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Notes・麹-1 中山道 本郷・湯島の糀づくり―麹の話@

 神田明神脇の「天野屋」が作る糀について調べていくと、江戸の食文化を支えた味噌や漬物といった調味発酵食品の位置付けが見えてくる。

 文京ふるさと歴史館の常設展示のなかに「湯島の糀づくり」についての解説記事を見つけた。

 そこには、天野屋の地下に作られたこうじムロ(糀室)の写真と平面図が掲げられてあり、次のような説明書きが添えてあった。

「文政の頃(1818〜29)湯島の糀屋は百数十軒もありました。台地上の関東ローム層(赤土)の地下に室を作り糀を製造しました。現在、江戸時代からの糀室を使用しているところは湯島2丁目の鈴木食品工業鰍ニ神田明神脇の天野屋の2軒となりました。

 また、幕末期には81軒の味噌問屋があり、当時江戸の味噌問屋は181軒でしたから、約6割が文京の地にあった。湯島が糀の特産地だったからです。」

 ここにかかれている鈴木食品工業の地下室はすでになく糀生産は止めてしまったから、天野屋1軒が地下室を守り、伝統の糀作りを続けているということになる。天野屋の糀作りについては、「冬場11月〜4月に、1日つけ米、2日ふかす・種を入れる(床場で)、3日箱に盛り室へ、4日室から出す。室の常温は17〜8℃。糀の適温27〜30℃」「天野屋の糀室は全面積283.8u(86坪)、深さ6m、高さ1.45m、幅2.5m」とあった。

 本郷には、東大農学部前の1里塚跡追分に、現在も江戸の食品問屋で両替商でもあった大店、高崎屋が酒販業をいとなんでいることも、糀が特産品であったことととも無関係ではないだろう。

●左の図は天野屋に掲示されていた図面の写真より筆者が書き写したものをスキャニングしたものである。

●図中右下部分が現在の天野屋の敷地地下で使用されているムロ。

●オレンジ色のムロにはそれぞれ長さが記されてあり、@は「九間」Cは「八間』Dは「拾弐間」とある。

●「天星」とは天野屋の屋号である。

〔地下室余聞〕天野屋のご主人は、「これでも昔の室の広さに比べたら小さくなりました」といっていた。ぼくは、「床場」(トコバ)という、一定温度まで冷ました蒸し米を作業台の上に山のように積んであるムロの一室に案内された。この蒸し米に糀菌を加え、手際よく混ぜ、米と菌とをならしていく「第1次発酵作業」の作業現場を見せていただいた。おじいさん、お父さん、跡取り息子、おじいさんの弟、お父さんの姉さんのご主人、という、まさに一族のオトコシュウによる糀作りの大切な労働作業だった。

 天野屋は、場所柄お客さんもとても多く、甘酒やお茶や、甘いものを食べにくる人にとっては、店先でてきぱきと客の対応をする女将さんや若女将や女性連がこの店の顔だと思ってしまうが、どっこい、地下室で、日夜働くオトコシュウの職人の世界が一方で、あったのである。

 この地下室の中に下りていく1立方メートルくらいの狭いエレベータのなかで、考えてしまった。今の東京に、デパ地下だの、地下街が食のストーリーを作るひとつの世界になっているが、こういうムクの地下の空気を感じることができる地下空間はどれくらい残されているのだろうかということをである。

 関東ローム層の赤土が、地下に穴を掘りやすいということから、戦時中は、防空壕が各家庭の庭や、縁の下には掘られていた。浦和の家の庭にも小学校のころまでは、その痕跡がまだあって、1メートル程のくぼ地は、残された隙間から空気が流れ込んでくるのか、そこで焚き火をすると、勢いよく炎が立ちあがった。

 砂川ウドの取材を通しても、食と地下ムロの関係を面白く考えることができたけれども、天野屋のご主人が、隣地の人がビルを立てるときに、ムロを埋めさせられてしまった、ということを聞いて、ぼくの一方の仕事の対象になっている海の上に存在する権利についてのことを引き合いに出して、地下ムロを掘った人が長〜く利用してきた権利と、ムロの上の地上にある土地を所有している人の権利とはどういう関係になっているのだろうか、とふと思ってしまったのである。

 地下室の考察は、さまざまに思いが及んでいく。また、味探検で、どこかの地下に、潜りこんで味の現場を取材しに行く機会が起きそうなきがする。そのときに、地下室余聞をまた書くことにしよう。

天野屋の地下むろ「床場」でオトコシたちが蒸し米に糀菌を手早に、均等に混ぜ合わせる1次発酵作業。

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