテラは不用になった。これを工場から安く買って日の出前の氷上作業に使った。朝は風がないのでカンテラの消えることはなかった。ゴム長の無い頃、藁の雪靴をはいた。雪靴の底に三ツ歯、四ツ歯のカッチキをつけた。下駄の歯の下に鉄の爪を打ち込んだものもはいた。氷を二枚重ねて氷庫へ運び込んだ。

○採氷の道具類は朝鮮の鴨緑江おうりょくこうで使われたものをもってきて、それをヒントに模造したと聞いている。鋸は玉川あたりで作った特製のものを使った。ナギ鎌のような形のスジ付鋸も使った。北有賀の人で郡会議員をした小泉新五郎氏が石船渡の採氷をとりしきった。そのあと大正軒の笠原氏が昭和14、15年頃までやった。氷が良質だったので岡谷、下諏訪の業者も採氷に来た。

 

 上諏訪小和田、宮坂耕七氏のお話

 ○宮坂敬蔵(明治十年生)の孫、耕七氏より、宮坂氷庫のことを中心に当時の採氷の様子をお聞きした。農業の冬仕事に中門川なかもんがわを利用して諏訪湖の氷を田舟たぶねで運び入れた。氷庫は川沿いに自宅に接して建ち、今もその一部が残って工場に貸してある。他にもあと二軒ほど(湯小路の角屋の仲間など)がまねて始めた。当初、すこし上の角間川沿い(日赤看護学院付近)に氷庫を持ち、そこへ運び込んでいたが大正末期に白宅敷地内へ移した。

○高島病院(諏訪日赤の前身)の医療用や一般へも販売した。はじめは町の警察の検査、のちには県の検査になった。町内へ店を出して販路をひろげ、魚屋、料理屋、ホテル等へ納めた。八王子や名古屋の市場へも出荷した。戦後、昭和三十年頃まで敬蔵、光雄、耕七と続いた。(その後、人造氷の時代となり宮澤氏と諏訪製氷冷蔵有限会社を起こした。)

○朝、氷を積んだ舟を引きあげると中門川には“ぜえ”が流れて来て舟の邪魔をする。“ぜえ”をこわしながら舟を進める。八艘位つなげ、川の土堤道の人達が長い綱で先頭の舟の舳先を引っぱる。舟が片側に寄らないように、舳先へさきの船頭役の人が竿を挿してバランスをとる。このボルガの舟曳きのような古い写真が宮坂家に残っている。(ぜえは割れて流れてくる薄氷のこと。川を流れたり氷面に張った薄氷を東北地方で「ざえ」「ざあえ」と言う。江戸時代に蝦夷地の諸港に春先、その年はじめて入港する内地の廻船を氷割船ざいわりぶねと呼んだ。)

 

図6 諏訪湖天然氷を舟で運ぶ(岩波写真文庫・諏訪湖1957)

 諏訪製氷冷蔵有限会社

 ○衣の渡えのど川出先の弁天社附近に宮澤氷庫があり、現在は宮沢冷蔵所になっている。昭和27年頃採氷を始めたが間もなく諏訪湖採氷は不適となってやめ宮坂光雄、宮澤茂、半々出資で諏訪製氷冷蔵有限会社を作り人造氷に切りかえた。(数年後宮澤氏の個人経営になった。)

 

諏訪湖氷株式会社

○斎藤茂吉の第一歌集「赤光」しゃっこう初版巻頭の「悲報来」十首には、

  氷室より 氷をいだす 幾人は 

     わが走る時 ものを云はざりしかも

  氷きる  をとこの口の たばこの火

     赤かりければ 見て走りたり

 の二首が入っている。この歌に詠まれているのが諏訪湖氷株式会社の氷庫。大正二年七月三十日の真夜中、伊藤左千夫の計報を布半旅館で受取った茂吉が赤彦にしらせるため高木への新道を急いだ。茂吉は大和下道沿いの諏訪湖氷株式会社の氷庫を通った。

 「アララギ」の人達の中に新旧対立や雑誌経営の問題など危機感があったさ中に師の左千夫が急死した。この時の茂吉の切迫した気持、深甚の思いが「悲報来」十首に詠まれている。

○諏訪湖氷株式会社については田中阿歌暦の「諏訪湖の研究」にも書かれている。明治40年11月創立、資本金五万円、採氷反別六町歩、年採氷七五○○頓、社長武川又兵衛、湖畔六ケ町村有志名儀。

 明治41年生産七〇〇〇頓、東京(日本橋魚市場等)沼津、江尻、焼津、名古屋、神奈川方面へ上諏訪駅より出荷。その後氷庫を拡張し、冷蔵庫を設けて蚕種冷蔵も加えた。明治末から大正始めにかけて盛業。

 しかし次第に天然氷の時代は去ってゆき閉業した。

 

湖紋藤森保平氷店、当主、明氏などのお話

○氷業をやった藤森寿太郎家の分家で、そこの氷を扱った。保平(明14年生)は寿太郎氏の従兄弟。上諏訪本町の荒物商だったが氷屋を兼ねた。氷は割のよい、もうかる商売だった。

 祖父猶蔵の頃(大正初年)からはじめたと思う。

 支那事変の頃はまだやっており、その後戦争がはげしくなってやめた。

 湖紋という屋号は氷とつながる由緒のある名前で当時全国的に有名だった龍紋氷りゅうもんごおりの龍紋に因んで湖紋と名付けた。明治初年の函館氷が物産会で龍紋の賞牌を受け、函館氷を継いだ京都の会社が「龍紋」の名で全国に知れわたった。この龍紋にあやかって湖紋と名付けた時、老舗龍紋氷社から命名許可書をもらった。

○氷庫へ仕事に来ている女衆は寒暖計の見方はわからないが、肌ぬぎになった自分の背中をじかにオガクズをかむった氷にあてると凡その温度を肌につたわる感じから測ることができたと湖紋から聞いたことがある。

図7 採氷作業

○オガクズがさわってみて冷えているということは中の水の温度を外側のオガクズが吸い取ってしまっていることで、厚いオガクズのthにある氷はとげて小さくなっているはずとこれも湖紋から聞いたことがある。

 

17.神宮寺氷池

 

神宮寺の守矢氷池 数実氏のお話

 ○同区刊行の「語り継ぎ神宮寺の民俗」によれ、明治大正期の製氷販売として、

 やまかのう守矢今朝重、油屋(藤尾)藤森政次郎、下しもの氷屋五味新作の三軒がある。

 これらは皆守屋山中に水源を発する西澤川の氷田ひようでん採氷をしたもので子孫の方の話から明治三十年頃に始まったと想像される。

○神宮寺の氷屋は当主守矢数実氏の曾祖父数右衛門が始めた。(数右エ―今朝重―数江―数実)先祖は代々数右衛門を襲名した穀屋。長崎で医学を学んだ永田志解理から患者を冷やすための氷の必要性を教えられ氷屋を始めたという。もの永田志解理は村内分家の医師、寺子屋師匠物部もののべ守矢玄医げんい(明治35年歿71才)の弟で藩医永田叢庵の養子となり後に諏訪日赤の前身高島病院々長。有名な軍人永田鉄山の父である。

 

神宮寺 五味氷池 哲男氏のお話

○五味哲男家に次の書類が残っていた。

 長野県検査証(凍氷貯蔵所使用ノ認証、明35、38、大4、9)

 諏訪警察や長野県、貯蔵氷検査証、販売許可証(昭12、17、18)

 長野県知事宛、凍氷製造所増築願(大4)

○上記のうち増築願添付の構造仕様書によれば氷池ノ深サハ四尺トシ周囲底部ハ壱寸厚サノ平石ヲ敷設シ其接合部ハセメントヲ以テ密着セシメ氷池ノ周辺ハ平地ヨリハ八寸高ニシ汚物ノ侵入ヲ防グ  原料水ハ西沢ニ之ヲ採り原料水入ロニハ三尺四面ノ箱ヲ埋設シ濾過装置ヲ為シ採氷毎ニ残水ヲ桃除シ得べキ排水口ヲ其東方下部ニ設ク

 しかし、これは県へ申請する表向きのものだった。実際は西澤川の水量はさほど多くないので、たびたび水をかえるわけにはいかなかった由。池にはイモリも住んでいた。平石も敷いていなかった。秋になると池の大掃除をした。

○西澤川をはさんで氷池が一つずつあり(守矢氷池も同様)下の池は周囲に杉を植えて日陰を作った。天狗山の上の池はもともと林の中にあった。(守矢氷池では日向側にアンペラを張った。)

 

18.茅野の氷庫

 

 茅野坂室さかむろの氷庫、同区矢嶋善吉氏に調べていただきました。

○河西角左衛門の氷池。東京送りを主とした。常重氏が父のあとを継ぎ、そのあと高橋重長氏父子が市内売りを主に営業し、茅野に出張所二ケ所を置いた。上の池、下の池の二つがあり、二つあわせて二百坪位。七万貫以上積込んだ氷庫があった。高橋家の自宅にも氷庫があった。高橋氏のあとは河西初美氏が引きついだが、まもなくやめた。明治末から昭和33年頃まで長く続いた。

〇もう一つの氷庫は谷内と言う人が昭和五、六年頃まで東京送りをしていた。

〇坂室の氷倉は初期は東京送りが主だったが、その後は市内料亭用にかわった。茅野は寒天景気で料理屋が多数あり芸妓が70〜100人もいた頃のことである。

〇山の水を使うので良質の氷がとれた。高橋氏によるとアンペラ袋をひろげたもので氷池のまわりを囲み池にゴミの入らぬよう気をつけた。みかん箱一つの試験品を持って警察へ行き検査をうけた。暖冬で困り富士見の植松氷を仕入れたこともある。

〇当時お産の時の出血も氷のおかげで助かることがよくあった。お産婆さんから前以て氷の用意をたのまれた。

〇氷水の砂糖がなくなってズルチンをつかった時代があった。

〇氷を切る鋸は上諏訪清水坂下あたりの鋸屋で求めた。三重県の鋸も使った。

図8 厳寒の中で氷を切る人(左上) 図9 木製レールにのせて氷倉に送る(右下)

 

19.富士見の採氷

 

 諏訪湖の天然氷が湖水の汚染で追々衛生上問題があるようになると、それにかわって山の清水を引いた氷池の採氷が大規模に行われるようになりました。これが富士見氷池の天然氷です。

 富士見駅のあたりは海抜九五六メートル碓水峠と同じ高さ(富士山眺める九五郎)気象条件も適して早くから氷池を冬仕事に始めた人がありました。植松氷屋は有名ですが、その数年前に高原病院東側テニスコート附近で始めた人達が富士見天然氷株式会社を組織しました。大正十年頃です。このあとを継いだのが植松です。

 

(1)富士見天然氷株式会社

 社長細川嘉平の家に残されていた関係帳簿の一部が地元の細川光貞氏によって見出されました。同氏の御好意でお借りできました。

 凍氷発送簿、同小売帳(以上大正11)、作業日誌(大正12、13、14)の六冊。簡略な事務的記帳ですが、その中から採氷経営の一端を汲みとることができます。

図10 氷を積んだ貨車と氷倉

〇昭和2年7月15日付定期株主総会通知状によれば同社は昭和元年(大正15年)11月末総会で解散と決まり、精算ができたのでこの総会で「報告ヲ兼ネ第六回ノ払込ヲ仕り候間」出席されたいとある。払込年一回として遡れば大正10年か11年頃同社の設立があったと想像できる。尚今回見つけられた帳簿のうち最も古いものは大正11年4月起の凍氷小売帳である。

〇同社の近隣に個人経営の氷池があったことがわかる。(後を継いだ植松もその一人)、 等隣家と「ユイ」で繁忙期に作業を助け合ったことが記されている。「カーバイト一罐 貸す。雇十九人外 より」等。同社はもともと付近の個人経営者を中心に何人か外部の有力者も加えて会社組織にしたものと宮川一夫氏(富士見の採氷を調べた地元の方)も想像している。

〇大正11年出勤簿によれば、社長細川嘉平、以下小林政吉、小林藤吉、樋口寛、(以上は常勤役員か、いずれも月給四十円)、小川金治、小池源六、伊藤甚三、小川修平、小松喜作等。

〇富士見駅特設ホーム自社積込み通運業者扱出荷。

 関東東海方面。大口出荷の新宿を始め東京一帯、大井大崎渋谷汐留飯田町立川青梅八王子大宮、甲府小淵沢長坂茅野、千葉安房勝山、横須賀東神奈川藤沢沼津。

 中京方面。岐阜津島、木曾福島中津川多治見四日市熱田蒲郡三河鉄道北新川、遠くは鳥羽阿漕。

 大口会社納め先。日本氷販売所(新宿)富士アイス(深川)、山手製氷、帝国冷蔵。

 これら開拓した各地出荷先の多くは後に*[まるなか]植松へ引き継がれたと想像される。

〇作業日誌からすこし拾って見る。(諏訪湖の場合とは違う作業もある。)

 草刈り、土堤バラ焼(九月連日)池のゴミ上げ、鯉池土工、鯉採り(十月)

 杭打、水口拵え、石垣積、土管掘出し、入れ替修理、タンク拵え、梯子、定木拵え

 スベリ木削り、落葉松皮むき、日除けアンペラつなぎと片付、倉庫内外桟橋作り、(12月連日)木屑搬入、揚げ(三月連日)、木屑出し(二月、六月連日)捨水、屑氷出し、雪掃き。

 作業能率をあげるため懸賞金を出した時がある。

  大正14・8・16 貨車積百五頓夜十二時迄、特別に多量故懸賞金七円。

  同14・9・14 大雨に付、金弐円懸賞金。

〇ひと冬に同じ場所から三回切り出せる。例えば一号池下、大正12年をみると、第一回1月17日、第二回1月10日、第三回2月15日、凡そ二週間隔で計三回の採氷を行っている。

 

 (2)植松製氷所

  さきにふれたように富士見天然製氷株式会社は大正十年か十一年頃から昭和二年まで続いた後、近隣で協力していた同業の植松氷屋に引きつがれました。

  地元富里の宮本一夫氏(高原の自然と文化第七号)や植松製氷所創業者喜一氏婦人植松寿美恵氏が書かれたもの(富士見商工会婦人部刊「ひじろ端」)やお聞きしたことによって紹介します。

〇落合瀬沢新田から富士見駅に至る長い斜面に採氷池がいくつも造られた。二反歩位ずつに区切られた山の良い水がひかれ、日除の筵むしろを張りめぐらした。冬季厚さ20〜40糎氷を二、三回採氷できた。年産一万トンから二万五千トンに達する氷が近接する富士見駅から甲府、東京方面へ送り出された。この編一帯は今はグラウンド、体育館、町民センター等公共施設となり昔の面影はない。この天然氷は人造氷に比べて固く溶け方が遅く長持ちし、氷水として掻き出があり、冷蔵用、病院用としても評判がよかった。

〇創業者は植松喜一、大正二年本郷村立澤から富里に出て来た。材木業から続いて採氷事業に手をつけ、県内から県外へ氷の販路をひろげていった。第二次大戦中は産業動員令により採氷を行ない全国の需要に応じた。

〇氷庫は、8間×20間一棟、8間×10間三棟、8間×15間一棟の計五棟。富士見駅構内に接して自家専用ホームを造り出荷した。

 

植松喜寿氏(創業者喜一氏の息)のお話

  土手を厚く特製の深くつくった田の底に平石を敷きつめ、氷を入れた。採氷池のまわりには木で枠を造り中央にも二通りの木枠を造ってアンペラをたらし陽よけにした。アンペラは砂糖袋を切り開いてつくった。アンペラがなくなると葦よしずをかけた。……主に女の人達が柄の先に、とがった、くすぐ物がついた棒でかきあげて、それを木の桟橋(木製レール)にのせて氷倉へと運搬した。これは女の人達にとって農閑期のよい副業だった。……氷倉まで何尺角がいくらとお金を払い氷が欠けてしまうと賃金が下がったりするので割れないように欠けないようにとすごく神経を使いながら斜面を利用し氷を滑らせていくのである。押しまちがえたり、氷が滑りすぎたりして氷が欠けないように上と下で電話で連絡をとり合い氷の流れの状況を確認し、氷が滑りすぎた場合でもレールの途中に釘を打って一旦とめて送り出すように調整に工夫をこらしていた。……出荷先は北海道から九州に及んで主に東京中央市場へ送った。一日に十車も出荷する時は天手古舞で、時間までに貨車に積みこむのに大変苦労した。……天候不順で注文が少ないと出荷量が減るので、「貨車の予約が多すぎる」と言って駅長に怒鳴られたこともある。戦時下で人手不足の時など国で徴用までして人手を探してくれる職業であったことに誇りを持っている。(宮本一夫氏記録。)

 

植松寿美恵さんのお話

 〇寿美恵さんは大正9年下諏訪から植松家へ嫁に来た。それから四、五年後に高原病院のテニスコートのあたりに氷屋をはじめた。大正末にあたる。閉業したのは昭和40年頃である。今の町民センターの辺で細川嘉平さんと新田の人三、四人が氷屋をしてたのを買取った。周囲は赤松が生い茂り、今の役場の前あたりには二、三軒の家があったぐらい。五、六月には蛙がゲコゲコ鳴き……ほんとうに淋しい所だった。「よくあんなおさかい(境)へ嫁にいったものだ」と言われたこともあったが、この商売が好きで、軍需品として近所の人を徴用までして人手を探してもらえて仕事に誇りを持っていた。今のように舗装道路ではなく土のゴトゴトした道だったので雨降りの時など通り道の家々の外の戸障子を、はね返った泥で汚して、めいわくをかけてしまった。

 

諏訪市大手町の浜徳男夫妻のお話

 以前ここでも植松氷を扱ったことがあった由。母、寿美恵さんの下諏訪の実家を嗣いだ方。

 〇始め氷池は高原病院の東側にあった。当時は馬の運送で駅へ運んだが不便なので土地を買って駅西側斜面に氷池を縦に並べて造った。立場川の清氷を引き採氷をし、山林で木材を運搬する時の木馬道のような木の外枠と木のレールを敷いて駅を滑り落とした。

  祖父喜一は林業を経営し、のちに製氷を始めたが他の仕事に切りかえることなく一生の仕事として打ち込んでいたので亡くなるまでは、やめるわけにはいかなかった。材木を扱っていたことは製氷業に有利だった。今、信州特産物天然氷採取販売植松採氷所顕の碑が立っている。

〇池の深さは胸までもあり、落ちた女の人を引きあげたことがあった。わかしてあった風呂に入れ、かわいたものに着替えさせた。そこまで来る間にカチカチに衣服が凍った。

  二月ころになればもう氷が厚くならない。そんな時切った氷の横の氷の上へすべらせて重ねて凍らせ氷を厚くすることができた。

  植松氷池の製氷の技術を蓼海たてのうみスケート場でスケート氷のプロの五味さんに教えてあげたことがあった。

〇アンペラは台湾などから来る砂糖の梱包で、戦争がはげしくなると砂糖が入らずアンペラが不足し葦を使ったりした。アンペラにくっついた砂糖をなめるのが楽しみだった。

  カーバイトのアセチレン灯を並べて六十人位が並んで切り出した。一つの池で一晩に五千枚も切り出すことがあった。鋸の目立てをする人は専門で一日中かかり切りだった。

〇父は軽井沢や榛名湖、河口湖、新潟(雪をふみ固めた雪氷)等へ製氷の見学に出かけた。

〇中島飛行機の工場疎開があり、その中の人が戦後氷を切る電動鋸を工夫、製作した。これを使うと30〜50人の仕事を二人で出来るようになって驚いた。

〇戦争中電球も不足な時で東京からキャップタイヤをみつけてきて電線を引いて照明の工夫をした。

〇父は研究熱心で製氷の知識のある横浜の小野組の人に会いに行き、横浜グランドホテルで氷入りのカクテルをいただき、ひっくりかえったそうで文明開化に接して驚いた。

  東京の人造氷の山手製氷の株主となり、氷の事業の動きに強い関心を持っていた。山手製氷へ富士見の天然氷を納めたこともあった。

〇氷運搬のレールは楢の木が堅くて適していた。地面から浮かした台の上に、外側枠は落葉松、内側は楢の木のレールを敷く。カーブや合流点は五寸釘を打ち込んで制動をかけたり、片方のレール道をふさいでポイント切替えをするなど。氷庫へのレール道を調節する専門の人がいた。夜中には、このレールを氷がすべってゆく音が聞こえた。

〇村内に人足をとりまとめる人がいて、村の人を組にくんで集めてくれた。徴用のがれに集まる人もいた。

〇はげしい労働で皆たくさん食べた。お夜食を各小屋の仕事場へ運んだ。とても元気な人達がいて氷の仕事のあと、昼間は更に山仕事に出かける人もあった。二月頃になると昼間の温度が上がってくるので、夜のうちに終わらせようと一層仕事を急いだ。

〇戦後シベリヤ帰りの人達が先立ちとなり、作業の人たちのストライキがあった。氷の厚さによって賃金をきめろと、掛合に集まったのでめんくらった。結局要求の通りにした。

〇氷は出荷して、いろいろな用途に使われたが、東京へ出荷した氷が遠洋漁船に積み込まれることがあった。蚕種保冷用にも出荷し信濃蚕業や南信社、竜上社などへも納入した。風穴の補給用にも使われた。戦後県外から桑の買付に来たが富士見氷で桑を冷やしながら輸送をしたことがあった。

〇冷凍庫の中に塩や魚くずが残されていることがあり、当時これは貴重品、拾いあつめたものだ。戦後進駐軍の需要が急増し特別に貨車を廻してくれた。

 

植松氷を新宿で売る氷店に若い時働いた平出氏のお話

 〇戦後人造氷が出廻ってきても東京の料理屋、寿司屋は、なお長い間天然氷を使い、お得意が多くリヤカーで配達した。昭和三十年になって電気冷蔵庫が普及し出すが、その前は木製冷蔵庫の時代だった。三平食堂の小林さんもはじめここで働いたことがあった。氷の切り方によって薄いのが一、二枚余分にとれるウマミがあった。大型トラックで運びこまれ、トラックから地面へ氷をおろす時、割れないように落とすにはコツがあった。氷の切り方にもコツがあり、中央を氷鋸ですこし引いたあと、鋸をさし込んでコジると、きれいに二分された。鋸のもとの方が幾分厚目になっていたのはそのためである。富士見氷は高原野菜保冷保存用にも多く使われた。

 

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