MANABOOK NEWS LETTER bT 補記  200671日号


ローカルルールの研究―海の「守り人」論Part2―

ダイビングスポット裁判検証から

佐竹五六・池田恒男他著

本書の内容と出版の意図をもうすこしわかりやすく、知りたいというご意見を頂戴しましたので、つぎに整理をしてみました。

 

◎「ローカルルール」の考え方は、現代のまちづくりを考える時にも、実は深くかかわってきます。「ローカル」である、農山漁村を中心に営まれてきた地域社会は、すでに戦後60年を経て、大きく変貌したことは疑いようのない事実です。

 

◎しかし、その変貌した地域社会や地域経済をこれからどうしていったらよいか、という肝心なことを考えていく時に、この変貌の現実を理解する切り口のなかに、現代の研究者やジャーナリストや当然政策サイドも見落としている(のか、わかっていつつ無視しているのかが、どうもよく分からないのですが)点があります。

 

◎その点とは、こうした日本の農山漁村社会が持ち続けいている「旧慣」とも「旧習」とも呼ばれる、特定の地域社会の住民だけが保有している「慣習(的)権利」の存在と慣習的利用実態をどのように正しく「評価」するかという点にあると考えています。つまり、陸上の土地について言えば、「入会権」(林野入会権、水利権、入会利用権)や、海面や水辺については「海の入会権」である「漁業権」や「地先海面・水面の利用にかかる慣習的権利」(地先権や海藻の採取や海岸や砂浜利用)を、これからの地域社会が発展するために、どのように評価をし、ローカルな政策のなかにどのように組み込んでいくのかということです。

 

◎先ず、このことを考える時に、とても大事なポイントなのですが、このような地域社会が相当に古い時代から人々の暮らしの中に根付いて機能をしてきた権利は、現行法のなかにきちんと財産権として位置づけられている権利(入会権、林野入会権、漁業権)であるとともに、この権利とともに、その他の慣習にもとづいた慣行利用が厳然として存在し、実体社会に機能しているという事実です。

 

◎そして、もう一つ、このような「入会権」としての諸権利と地域住民の慣習的利用実態は、この60年の変貌ぶりのなかにあって、法に基づいて存在するものは当然存在し、また法に規定されていない諸慣行・慣習的利用も、現実の地域住民の暮らしの中に、姿形を変えて、見かけは現代の実定法規に基づいて動いている決まりごとのなかに組み込まれて、存在し続けているのです。この間、「旧慣」であるから、として、近代法のカタチに合わせて整理したり、解体したり、新しい実定法上の権利に組み替えてきたのですが、60年後、その整理され、解体され、置き換えられ、「近代化」「現代化」したはずの「旧慣」は、なんのことはない、地域社会の実体の中に、きちんとそのまま機能したり、姿かたちを変えて、実際は昔と同じ実態を色濃く持ちながら存在し続けていることに、眼をそむけてはいけないのではないでしょうか。

 

◎また、「地域社会が、そして国が発展するためのマイナス要因」として、昔も現代も多くの有識者達が「決め付け」てきた、こうした「旧慣」の存在の否定、改編(変)のやりかたと、その判断が、すべてまちがっていたなんてことは言わないけれども、正しい成果を挙げてきたのかどうかは疑わしいと思います。すくなくとも、現在、こうした日本の地域社会の成り立ちに深く浸透し、人々と自然とのかかわりの暮らしの中に、その地域の外の人には表面上ははっきりとは見えないけれども、強い拘束力をもってきちんと機能し続けてきたことでわかるように、地域社会の安定的な維持のために有効に働いてきた効能やプラスに働く役割についての「ローカルルール」の底力を軽視してきた(ある意味では、戦後の経済発展の勢いの中で見誤ってきた)ツケが現在になって国土利用の矛盾となって湧き出ているのではないか、というように私には思えるのです。

 

◎戦後の地域社会の変貌(もっと広く長くスパンをとれば明治維新を境にした現代に至る変貌)にあっても、入会権の実体は現代に存在し続けたのです。私は、入会権が、日本社会で現代まできちんと機能し続けてきた歴史を見るときに、隠れキリシタンや仏教宗派が時の権力の弾圧にあっても信仰の内実は変えずに、拝み方や信仰する神仏の姿かたちをたくみに変えながら信仰を持続する力を失わなかった、そういう民の知恵に似ているなあと思うことがよくあります。

 

◎この10数年、日本の社会経済は、これからどのようにしていこうと考えるときに、人と自然とうまく付き合っていこう、というテーマがいろいろなジャンルから提起されています(私はどうも、「共生」やそれに類似した言葉は、嘘っぽくて使う気がしないのですが、自然と人との関係を考えることはとても大切な事ですから、「おり合いを付ける」とか、「うまく付き合う」とか、という言葉を使っています。これも思想の軟弱性を露呈していますね。でもこれしかいいようがないから許してください!そのうち鍛えた良い言葉を与えます)。

 

◎「森は海の恋人」で、いちやく有名な漁師になった畠山さんや畠山さんを応援する人たちの呼びかけで、「漁師が森に木を植える運動」が全国的な関心を呼んでいます。森の人と海の人との交流が始まったり、そこに都市に住む市民の人が加わったりする、国民のけっこうの数の人が関心を呼ぶ運動に育っています。

 

◎また、首都東京の間近、東京湾では、千葉県木更津の漁師さんが中心になって「盤州里海の会」というNPO法人を作り、海辺の暮らし体験や、天日干しノリづくり体験、盤洲干潟に捨てられたり流れ着く膨大な量のゴミ掃除の行動マニュアルを実施しながら、地域外の市民と漁業者が交流し、また、すでになくなってしまった「江戸前の味」の代表的食品である「浅草海苔」の味を、復活させるための「絶滅危惧種」となった「アサクサノリ」種の海苔養殖を東京湾で復活させようというプロジェクトも進めています。このリーダーである金萬智男さんという海苔養殖を生業とする漁師さんは、こうした行動を、「里海運動」という言葉を使って、具体的には「盤洲干潟」を中心とした自然海浜を、漁師と市民とが共有して遊べる場所に位置づけようという「東京湾メグリの里づくり」という目標設定をおいています。

 

◎「めぐり」とは、なんでしょう。もともと、私と、金萬さんとが、あるとき立ち飲み屋で「里海」ってなんだろう、という事を話し合っていたとき、ポツリとこんな事を彼は漏らしました。

 

◎自分たち漁師は、行政の人や市民の人らが「環境を守ろう」とか、「自然保護が大切」とかいいますが、どうもピンとこない。漁師というのは、自分で言うのもへんですが、どんなに資源を次の世代のために残そうという意識で大切にしてきたつもりですが、やはり、自然の豊かさの一部を使わせてもらうと、かっこいいことをいう場合もあるけれども、どうしても現実の意識としては「リャクダツ」したり「セッショウ」して生計を立てる商売が漁師(猟師)という「罪深さ」を感じる自分がいるんです。だから、カンキョウとかシゼンホゴとかは、どうも性分としてなじめないし、使わない。ただし、同じ東京湾の中で対岸の漁師どおし協力し合いながら「江戸前の海」を守ってきたという歴史があるわけですから、なんか良い言葉がないかと、市民の人たちにも協力してもらおうという意味で「里海」という言葉を使うようにしてみたんです。

 

◎これは、とても大切な漁師さんの偽らざる意識です。そして、私は、それまでに、やはり同じ気持ちでいましたから、「環境」といったって、日本人がこの言葉を翻訳して使い始めたのは、大体明治末から大正のころであり、まだそのころは、単純に人の暮らす社会の「周囲」「周辺」と(「哲学語彙=環象」としてのenvironmentの訳語)あるいは、「境遇」(同じくcircumstanceの訳語)ぐらいの意味しかなかった。生態学や、社会経済の重要な構成要因として「環境」という言葉を使うようになってからは、100年とたっていない、というように、答えました。

 

◎金萬さんは、それなら、「環境」に代る言葉はなんでしょうか、といいました。

 

◎僕は、それまでに調べておいた多少の勉強の成果として「めぐり」という言葉があるよ、とこたえました。国文学者の三浦佑之さんの「神話と昔話」サイト中の「現古辞典」

http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/genko.html

に記された「かんきょう(環境)」には、つぎのように完結にわかりやすく記されていました。

 

◎ 「(1) めぐり。「愚かにそ我は思ひしをふの浦の荒磯のめぐり見れど飽かずけり」(万葉四〇四九) (2) くにがた(国形)。「国忍別命、詔りたまひしく、『吾が敷き坐す地は、国形宜し』」(出雲国風土記・島根郡)」とある。「磯のめぐり」の表現がみごと。氏のサイト中には、これまで発表してきた論文が読め、そのほかぼくにも関心が深い、「海」「山」「さか」のようなエッセイは、実に読み応えがあり、とても強烈な印象があり、三浦さんの専門の著書にも眼を通してきました。この「めぐり」を使わせてもらいました。

 

◎「そうかあ、めぐりか、いい言葉だね。人と人との交流や、東京湾が一つの漁場であった江戸前の歴史にもつながり、これなら漁師が使ってもおかしくないし、自分でも、「メグリの里」を作ろうと市民の人にも呼びかけられる」と金萬さんがいいました。

金萬さんの里海のサイトにもはいれる

http://www.satoumi.net/29.html

のページで、この「里海」と「めぐり」の言葉について私がエッセイ「里海ってなんだろう?」をまとめていますから、良かったらご覧下さい。

 

◎たまたまですが、今朝(26日付け)の東京新聞朝刊8面「暮らし」欄に「森と生きる道〈入会〉に学べ―入山料・燃料林割り当て・山の神……工夫や心を知る」

http://www.tokyo-np.co.jp/00/kur/20060626/ftu_____kur_____000.shtml

が載っていました。

 

  また、環境経済学、環境社会学、環境人類学の学問でも、「コモンズ」(「入会」「もう一つの共有」「総有」という所有の一つの形、あるいは、そうした共の関係にある人と自然、社会とのつながりを持つ世界というような意味として考えていただけばよいでしょう)の研究がとても多くなって、研究者も増え人気のテーマとなっています。

 

◎このような中で、なぜ「ローカルルール」を整理したのかという課題が出てきたのです。そのコモンズの関係や意味や意義を考える事と、もうひとつ重要なのは、日本の地域社会に存在する「入会権」や「慣習的権利」によって結びつき、機能している人と社会経済の関係を、日本人が現代に残しつなげてくれた「知恵」「技術」「無形資源」として、地域社会の活性役のような役割を果たす事ができるはずだという仮説と、そして、さらに、それを実行に移すための具体的な手法と推進するために面白そうと思わせる説得力ある魅力的な大義(哲学)を提示する必要があるのではないか、ということがありました。

 

◎「ローカルルールの研究」に参加した著者達との勉強、討議の中で、私は、海について言うならば、地先海面や海辺・水辺の利用において、従来の既存の仕組みの中で説明不足であった「市民的利用」という位置づけを、「入会的権利が支配し続けている社会」=「コモンズ」的世界の中に明確に与えることが大切であることがわかってきました。それが、本書の「あとがき」で整理した「ローカルルール」と「法律」と「慣習」とが相互に補完しあいながら安定的な秩序を形成する仕組みを三角形で表した図であり、その関係の中では、海の場合については、昔から行われ続けてきた「漁業的利用」と「入会的利用」とのなかに新しい入域形態である「市民的利用」を位置づけることができるということであったのです。

 

◎そして、大瀬崎のダイビングスポット裁判という実際に現在のごく一般的な社会のなかで起きた事件の判決で判示された、ダイバーが1回潜る時に地元漁協に支払う潜水利用料(340円)が、裁判所も認める法的裏づけを与える効果は、直接的には裁判所が認定した漁業法の漁業権の性格(妨害排除請求権という物権的性格)によるものだけれども、それだけでは、地域社会の安定性をうることはできないこともわかってきたのです。地域社会のなかに存在する海面に接した入会権のある林野や土地所有者たちの「土地管理組合」(漁業者とも一部一致)や、観光業者の集まりや、漁協や、漁協に含む地先海面の主体である漁業者集団(漁村集落)や、町内会(区会)がかかわり合意しながら形成されてきた協定や地域ルール、入会規定などが相互に補完しあって、地先海面の「市民的利用」が安定的に実施できるという、新しい地域社会の仕組みが作られているという理解が成立するのです。 

 

◎この「旧慣」をめぐっては、「環境権」と「既存権益」との衝突、「環境享有権」の概念の新たな位置づけが議論されるようになっており、1970年ごろに提起された市民のアクセス権を主張した「入浜権」の提起もありました。いまこそ、こうした「旧慣」とよばれる「入会権」や「漁業権」や「水利権」が、現代の市民社会が当然の権利として求めている「環境権」や「入浜権」と、“衝突”する概念として理解しようとすることではなく、「市民的利用」(「環境教育的利用」も同義)の位置づけを与えて再評価をすることが必要なのではないかと思います。この方法を国も地域の行政も活かすことによって、ほとんど制度改革やあらたな整備計画も経ずに、地方段階の自治的・自主的な力で、市民のNPOの力も借りて、ほとんどお金をかけずに実行できるということも、「入会」的世界の効用であるともいえそうです。

 

◎勿論反対意見もあるでしょうが、地域社会の中で、財産権たる入会権的な権利を無視して、或は軽視して、借り物の衣服をまとわせようとしても、やはり、すぐ化けの皮ははがれることになるでしょう。

 

◎また、現代の「まちづくり」ということを考えてみると、里山利用という考え方や、水辺の復活という都市部の自然享有の課題や、市民生活レベルではマンションや共同利用施設の「共有」利用の概念についても、「入会権」的「もう一つの共有」=総有の考え方や合意形成の仕方がテーマとなるでしょう。もともと、町の中に「入会権」の存在がなくても、「下町的」と同義語でつながる世界をもち、また町の古い歴史をたどれば、意外と多くの個人の所有概念では「くくれない」「だれが使っても良い」スペースや水辺や地蔵堂などの置かれた三角地など「共有」スペースがあちこちに存在していることに気づくでしょう。昔のムラの「ナゴリ」というには多くの土地やルールが存在することを再評価してみることも必要だと思います。日本人に共通した個人所有と(会社法人などの)共同所有と、もうひとつの「所有」を地域社会の安定的秩序を形成したり維持するときに使いこなす「知恵」であり「ノウハウ」を、田舎だけではなく、マチの社会にもいろいろな形で機能させていることに、もっと注目すべきであると思うのです。また、現代の共有の問題は、新たに制定されているまちづくり関係の法令の実効に結びつけるためにも、慣習と法とを補完させながら「ローカルルール」を自治的・自主的に創出するという発想の「切り替え」は、現代の閉塞した社会の風通しをよくするための参考になるかもしれないというように考えてもよいかもしれません。

 

◎どのマチも昔はみんなムラだったわけだし、ムラの人がマチにでて働くようになって近代から現代へと、いわゆる「発展」をとげてきたわけですから、「コモンズ」概念に社会や人、自然と人のかかわり方に現代的な課題を解決する具体的手法をあたえるという提案である「ローカルルール」の活かし方を考えれば、まちづくりにも有効に働くのではないかということは、今後の課題です。

 

◎いずれにしても、こうした、「入会権」のような権利や慣習を生かしたり、現代的な役割を再評価によって与えようとするのか、無視したり、新しい開発概念を地域にあてはめて、地方や日本の国土を考えていこうとするのか、きちんと議論をすることが大切な時ではないかという気がしています。そのような、ことを想定しながら、「ローカルルールの研究―海の「守り人」論Part2―ダイビングスポット裁判検証から」という、本を出版したのです。

 

☆この本の内容と、出版意図(狙い)をわかりやすく書いてくれという要望を、何人かからもらいましたので、長くなりましたが整理をしてみました。すこしは、本書を理解してもらうのに役立つでしょうか。

(MANAなかじまみつる)

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ISBN4-944114-09-5 C0062 Y3000E

定価[本体3000円+税](送料別)

◇A5判・並製・カバーカラー・624頁


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