まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録


Ice 004

北陸地方における雪室の分布とその盛衰

Historical Changes of Utilising“Yukimuro”(Snow Storehouse)in and around the Hokuriku DistrictCentral Japanfrom the 1860's to the l960's


池上佳芳里  by Kaori Ikegami

 

掲載誌:地理科学 vol.54 no.2 pp.126〜137,1999

Geographical Sciences (Chiri-Kagaku

 

T はじめに

 

今日では、一般家庭でも電気冷蔵庫により夏でも簡単に氷が手に人る時代である。しかし、電気冷蔵庫が家庭に普及し始めるのは1960年代以降のことであり、氷が一般の人々にも広く利用されるようになったのも、実は明治維新後のことである。
 すでにで古代の日本において、氷池から採取した氷を貯蔵する施設である氷室ひむろが設けられ、夏の暑い盛りに殿上人が氷を食していたことは、『日本書紀』1)や『延喜式』2)、または『枕草子」3)といった文献や平城京出土木簡4)などから知られる。この氷室に関しては、主に古代の氷室制度に関する、近畿地方を中心とした、研究が、大西(1961)、福尾(1963)、井上(1979)、高橋(1992)などによりなされており、最近では、考古学的見地から水室の遺構について考察しているものもある(中山,1996;吉留,1997)。
 一方、こうした氷室のほかに、同じように夏季に氷として利用するために雪を貯蔵した雪室ゆきむろというものもあり、明治から昭和30年代にかけて、北陸地方を中心に日本海沿岸地域に広くみられた。この雪室5)に関しては、1つの事例、または一地域のみを詳細に取り扱った成田(1979)、五十嵐(1980、1985)、小寺(1987)、田中(1992)、長井(1984)、北島(1982)などの研究があるものの、雪室がいつ頃から存在したのか、またその分布や総数などについて、詳しいことはいまだ明らかにされていない。
 そこで本稿では、日本海側の積雪地域のなかでも、とりわけ積雪量が多い、新潟、富山、石川、福井の北陸4県をとりあげ、かつて存在した雪室の分布・存続期間に関する資料収集を行い、北陸地方における雪室とはどんなものであったのか、その時代性、地域性について分析を試みるとともに、明治初年から昭和30年代という時期に、なぜ北陸地方において雪室がそれほどまでに発達・存続したのか、この雪室の持つ意味について考察したい。
 調査にあたっては、まず各県の県立図書館等で市町村別にその存在状況を示す文献を調べ、次いで各市町村の教育委員会への問い合わせを行った。さらに雪室の存在が判明した地点の多くでは、現地へ赴いて、聞き取りで位置確認と当時の状況確認を行った。


 U 雪室の概要

 雪室は穴を掘り、雪を積み上げるなどし、その上に藁などで屋根をかけ(写真1)、夏場まで雪を保存し、氷の需要の高まる夏に氷の代替品としてその雪を利用するものである。
 その形態や構造などは地域によって多少異なるが、穴を掘って雪を詰め込む形式のもの(写真2)や、整地した地面に雪を積み上げるものなどがある。どちらの場合も、雪の上を藁屋根などで覆う。藁をかけるだけの簡略的なものもあれば、しっかりした小屋組みをするものもあり夏場まで効率良く雪を貯蔵しておくため、排水溝を設けるなどの工夫がなされているものある。なお、雪室には雪を断熱材として使用し、冷蔵席代わりとして使用するもの(蚕種貯蔵用:新宮、1980)などもある。
 雪室の規模は、積雪量の多寡にほぼ相応するようだが、用途による差異も大きかった。すなわち、貯蔵雪販売業者が作っていた雪室には、一辺数十mもする大きなものが目立ち、長岡市西千手にあった雪室は、一辺100mの巨大なピラミッド状をなしていた。一方、個人や魚屋・料理屋などが自家用として所有している場合は、一辺数mのものが一般的である。
 雪室の作られた位置については、その自然的条件として、同じ地域内においても、比較的雪が多く積もるところが選ばれる。さらに貯蔵した雪の保存効果を高めるために、山の北側や、樹木の生い茂っているところなど、日陰となる場所を選定するのが一般的である。しかし特に貯蔵雪の販売を目的とする場合においては、雪の貯蔵販売を能率的に行うため、需要地に近い、労働力を得やすい、出荷しやすいなどの社会的条件も重要となる。例えば、金沢市での場合(第1図)、都市の中心部に近い河岸段丘上で、かつ社寺境内などといった比較的広い所に雪室が設けられていたし、また武生市での場合には、雪室は山の北側の斜面に多かった。
 この貯蔵雪の用途としては飲食用・冷蔵用・医療用(氷嚢用)などに使われた。雪室の所有者は、雪の貯蔵販売を家業としている者がほとんどであるが、氷を必要とした魚屋、料理屋など、または村の有力者等が個人で所有するものもある。また魚屋、旅館等の同業者で共有したり、組合形式6)をとるケースなどもある。
 雪室作りの作業の流れ第2図に示した。雪室は農作業が終わる秋頃から藁などの材料の準備や貯蔵場所の整地が始められ、雪が降り積もった1〜3月頃、近くの農家の人々などを雇い、雪を集め踏み固めて雪室が作られる。この時期は農閑期にあたるため、農家の人々にとっては良い収入となった7)。雪室作りは共同作業であり、地域の人々の良いコミュニケーションの場となっていたようである。
 このような特徴をもつ雪室だが、既に壊滅していることもあって、雪室に関する資料はあまり残されておらず、また雪室を知る人も少なくなってきている。そのため、情報収集は困難であったが、今回の調査において、北陸4県で41市町村、約200ヵ所でかつて雪室の存在したことが確認できた(冷蔵庫代わりのもの約10ヵ所を含む)。その分布を市町村単位に示すと第3図のようになり、数の多いのは金沢市(24ヵ所)、上越市(78ヵ所)などである。資料等の関係でデータに偏りがあるものの、次の(1)〜(4)の点が確認できる。


 (1)北陸地方4県において広範囲の分布が認められる。
 (2)雪室が確認できた市町村の半数近くが海沿いであり、漁業との関連が強いことが推察される。
 (3)新潟県六日町、十日町市、富山県井口村、福井県大野市など内陸の市町村にも分布がみられることから、雪室で貯蔵された雪が、魚の冷蔵を含め、幅広い用途で活用されていたことが想像される。
 (4)1市町村内での雪室の分布をみれば、都市部から少し離れた山際の北側の斜面で、写真2に見られるように、樹木が生い茂り、日陰となるところに作られるケースが多い。これは、需要地に近く、かつ雪室を作るだけの土地があり、日陰となり雪が効率良く貯蔵できるからであると考えられる。また、町中にあって比較的土地の広い神社や寺などの境内が使われることもある(村上市、金沢市、福井県池田町、福井県芦原町など)。

V 雪室の盛衰と氷の需要の変化

 本章では、北陸4県における雪室がどのような盛衰を遂げたかについて、近代以降を中心に、氷の需要の変化とそれに伴う製氷業の盛衰と関連させつつ考察したい8)。第4図は、筆者が、その存在を確認できた約200カ所の雪室の中で、その成立〜消滅の経緯も確認・推定しえた57ヵ所の雪室について、関連する時代的背景と対応できるように作成したものである。
 以下、本文中における市町村名の後の( )内の番号は、第3図・第4図〔MANA註:本サイトにおいては省略―準備中〕に対応する。


1)近世における夏季の雪利用


 江戸時代には、加賀藩主から江戸の将軍家への氷献上の話9)が有名であり、越後の鈴木牧之による『北越雪譜』(鈴木編、1978)では湯沢近くの茶店で雪を出されたことや、塩沢における夏の氷売りの話などがみられる。『長野県史』(長野県編、1991、p.28)によると、江戸時代末には、雪を詰めた箱に魚を入れて越後から早馬で運んできたということである。また『島根のすさみ』10)や『一外交官の見た明治維新』11)などにも、新潟で夏場に雪を出されたという話が記されていることからも、北陸地方において、夏季の雪利用が古くから行われていたことがうかがえる。また夏場に白山や立山などから氷を売りに来ることもあったらしい12)
 雪室もすでに利用され始めていて、山北町(2)、出雲崎町(7a)、糸魚川市(14)などの日本海沿いで確認でき、主に魚の冷蔵用として用いられていたらしい。

2)第1次発達期(明治10年代〜30年代半ば)


 氷が広く一般の人々に使用されるようになったのは、明治3(1870)年の中川嘉兵衛による天然氷(函館五綾部の外濠より採取)の販売開始以後のことである(日本冷凍史編集委員会編、1975、p.21)。
 そして、明治11年の「氷製造並発売人取締規則」に続き、明治16年に富山県で「氷雪販売取締規則」13)、翌17に石川県で「貯蔵氷雪販売取締規則」が出されていることからみて、明治10年代には、すでに雪の貯蔵が盛んになっていたと考えられる。特に富山・石川の法令では“氷雪”となっており、明らかに雪の貯蔵・販売が含まれていることが注目される。
 第4図において、明治20年代に書室が存在したと確認できる事例は6カ所に過ぎないが、新潟県中頚城郡春日村(12)(現上越市)では、明治30年頃には実は計78カ所もあったと言われ(石田、1936、p.106)、この頃、各地で多くの雪室が作られ始めたと推定される。
 この時期における雪室発達の背景として考えられるのは、天然氷利用の一般化にみる、氷の需要増加である。飲食用や食物の冷蔵用など14)に氷が利用されるようになったことに伴い、北陸地方では、以前から一部で利用されていた雪室に注目し、各地で雪室により雪の貯蔵を行い、氷の代替品として広く使用されるようになったものと考えられる。

3)第1次衰退期(明治30年代後半)


 明治30年代ころまでは、天然氷と同じように、雪室で貯蔵された雪も飲食用として販売されていたが、明治32年の赤痢、ペストの流行により、翌33年に内務省令「氷雪営業取締規則」が公布され15)、食用氷の衛生上の取締が行われた。明治34年には、新潟県令「氷雪営業取締細則」が出され、雪の飲食用販売が事実上禁止され、これにより廃業者が続出した。旧中頚城郡春日村においても数十ヶ所あった雪室も、明治終わり頃には2〜3ヶ所ほどになったという(石田、1936、p.106)。

4)第2次発達期(明治末〜大正時代)

 雪室の利用は、明治終わり頃から大正時代にかけて再び活発になっている。
 この背景には、従来の飲食用、医療用のほか、冷蔵用での需要増加がある。即ち、鉄道の発達等による輸送範囲の拡大により、鮮魚や生鮮食料品の冷蔵における氷の使用が盛んになったことや、漁業の近代化により水産用の氷の需要が高まったのである。金沢市における雪の販売先は、病院(患者の氷嚢用など)・料理屋・魚屋・市場16)等であったという(北島、1982、p.79)。
 また、氷を必要とする小型冷蔵庫が明治41年に発売され、徐々にではあるが一般家庭にも普及したこともその一因といえよう。村上市肴町など(3)、糸魚川市(14)、富山市出村・西宮など(19)、福井県池田町(27)などでは、小型冷蔵庫用に貯蔵雪を販売していた(東岩瀬郷土史会編、1981、p.7など)。
 この時期に雪室を作り始めたことが第4図からはっきりと確認できるものは少ないが、氷の需要増加の状況と、製氷業がいまだ成長段階にあることからみて、大正・昭和にかけて存続している雪室の多くが、この時期に新たに作られ始めたと考えられる。

5)第2次衰退期(昭和初期)


 明治30年代より機械氷が天然氷に取って代わり、製氷工場が各地に作られるようになる。特に漁業の近代化による水産用の氷の需要の増加に伴い、昭和初め頃には漁業基地に巨大な冷凍施設が整備されるようになり、安価な氷が出回り始めた。
 新潟県出雲崎町では機械氷が出回り始めたことにより、1935(昭和10)年頃には明治初年以来の雪室(7a)は使われなくなったようである(出雲崎町からの回答)。また富山県井口村蛇喰(21)では、第1次衰退期にも県の検査を受けながら昭和8年頃まで食用に氷を販売していたが17)、アイスキャンディーが出回ったことや(井口村史編纂委員会編、1992、p.824)、砺波製氷会社が設立されたため、貯蔵雪の需要が低下して、ついには雪室の消滅を招いた(井口村史編纂委員会編、1995、p.446)。
 こうして各地に製氷工場が乱立すると、貯蔵雪の需要は減り、雪室の利用をやめるものも少なくなかった。

6)第3次衰退期(戦時中〜戦後)

 製氷工場の乱立にもかかわらず、存続している雪室も数多く見受けられた。しかし、太平洋戦争が激化するにつれて、人夫応召などによる労働力不足や跡継ぎの不在などで、中断もしくは廃業するものも多かった。長岡市西千手の“雪しか”と言われ人々に親しまれた雪室(9d)も、戦争で中断、譲渡された。また金沢市の雪室経営者の中には、跡継ぎの応召により廃業したという人もいた(北島、1982、p.75〜76)。
 さらに戦後は、昭和22年に「食品衛生法」が出されるなど、衛生面での取締が厳しくなり、雪室はいっそう姿を消していった。武生市千福・岡本など(29a)の7カ所もの雪室も、昭和25年頃に廃業しているが、おそらく「食品衛生法」がその理由であったという(聞き取りによる)。


7)雪室の消滅(昭和30年代)


 衛生上の取締が厳しくなったことに加え、昭和20年代半ばからは製氷業が製氷能力・生産量の両面で成長の一途をたどり、さらに昭和30年代頃から電気冷蔵庫が出回りはじめたこともあって18)、貯蔵雪の需要はほとんどなくなっていった。今回の調査によれば、長岡市四千手(9d)や大野市城町(26)では電気冷蔵庫の普及が、また柏崎市加納(10)や十日町市(16)では、保健行政の厳しくなったことがそれぞれの最大の理由らしい。
 こうして製氷業がピークを迎える昭和37年頃には、雪室はほぼ完全に姿を消すのである。

W「利雪」としての雪室―結びにかえて

 明治時代中頃から北陸地方各地において数多くの雪室が存在した背景となるものは、第V章で述べたように氷の需要の増加によるところが大きい。しかし、同じ天然のものを使用しているにもかかわらず、天然氷の場合は早々に機械製氷に取って代わられてしまうが、貯蔵雪に関しては、幾度かの衰退期を迎えるものの、昭和30年代前半までの長きにわたって利用され続けてきた。このことから、雪室の発達・存続の要因は氷の需要増加以外にも存在すると考えられる。
 従前の研究によれば、雪室の利点としてア)・イ)のような貯蔵雪自体の特性と、ウ)・エ)のような供給側のメリットがあげられる。


 ア) 砕かれた貯蔵雪はどんな形にもまんべんなくふりかかるので、魚介類の保存性にすぐれていた(五十嵐、1985、p.200)。
 イ) 機械氷に比べ溶解が遅く、氷嚢などに入れても当たりが柔らかい(小寺、1987、p.12)。
 ウ) 雪室は藁・木材など自然の産物を利用して作られているので、機械製氷のような設備投資が不要である。
 エ) 近隣に住む農閑期の農家の人々を中心に雇用するので、人件費も安くすむ。


 このように、明治以降発達した雪室は、単に雪の貯蔵施設であるだけでなく、住む人々の生活にとって冬季間の労働の場と収入を提供してきたことからも、まさしく雪の積極利用であり、「利雪」であったといえる。
 ところで、日本の近代的発展の過程においては、特に経済面と交通面で雪によるデメリットが強調されるようになり、雪とともに生きてきた人々の知恵や技といった雪国独特の文化が次第に薄れてきてしまった。しかし、56豪雪以降は、雪を克服しようという「克雪」、積極的に雪を利用しようという「利雪」、雪に親しもうという「親雪」といったことが盛んにいわれるようになった(矢ケ崎、1981;吉野編著、1988;沼野、1989;日本システム開発研究所編、1997)。雪との共存、つまり、雪国の再認識と雪国文化の創造ということが提唱されている(長岡市編、1991、p.9)。
 以上の諸点を勘案すれば、失われつつある雪国独特の文化の一つとして「雪室」を取り上げ、その実態を明らかにするということは、伝統的な雪国文化の再認識につながり、今後の雪国の町づくりを考える上でも意義あることと思われる。

 本研究を進めるにあたり、新潟・富山両県下の各市町村の教育委員会、克雪・利雪技術研究会、福井県武生市の斉藤昭三氏、池田町役場の上野久雄氏、芦原町の斉藤俊一郎氏、石川県金沢市湯涌温泉観光協会、富山県黒部市の森丘實氏、富山大学の対馬勝年教授、新潟県村上市の安藤潔氏、出雲崎町の矢川広治氏、糸魚川市の川島清吾郎氏など非常に多くの方々から、雪室・利雪に関する貴重な資料・情報の提供を受けた。また現地調査の際、十日町市役所建設課克雪・利雪対策室、十日町市博物館、利雪しんせつ協会、六日町の山本森雄氏など多くの方々にお世話になった。奈良女子大学地理学教室の諸先生方には終始御指導をいただいた。以上の方々に心から感謝いたします。
 本稿は奈良女子大学に1997年度卒業論文として提出したものをもとに、さらに1998年6月に追加の現地調査を行って、加筆・修正したもので、その内容の骨子は1998年度奈良地理学会夏季例会および克雪・利雪技術研究会第75回定例研究会において発表した19)

 

1) 仁徳天皇六十二年是歳条に「是歳、額田大中彦皇子、猟于闘鶏。(中略)啓之曰、氷室也。(中略)皇子則将来其氷献于御所。天皇歓之。自是以後、毎当季冬、必蔵氷。至于春分、始散氷也。」と記されている。

2) 主水司式の中の条文に「凡運氷駄者。以徭丁充之。山城国葛野郡徳岡氷室一所。一丁輪一駄。…」「凡供御氷者。起四月一日尽九月卅日。其四九月日別一駄以八顆駄准一石二斗。…」などと記されている。

3) 第三十九段に「あてなるもの(中略)けずりひにあまずらいれて、あたらしきかなまりいれたる…」と記されている。

4) 長屋王家木簡に「都祁氷室二処深各一丈…」「都祁氷進始日 七月八日二荷…」などとある(奈良国立文化財研究所、1991、釈文と図版P.8)。

5) 雪の貯蔵施設の名称は、雪室(ゆきむろ)・雪山(ゆきやま)・雪穴(ゆきあな)・雪にお・雪しか・氷室(ひむろ)など地域によって様々であるが、本稿ではすべて「雪室」(ゆきむろ)とした。

6) 十日町市には中條雪貯蔵組合の「規約書(大正15年)」「議会決議録」等(十日町市博物館蔵)が残っている。

7) 『村上市史』(村上市編、1989、p.529)によると、雪積み作業は、農閑期であり出漁もない真冬の唯一の働き場所で、雇用志願者が多く、人数を限定するため、普通日当の5分の1程度であったが、それでも日に200人も出て賑わったという。

8) 天然氷を含む製氷業の盛衰、および関連法令等は『日本冷凍史』(日本冷凍史編集委員会編、1975)を参照した。

9) 加賀藩からの徳川将軍への献氷は、寛永年間(1624〜1644)の加賀藩主前田利常よりはじめられ、幕末の第14代将軍家茂の時代まで続けられたという(田口、1994、p.176)。なお、加賀藩内では、金沢市倉谷の村からの加賀藩主への氷献上が、藩祖前田利家の頃(1580年頃)から始められていたという。1684(貞享元)年の6月1日に、倉谷から氷を運んだことが、『改所奮作記』と呼ばれる加賀藩の農政担当者のまとめた報告書に記されている。

10) 当時幕府の奉行であった川路聖謨は、1841(天保12)年5月、高田の本陣で雪を出されたことを記している(川路、1973)。

11) イギリス外交官アーネスト・サトウは、1867(慶応3)年8月に新潟で、「当時の日本で氷の代用をつとめていた凍雪を見た」ということを記している(サトウ、1960)。

12) 金沢市では、大正の始め頃まで“白山氷”とか“ガバリ”とか称する天然氷を売り歩いており(小倉、1974、p.245)、富山市の岩瀬では、雪室を作り始めるまでは立山から“立山のカンカンこおり"といって売りにきたという(東岩瀬郷土史会編、1981、p.7)。

13) 氷雪貯蔵の際は、貯蔵場所と貯蔵方法を県庁へ出願し、免許を受ける必要があった。また販売には警察の許可が必要であった(井口村史編纂委員会編、1992、p.823)

14) 明治30年頃の氷の用途の割合は、飲食用6に対し雑用(冷蔵用)4であった(成島、1924、p.41)。

15) 雪に関しては、明治35年より施行された(日本冷凍史編集委員会編、1975、p.85)。

16) 市場には1週間に1回配達し、市場内の空井戸に300貫(約lt)ほどつめていたという(北島、1982、p.79)。

17) 全員が白装束、白わらじで山一帯の新雪を集め、雪を積む。初夏の売り出し前には県による雪質検査があった。行商の際も、販売用の箱の検査が必要であった(井口村史編纂委員会編、1992、p.445)。また同じ富山県の富山市岩瀬においても、雪積み作業の際は白装束に消毒したわらじ履きでなければ、立ち会いに来る警察官の許可を受けることができなかったという。井口村と同じように、雪質検査や行商箱の検査も行われた(東岩瀬郷土史会編、1981、p.7)。

18) 冷蔵庫の普及率は、昭和35年…5%、昭和40年…50%、昭和53年…99%であった(小泉、1994、p.77〜78)。

19) この発表後入手した『雪の貯蔵に関する調査』(積雪地方農村経済調査所編、1934)によると、明治以降、雪室は、北海道および東北地方に広く存在していたようである。しかし、この点については今後検討の上、別の機会に発表したいと考えている。


文 献

 

五十嵐立幸(1980):雪ニオについて 新潟県三条市籠場・民具マンスリー、vol.12、no.12、pp.1〜4.

五十嵐立幸(1985):越後の氷室 新潟県三条市.網野善彦[ほか]編:『日本民俗文化体系第13巻 技術と民俗 海と山の生活技術誌』小学館、pp.198〜200.

石田善佐(1936):『雪に生活する』高田新聞社、219p.

井上薫(1979):郡部の氷室と氷池.ヒストリア、vol.85、pp.1〜30.

井口村史編纂委員会編(1992):井口村史 下巻(史料編)』井口村.1040p.

井口村史編纂委員会編(1995):『井口村史 上巻(通史編)』井口村.1056p.

小倉学(1974):『日本の民俗 石川』第一法規出版、304p.

大西源一(1961)、:氷室考.藝林、vol.12、no.1、pp.2〜36.

川路聖謨著、川田貞夫校注(1973):『島根のすさみ 佐渡奉行在勤日記』平凡社、371p.

北島俊郎(1982):金沢の氷室.加越民俗研究、vol.11、pp.72〜81.

小泉和子(1994):『台所道具いまむかし』平凡社、301p.

小寺隆夫(1987):雪しか考 新潟県長岡市における雪の保存利用の智恵.日本雪工学会誌、vol.3、pp.12〜17.

サトウ、アーネスト著、坂田精一訳(1960):『一外交官の見た明治維新下』岩波書店、294p.Satow、ErnestMoson(1921):A diplomat in Japan. Seeley, Service,London.

新宮璋一(1980):夏秋蚕の振興に役だった雪囲い冷蔵庫(雪倉).産業考古学、vol.15、p.5.

鈴木牧之編、岡田武松校訂(1978):『北越雪譜』岩波書店、348p.

積雪地方農村経済調査所編(1934):『雪の貯蔵に関する調査積雪地方農村経済調査所資料第1号』積雪地方農村経済調査所、20p.

高橋和弘(1992):古代日本の氷室制度について―特に奈良時代における氷室制度の再検討―.山形大学史学論集、vol、12、pp.11〜35.

田口哲也(1994):『氷の文化史』冷凍食品出版社、237p.

田中欣二(1992):新潟県の近代氷室・雪室.三重法経セミナー、vol.94、pp.49〜62.

長井真隆(1984):黒部市金屋の雪山について.富山市科学センター研究報告、vol.6、pp.85〜91.

長岡市編(1991):『克雪・利雪を進めるまちづくり長岡市、13p.

長野県編(1991):『長野県史 民俗編 第5巻総説U さまざまな暮らし』長野県史刊行会.573p

中山晋(1996):古代日本の「氷室」の実体―栃木県下の例を中心として―.立正史学、vol.79、pp43〜68.

奈良国立文化財研究所編(1991):『平城京長屋王邸宅と木簡』吉川弘文館、157p、釈文と図版 54p

成田鉄五郎(1979):三条市月岡瀬戸山の雪むろについて.三条郷土史、vol.6、pp.1〜3.

成島嘉一郎(1924):氷屋繁盛記.冷凍、vol.10、116、pp.39〜41.

日本システム開発研究所編(1997):『克雪・利雪技術研究1995〜97』日本システム開発研究所、150p

日本冷凍史編集委員会編(1975):『日本冷凍史』、日本冷凍協会、558p.

沼野夏生(1989):雪と地域社会.地学雑誌、vol98.no.5、pp.126〜140.

東岩瀬郷土史会編(1981):夏まで雪を保存した「こおりゆき」について―轡田幸作さんに聞く―、東岩瀬郷土史会会報、vol.1、pp.7〜8.

福尾猛市郎(1963):主水司所管の氷室について―熊谷信夫氏蒐集文書の紹介をかねて―.日本歴史、vol.178、pp.19〜27.

村上市編(1989):『村上市史 民俗編 上』村上市、699p.

矢ケ崎孝雄(1981):雪国の生活―雪への対応の移り変わり―.金沢大学教育学部紀要(人文科学・社会科学編)、vol.30、pp.129〜142.

吉留秀敏(1997):九州における氷室の調査.古文化談叢、vol.38、pp.59〜78.

吉野正敏編著(1988):『雪と生活』大明堂、213p.

TOP 
(受付:1998年8月10日)
(受理:1999年2月23日)

 abstract 

§


Historical Changes of Utilising

Yukimuro”(Snow Storehouse)

in and around the Hokuriku District,Central Japan,

from the 1860's to the l960's

Kaori  IKEGAMI*


Keywords;yukimuro(snow storehouse),Hokuriku district,high snow accumulation region,usage of snow,production of artificial ice

§

 Along the coastal area of the the Sea of Japan ,in and around the Hokuriku district ,there are heavy snowfalls in winter. In this region the practice of using “yukimuro” had been prevailing from the Meiji to the early Showa era. The Japanese word “yukimuro” means the traditional storehouse of snow ,to keep snow until late summer or autumn. It was made of woods and straw ,and a great deal of snow was put inside. Its stored snow was used as refrigerant for food and the sick ,and sometimes was eaten eaten together with syrup.
  Few studies ,however,have been undertaken about yukimuro. Therefore ,the author has tried to clarify its distribution and historical changes since the 1860's.
  The author showed that there were about 200 yukimuros in the Hokuriku district. They had been used from the 1860's to the l960's and this period can be divided into the following six stages.
  1) The first rising stage from about 1880's to early 1900's due to the increase in the demand of snow for eating.
  2) The first declining stage in the 1900's due to the authorities restricting the sales of edible snow.
  3) The second rising stage from the 1910's to early 1920's due to the increase in the demand of snow as a refrigerant.
  4) The second declining stag eat the end of the 1920's due to the increased production of artificial ice.
  5) The third declining stage from the 1940's to about 1950's due to the shortage of labourers to make yukimuros ; and the authorities restricting sales of snow as are refrigerant.
  6) The final stage ,in the 1960's,of the disappearance of yukimuros was due to the significant increased production of artificial ice ; and the increased availability of electric refrigerators.
  Advantages of yukimuro were as follows:
  1) The snow stored in yukimuro was a better refrigerant than  artifical ice for fish.
  2) No investment in plant and equipment was needed to make a yukimuro and use its stored snow in contrast with artificial ice.
  3) Through the winter is the farmer's slack season in this district ,they were able to earn considerable incomes by making yukimuros in the winter.
  In the past,heavy snowfalls have been considered a hindrance to the progress of modernization in Japan. Now however,after the heavy snowfall in 1981,active use of snow has become an important subject in high snow accumulation regions. From this point,yukimuro can be regarded as one of the typical “usage of snow”representative of the traditional snow culture of Japan.

Graduate Student ,Nara Women's university

copyright 2002〜2010Kaori Ikegami 

TOP


HOME  食単随筆もくじ  NEXT氷のライブラリーへ


投稿・ご意見はこちらへ

copyright 2002〜2010,manabook-m.nakajima