味探検食単随筆 氷食論もしくは氷室論06


   

氷と人間のふれあいの歴史

NHKテキストるをしむ 歴史に好奇心

2006年9-10月号『江戸時代・夏の一日』より

お氷さまと富士参り

NHK「知るを楽しむ」2006年8月10日放送に出演 したときの

テキストに寄稿した原稿を補足して掲載します

by MANA(中島満) (C)


|01 まえおき  6月1日はなんの日? 氷の文化史ライブラリー02 桑野貢三さんとの出会い

03 雑誌『自遊人』2003年9月号氷特集「氷のごちそう」について

氷の文化史ライブラリー


も く じ

| 六月朔日は1年の特別な一日|加州侯の「御雪献上」の真実|金沢の氷室と雪氷の利用|

|「お氷さま」富士ルートからの検討|二度目のお正月と厄払い|

|凶を吉、暑さを冷ゃっこいに変える江戸人の知恵|氷水に秘められた歴史―氷朔日余話|

|長屋王が味わったオンザロック|清少納言の実家は代々氷の役所の長官役

 

六月朔日は1年の特別な一日


 江戸の夏の始まりの一日があるのをご存知ですか。旧暦の六月一日を「氷朔日」(こおりのついたち)と呼んで、この日に夏を迎えるいろいろな行事が行われます。

 江戸時代は、当然太陰暦(旧暦)の世界ですから、春を四季の始まりの月にして、春夏秋冬を月ごとに表せば、一月(孟春もうしゅん)から三月(季春きしゅん)が春、四月(孟夏)から六月(季夏)が夏、七月(孟秋)から九月(季秋)が秋、十月(孟冬)から十二月(季冬)が冬となります。また、一年を二十四に区切る二十四節季でみれば、夏は立夏(太陽暦の五月六日ごろ)から始まります。しかし、こうした陰陽五行説に基づく自然観で仕切られた四季の区

「富士登山図」「新撰大日本 永代節用無尽蔵」文久四年版。河辺桑揚子旧編増補版(中島架蔵)より

「冨士山細見并登岳之弁」見開き2ページ。これは実際の富士登山の記事です。

分けでは表現できない一年の区切りの一日として、六月一日が日本人の習俗の歴史に位置づけられてきました。

 五月五日端午たんごの節句が終わり、各所の神社祭礼も五月中旬以降順次行なわれるようになり、両国川開きは五月末、螢見物にも高田(現在の高田馬場の妙正寺川ほとり)や王子に人々がたくさん集まりました。実質的に江戸の夏は、暦の上では五月から始まっているのですが、なぜ夏迎えの特別な一日として六月一日が存在したのでしょうか。夏氷の話題をまじえてお話してみましょう。

 江戸の四季の歳時を克明に図入りで記した斉藤月岑さいとうげっしん著「東都歳時記」とうとさいじきには、この日を次のように記しています。


   六月朔日
 ○氷室
ヒムロ御祝儀(賜氷シヒョウの節) 加州侯御藩邸ヤシキに氷室ヒムロありて今日氷献上あり。町屋にても、旧年寒水を以て製したる餅を食して、これに比ナゾらふ。
 ○富士参り 前日(五月晦日)より群集す。是富士禅定の心とぞ。駿河国富士山は、常に雪ありて登る事を得ず。故に、炎暑の時を待て登山す。是にならひに今日参詣するなり。
 駒込(別当本郷真光寺)『江戸名所記』にいふ「この社は百年ばかりそのかみは、本郷にあり。かの所に小さき山あり。山の上に大なる木あり。其木のもとに、六月朔日に大雪ふりつもる。諸人此木の本に立ちよれば、必ずたゝりあり。此故に、人みな恐れて、木の本に小社を造り、時ならぬ大雪ふりける故を以て、富士権現を勘定申けり。其より、年ごとの六月朔日には、富士参とて貴賎上下参詣いたせしを、寛永の初めつかた、此所を賀州小松の中納言拝領ありて、下屋敷となる。
……以下略。(平凡社・東洋文庫「東都歳時記2」朝倉治彦校注)


 「加州侯」とは加賀藩百万石前田家のことで、「御藩邸」は、現在の東京大学本郷キャンパスの敷地にありました。引用の前段は、藩邸内に氷室があって、毎年六月一日の日を賜氷節として、蓄えておいた氷を徳川将軍に献上するならわしがあり、また庶民の間では、氷の代りに、寒ざらしの餅、つまり氷餅
こおりもちを食べたとあります。

 後段は、この日に、江戸庶民の間では、夏なお険しい富士山に登れない人のために、江戸の町の各地に造られた仮の富士山(富士塚)に登り「富士参り」をしたというのです。

付表1「江戸時代諸国大名から将軍家への氷餅献上一覧」

「氷餅」については本サイト「MANA辞典」参照

付表2「東京周辺の主な富士塚 あなたも登りに出かけませんか!」

 文京区本駒込に現在も残る富士塚状(ここは正確には「富士塚」ではないという人もいるので「富士塚状」としておきましょう)の山頂にある富士権現の小社は、加賀藩上屋敷ができた天和三年(一六八三)に、敷地内から現在の富士神社のある場所に移設されました(加賀藩下屋敷となっていた一六一六〜一六八二年に富士山がつくられ富士権現を祀る小社が建てられたようです)。その「駒込富士」や図絵で江戸湾を望んで大勢の人が山頂を目指して登る姿が描かれている「富岡八幡とみがおかはちまん」にあった富士塚には、前夜(晦日)から行列をなしてたくさんの人々が参集したことが記されています。

加州侯の「御雪献上」の真実

 暑い夏には、キーンと歯に染みるようなカキ氷がなによりのご馳走です。氷削り器からガラスの器にシャカシャカと雪のように落ちてきて、氷の山のてっぺんを食べやすいように押しつぶします。氷イチゴや氷レモンの赤や黄色のシロップの色がたまらなく夏の景色によく似合います。

 現代、氷はいつでも手に入ります。しかし、この氷を庶民が使えるようになったのは、明治維新以後のことであり、雪国からも遠い江戸の町に住む人々にとって氷を暮らしに利用することはできませんでした。

 雪国北越地方の有力大名であった加賀藩が、将軍家に、六月一日に氷を献上するという行事は、江戸の人々にとっても、暑い夏(新暦では七月初旬)を迎える町の話題として庶民の間にまでよく知られていたようです。

「六つの花五つの花の御献上」という江戸期川柳があります。「六つの花」とは、雪の結晶の形から「雪塊」を指し、「五つの花」は前田家の家紋から、加賀藩の「お雪献上」を意味しています。「こころざし水にせぬうちお裾分け」のように、氷が溶けて水になってしまわないうちにお裾分けしてくれないだろうか、というような加賀藩邸に運ばれる氷(雪塊)について、実際には手に触れることもできない江戸庶民の気持ちを表現しています。

 引用した『東都歳時記』の「氷献上」には校注者による注があり、江戸城に勤めていた人々の聞き書き集として明治二十五年に発行された「江戸城大奥」という書には「加州家より氷室の献上あり。女中一同へ分け下さる。……是は雪塊にて、土中に埋め置きし物なればにや、土芥などの打ち雑ざりて頗る清からず、されば御台所はお手を付けず分け下さる」とあります。

 これと同じような記述が、幕府の侍医であった桂川甫周(かつらがわほしゅう七代・文政九〜明治十四年、1826〜81)の次女、今泉みねの回想記『名ごりの夢―蘭医桂川家に生まれて』(平凡社・東洋文庫)に、子供時代(としてしか記されていないので仮に十歳とすると元治元・一八六四年)の思い出として父親が城中から下される氷の話が載っています。


「私の子ども時分は、氷をいただくなどということは、ほんとに一夏にたった一度だったようにおぼえます。……なんでもその氷はお城から諸大名や旗本等へ下りたのでございまして、一般の人たちへ氷がゆきわたるようになりましたのは明治になってからではないでしょうか。

 お氷の日は父は常より早く登城致しまして頂戴いたしました。それを待ちうけする邸では大さわぎ。いよいよいただける段になりましても、私などは重ねた両手もしびれるほどにお待ちしていただきました。うすらおぼえではございますが、一寸角ぐらいなのをかさねた手に浅黄のおふきんを布いておしいただきました。……ある時は、雪のようなのを、そのころ西洋から来たという銀の大匙に一ぱいいただいたこともありましたが、それはすぐ消えるように解けてしまって、オイオイ泣き出したことも思い出します。」


 この二つの引用は、江戸城内の「お雪献上」の事実を体験に基づき記した数少ない証言です。これらの引用にもあるように、実際献上された「お雪」は、後代考えられる「カキ氷」のようなものとは程遠く、一瞬の冷たさを体験するためにだけ、主に女性や子どもたちを対象として「下される」ものであったことがわかります。

 また、加賀藩江戸上屋敷には、氷室のあった場所が特定できる「前田家本郷屋敷図」や「江戸御上屋敷地図」が金沢市立図書館に所蔵されていることがわかっています。

 

金沢の氷室と雪氷の利用

 それでは、加賀藩のお城があった金沢では、氷室ご祝儀の氷(雪塊)献上の送り手として、どのような歴史が残されているのかを見てみましょう。

 まず、金沢市では、現代においても、旧暦六月一日の新暦に相当する七月一日を、「氷室の日」(ひむろのひ)として、毎年「氷室の節句」(ひむろのせっく)行事が市内各地でとりおこなわれます。謡曲「氷室」が催されたり、市内にある湯湧温泉の玉泉湖岸には史実に基づく氷室が復元されており、この日にあわせて「氷室開き」が行われ、冬蓄えておいた氷を取り出す氷室祭りが開催されています。

 金沢城には、第五代藩主・前田綱紀(つなのり)侯(一六四三〜一七二四)の時代、元禄六年(一六九三)に、場内「玉泉院丸」(ぎょくせんいんまる)に氷室が作られた文書が残っていて、その規模は二間四方の石造の穴倉状のつくりであったことが知られているそうです。また、加賀藩においては、藩祖・前田利家にさかのぼり、利家入国に際し、犀川(さいがわ)上流の倉谷四か村の村人たちが、山林の材木切り出しを担当する「杣(そま)取役」「大鋸(おが)役」を命じられ、城址建築修築に貢献し、労役・兵役免除等の特権を与えられた返礼として、毎年六月一日に、氷の献上を行なうようになったいうことです。

 この倉谷四か村の献上氷の記述は、「改作所旧記」という加賀藩の税務記録文書に、貞享元年(一六八四)から元禄十六年(一七〇三年)にわたって五回記述がされていて、その貞享元年六月朔日に「御吉例のお祝いの氷」が城に収められたと具体的に記されていることからも江戸時代初めには既に行われている事がわかります。(注1)

 ところが、金沢の城までは氷が運ばれていることがわかっているのに、江戸の東都歳時記や金沢の歳時習俗を記した資料には、「お雪献上」のことが記されているのみで、具体的にどの経路でどのような規模で運んだのかの藩政史料が見つかっていません。

 これが不思議ですが、この疑問に対して、最近、金沢にある北陸大学薬学部の竹井巖先生が「金沢の氷室と雪氷利用」(北陸大学紀要二八号・二〇〇四年)で、これまでの史実と新しく発見された資料をもとにある仮説を述べておられますから紹介しておきます。(注2)

 

「金沢から江戸に将軍家への献上のために雪氷が運ばれたかどうかについては、藩の公式文書で確認できないことではあるが、明治以降のいくつかの聞き書きからは、江戸に無いはずの雪が届けられていることや、伝えられる二重構造の桐長持ちなどで断熱に配慮すれば可能なことなので、十分ありえた話しである。また、江戸藩邸の氷室の存在は冬期間の雪の搬入の可能性を示唆し、金沢と江戸を結ぶ経路上に位置する前田家の分家の上州七日市藩の存在も、一定の役割を果たした可能性がある。」


 「お雪献上」の運搬方法については、「氷室を開くと水蒸気が立ちこんで、煙のようだったそうです。これを七尺×三尺、高さ二尺くらいの大きさに切り(特殊な目の荒い鋸―ガンドウを使う)、桐の二重になった長持ちに底に穴を開けたものに夜道ばかりで江戸に運んだ。話では四日くらいで通したそうで、三棹一組だったそうです」
(郷土史家・大友奎堂氏談話―「氷を運ぶ」宮野武雄著、日本鉄道貨物協会「貨物」昭和三十五年八月号所収。筆者宮野氏が大友氏本人と往復書簡で情報交換した記事が載っています)に引用される大友氏の伝聞があるのみなのです。江戸期の多くの好奇心旺盛の筆者たちが記した随筆や日記類があるなかに、いかに夜間の搬入だといっても、徳川二百六十余年を通して現在まで(筆者が調べ続けている範囲に過ぎないが)、一行も実際の「お雪献上」の搬送者たちの“目撃譚”が見つからないというのは、なぜなのだろうか。長年氷室や氷の文化史資料を集めてきて、この疑問の答えはいまだ見つかっていないのです。

 竹井先生も示唆されているように、確かにありうることとはいえ、冬季搬入や、金沢→江戸の北陸道・東山道を選ぶとすれば約百二十里余を四〜五日で運ぶ選択だけではない近距離からの調達搬入も併用ルートとして考えてみたほうが、ごく自然のようなきもする。それもそうとうに目立たない程度の運搬だったのではないかと、筆者は考えております

「お氷りさま」富士山ルートからの検討

 「お雪献上」の加賀藩ルートのほかに、江戸藩邸に運び込まれていたとする氷のルートが伝えられています。富士山の溶岩流跡に残された氷穴内で採取した氷塊を利用したというのです。これもたくさん出典があるというのではなく、江戸末期の国学者である岡本保孝
おかもとやすたか著『難波江』(著者生前未刊の自筆稿本には刊記なく成立年が不詳です)という随筆があります。『百家説林続編』という叢書に含まれています(現代では『日本随筆大成―第二期21』で読む事ができます)。そこに家康・秀忠に仕えた江戸幕府草創期をよく知り、宮本武蔵の史実を語る時に登場する『渡辺幸庵対話記』を引用して次のような記述があります。


「六月朔日には富士の大宮より一里奥、宮山と申すところより氷を献上いたし候、五月晦日の夜より山をかつぎ出し申し候、三尺四寸ばかりに切り候氷、駿河の御城へ朔日に上り申し候刻は、六七寸四方ばかりに成り申し候よしに候、江戸へ献上の氷は(御城へ)上り申し候刻、二寸四方ばかり成り申し候よしに候」


 岡本保孝は、幕末の優れた考証家として知られていますが、この記述の元となった『渡邊幸庵対話記』は、先述した金沢城に氷室を設け加賀藩のお雪献上を確立したとされる五代加賀藩主前田綱紀が、家臣に命じて編纂させたことがわかっています。
(注3)

 なぜか因縁めいた感じがします。そして、富士氷の駿府城献上の記述には、徳川家康とのかかわりを示す史料が存在しています。

 徳川幕府の正史になる「徳川実記」慶長十九年(一六一四)の記述に、「六月朔日 当賀例のごとし。駿城にては出仕の群臣に富士の氷を給ふ」(『新訂増補徳川実記』吉川弘文館、一九九八年より)とあります。(注4)当賀とは、この当時六月一日を「氷朔日」として祝ったことを指しているとしてよいでしょう。

 富士ルートは、その後、富士山の宝永大噴火(一七〇七年)を経ることもあり、以後歴史の記述からは消失する(見つかっていないだけかもしれません)かわりに「渡辺幸庵対話記」をまとめさせた学者藩主として知られた前田綱紀侯を介して、加賀藩と江戸幕府との間の六月朔日行事として遂行されていったという見方もできるのではないかと考えています。


 二度目のお正月をして厄払い


 江戸時代に、六月一日に二度目のお正月をした年が、都合五回あったことが知られています。寛文七年(一六六七)、宝暦九年(一七五九)、明和八年(一七七一)、安永七年(一七七八)、文化十一年(一八一四)です。

 お正月のやり直し、仮作(かさく)正月や流行(はやり)正月とも当時呼ばれたそうです。歴史民俗学者であった和歌森太郎の戦後すぐに発表した「六月一日」(「民俗学研究」第二輯、昭和二十六年)という小論文に、平林敏治郎「文献と伝承」(『民間伝承』一四―一二)を引用して載せています。

 このうちの安永七年の江戸の市中のできごとを、江戸市井瓦職人でありながら博覧強記でしられた国学者・北静廬(きたせいろ)は、「梅園日記」で次のような観察記を書いています。


「安永七年五月晦日、江戸にて、大晦日と称して、節分の如く鬼やらひの豆をうち、厄払の乞食いで、六月朔日を、元日と称して、門松をたて、雑煮を出し、酒をすゝむ。宝舟の画を売者も出たり。江戸中かくの如くしたるにはあらざれとも、此事をなす者多し。もと若狭国よりはやり出て、諸国につたえけるとぞ。彼国の土民、山中にて異人に逢しが、かくの如くすれば、疫病を除くと、教えし故に行ひはしめたりといふ。……是を流行正月といふ。冬の日といふ俳諧集に〈つるべに粟をあらふ日の暮〉という句に、〈はやり来て撫子かざる正月に〉と付たり。冬日註解に、前句のさまを女の業也と見たれば、撫子は子といふ語縁にして疱瘡の麻疹のまじなひに、正月を仕直して、祝ふなるべし。時ならず正月のはやるといふ事、都鄙ごとに有ること也。……以下略」


 近松に「心中刃は氷の朔日」
(しんじゅうやいばはこおりのついたち)があるが、中味は心中もので、筋立ては六月一日とはとくに関係はない。現代の歴史小説家の杉本章子さんは、関係のない六月一日をあえて関係付けさせて、事件の起こる江戸の町の背景に「流行正月」を置きなおして、「はやり正月の心中」(「人情の往来―時代小説最前線」新潮文庫所収)を書いています。


凶を吉、暑さを冷ャッコイに変える知恵


 江戸の町は、平安の庶民文化が花ひらいた時期も長かったが、その一面で炎暑を迎える旧暦六月以降になれば疫病に悩まされ、大火や地震、浅間山や富士山の爆発の影響による飢饉の余波も受けたでしょう。

 こんな社会経済の危機を迎えたときの江戸庶民の安寧を求め、厄落としを願う心が、一月一日からちょうど半年目の一年目の折り返しの月の一日目に、はやり正月を行わせたというのも、現代の、やるせない“やりなおし”を許されない時代に生きる人間からみて、なんという知恵かと驚くばかりです。

 江戸の庶民の夏には「氷」という冷たさは届かなかったが、凶を吉に切り替えようとするエネルギーは、暑さを冷たさを感じる気持ちに切り替える“納涼”の知恵とも共通するものなのだと思います。

 六月一日の富士参りは、男の独占物だった富士登山や大山参りを、近所の神社の裏山に作られた富士塚に老若男女に子供たちもが集えるまさにお金のかからない効果的なレクリエーションでした。筆者も、東京周辺に現在も残る富士塚に、浅間神社の鳥居をくぐり、ものの5分とかからず山頂の富士権現の小社にたどりつくピクニックによく出かけます。標高は、たかだか10メートルぐらいのはずですが、森を抜けて山頂に立つと、眺めがよいこと、普段見えなかった町の姿が新鮮に映ったりもします。気持ちは“六根清浄ろっこんしょうじょう”“お山は晴天”と叫んでいます。


氷水に秘められた歴史―氷朔日余話

 みなさんは、六月一日という夏迎えの一日にもいろいろな意味が込められていることをご理解いただけたでしょうか。最後に、氷を人が利用するにも紀元前からの古い歴史が秘められていることについてふれておきましょう。

 冬凍った氷や雪を氷室に蓄えておき、夏に取り出し、その氷を利用する歴史は、古代中国において紀元はるか前のころからあったことが、「詩経」や「春秋左氏伝」という農事詩や史書の世界に記され現代に伝えられています。難しい言葉では「蔵氷」ぞうひょう「賜氷」しひょう、あるいは「頒氷」はんぴょうの制度といいますが、貴重な氷を夏に国王配下の家来たちに分け与えたり、国王の食物を冷蔵保蔵する氷の生産・管理・利用の制度があったことが知られています。

 「周礼しゅらい」という古代中国の制度や役職を記した書には、冬凍った氷を切り出し蔵氷したり、氷室の管理や賜氷を司る「凌人りょうじん」という部署がおかれ、九十七人の専門官が配属されると記されています。「凌」とは、詩経の「国風」編に含まれる「豳風」ひんぷうという豳ひんの国のできごとを歌った七編の詩の一つ「七月」(ふみづき)に、「十二月には氷をとんとんと割ったのを、正月には凌陰(氷室)にいれ、二月の朝早く子羊をささげ韮(にら)をそなえて(氷室から取り出す)……」(吉川幸次郎注「中国詩人選集2」岩波書店)と、ある「氷室」のことです。
この古代中国の蔵氷・賜氷制度は、隋から唐時代ごろまでには国の律令制度として確立されていました。この氷の制度が、朝鮮半島を経由して、日本には奈良時代に伝わっています。正倉院宝物の中には、カキ氷につかったらぴったりと思われる瑠璃色のガラス器や、氷を削るのにちょうどよい小刀が伝えられ残っています。

付表3「全国の氷朔日に関係する氷室まつり一覧」

 

長屋王が味わったオンザロック


 こんな、奈良時代に氷を王族が利用していた生々しい事実として、墨で記された木簡(もっかん)が、奈良市庁舎のすぐ近くで発掘が進められていた長屋王邸遺跡から昭和63年に出土したのです。当時の新聞やテレビでは、「悲劇の長屋王が味わったオンザロック」というタイトルで、こぞって、大々的に、奈良王朝の宮廷や王族の豪華な暮らしぶりが報じられました。

 木簡には、氷の生産地(氷池)であったと思われる都祁(つげ)(現在の天理市福住から山野辺郡都祁村周辺といわれています)を記した「都祁冰室」(つげひむろ)の記載がありました。この都祁は、「日本書紀」仁徳天皇六十二年、仁徳天皇の異母弟である額田大中彦皇子が、氷室を発見したと記された場所「鬪鷄」(つげ)とも一致していたのです。氷室の規模や氷室の管理人の名前、長屋王邸まで氷塊が馬に積まれて運ばれた日付、回数が詳細に記されおり、荷駄数から換算すると、6月と7月と8月の3ヵ月間で約1.8トンの氷の利用数量になることが推定されました。

 長屋王は、天武天皇の孫にあたる左大臣の要職にあった王族でした。天皇や王族が宮中で使用する氷の数量までも含めて考えれば、木簡に記された七百十二(和銅五)年当時、氷室や氷池が奈良周辺に何箇所も分布し、蔵氷・賜氷制度が確立されていたことが、事実の記録として証明されたのです。


清少納言の実家は代々氷制度の長官


 氷の利用については、枕草子や源氏物語にも、宮廷で甘いシロップをかけて女御たちが「カキ氷」のようにして氷を食べる場面が登場します。ところで、清少納言の実家である清原氏は、代々、主水司(もんどのつかさ・もひとりのつかさ)という氷や水を司る役所の長官をしていた一族でした。清原氏の残した文書には、蔵氷賜氷に関係する資料が多く含まれ氷室の歴史を知る上で貴重な資料となっています。

 この国家の律令にも組み込まれた蔵氷賜氷制度は、鎌倉時代の前ごろまでは継続していた記録が残っていますが、鎌倉時代に入ると一部の史書に記録が記されているのみで、宮中や武士による実質的な氷の利用実態は消失してしまいます。利用に足る氷を生産する氷結状態が維持できなかったことが直接の原因でしょうが、戦国時代から室町時代を経て武士による天下統一にしのぎを削る時代になっては、氷室に氷を蓄え夏利用することに力を注いでいられなくなったということなのでしょう。

 しかし、室町時代の終わりごろから古代日本の蔵氷・賜氷制度をもとにした氷室の歴史は、「こおりかちん」と織田信長も朝廷に献上をした氷餅や、庶民信仰としてのムケノツイタチ(剥け節句)、キヌヌギツイタチ(衣脱ぎ朔日)、イリガシボン(炒り菓子盆)のような六月一日のいろいろな夏迎えの行事となって再び登場してくることになりました。


 山口県長門市仙崎という漁村に生まれた「金子みすゞ」という童謡詩人の残してくれたすてきな六月一日の詩(昭和4年清書)を紹介しておきます。
(注五)

お朔日
ついたち
ついたち
お朔日
ついたち、お朔日、
とてもきれいな朝の空、
きょうからわたし私は単衣
ひとえです。

お朔日
ついたち、お朔日、
お巡査
まわりさんも白の服、
黒い喪章
もしょうが目立ちます。

お朔日
ついたち、お朔日、
ばん晩にゃ坊さまおいでです、
あとでお菓子
かしがさがります。

お朔日
ついたち、お朔日、
とてもすてきな日和
ひよりです、
きょうから町は夏でしょう。

【注記】

注(1)奈良在住の郷土史家で、古代氷室の研究に取り組んでおられる川村和正さんが作成された「氷室関係資料聚一〜四」及び「駿府城における六月朔日富士山頒氷記録聚」を使わせていただいた。川村さんの古代氷室の研究について「都祁氷室に関する一考察」(龍谷大学考古学論集T、2005年3月31日、同論集刊行会発行)は、次のホームページで内容をご覧になれます。
http://www.manabook.jp/iceman-library09kawamura.htm

注(2)竹井巖「金沢の氷室と雪氷利用」(北陸大学紀要二八号、二〇〇四年)。次のホームページで内容をご覧になれます。
http://www.manabook.jp/iceman-library08takei.htm

注(3)引用原本の『渡辺幸庵対話記』は、国会図書館蔵写本「幸庵夜話」によると「宝永の頃綱紀が藩士杉本義隣に命じ、当時江戸護国寺門前に住んでいた百二十八歳になっていた幸庵老人を訪ねて筆記した」と巻末に記されたインタビュー本です。引用されている「六月朔日」の記事は、安永六年(1709)九月二日にインタビューして筆記したと記されています。

注(4)注(1)参照。

注(5)現代仮名づかい版「金子みすゞ童謡全集E さみしい王女・下」(JULA出版局、2004年)より。

 

by MANA(中島満) (C)

 

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付表―1  江戸時代諸国大名から将軍家への氷餅献上一覧

番号

大名家名

在城地

大名名

石高

当月

品名

備考

(1)

尾州家

名古屋

尾張中納言慶恕(よしたみ)

619500

6月

氷餅

 

(2)

紀州家

和歌山

紀伊宰相慶福(よしとみ)

555000

6月

氷餅

後の家茂

(3)

水戸家

水戸

権中納言慶篤(よしあつ)

353200

暑中

葛粉

参考

(4)

松平家

会津

松平肥後守容保(かたもり)

23

5月

氷餅

 

(5)

前田家

金沢

加賀中納言斎泰(なりやす)

1022700

暑中

葛粉蕨粉

参考

6

輪島索麪他

(6)

阿部家

奥州白川

阿部播磨守正耆(まさひさ)

10

5月中

氷餅

 

(7)

丹羽家

奥州二本松

丹羽越前守長国(ながくに)

10

4月

5月

氷餅

氷餅

 

(8)

牧野家

信州小諸

牧野遠江守康哉(やすとし)

1万5000

5月

氷餅

 

(9)

諏訪家

信州諏訪郡高嶋

諏訪因幡守忠誠(ただまさ)

3万

5月

氷餅

 

暑中

寒曝蕎麦

 

10

堀家

信州伊奈郡飯田

堀石見守親義(ちかよし)

1万7000

5月

氷餅

 

11

松平家

濃州高富

本庄安芸守道貫

1万

暑中

氷餅

 

12

遠山家

濃州恵那郡苗木

遠山美濃守友詳(ともあき)

1万

5月

氷餅

 

資料:「泰平万代 大成武鑑」安政5年(1858)刊、出雲寺萬次郎版(千代田区図書館蔵)より作成。「御大名衆」2冊のうち「時献上」(ときけんじょう)品中の「四月」〜「六月」該当を抽出した。なお、本項目につき、「江戸幕府大名武鑑編年集成」第11巻(明和2年〜安永4年)により明和2年(1765)刊「明和武鑑」(須原屋茂兵衛版)では、尾州家(六月朔日 氷餅)という差はあるが内容は変わらず、大成武鑑初期の明和7年(1770)大成武鑑(出雲寺和泉掾版)は同一記述であることを確認している。

 

表―2 東京周辺の主な富士塚 「六根清浄、お山は晴天」あなたも登りに出かけてみませんか

富士塚名称

社名

住所

築造・修築。特徴。

標高

千駄ヶ谷富士塚

鳩森八幡神社

渋谷区千駄ヶ谷1丁目

寛政元年(1789)、大正13年(1924)修復

約6m

江古田富士

茅原浅間神社

練馬区小竹町1-59

天保10年ごろ築造。

約8m

浅草富士

富士神社

台東区浅草5-3-2

通称「おふじさん」。富士塚跡

1.5

下谷坂本富士

小野照崎神社

台東区下谷2-98-1

文政11年築造。原形をとどめている富士塚の一つ。

5m

長崎富士

富士浅間神社

豊島区高松2-41-6

商店街裏手にある。文久2年築造

8m

成子富士

成子天神社

新宿区西新宿8

溶岩積。ふだんは柵があり許可なく登れない。

12m

品川富士

品川神社

品川区北品川3-7-15

明治2年築造。見晴らしがよい。

7m

十条富士

浅間神社

北区中十条2

文化11年(1814)築造

約6m

駒込富士

駒込富士神社

文京区本駒込5

石段と社殿構造。古墳丘ともいわれる。

約5m

鉄砲洲富士

鉄砲洲稲荷神社

中央区湊 1-6-7

中央区に残る唯一の富士塚。寛政2年(1790)築造

約6m

神田柳森富士塚

神田柳森神社

千代田区神田須田町 2-25

昭和5年築造。縮小して今も残る。

 

砂町富士

元八幡神社

江東区南砂 7-14

昭和36年移築

10

目黒富士

氷川神社

目黒区大橋 2-16-21

文化9年目黒富士は今はない。昭和52年現地に登山道付ける。

〔注〕都区内で新古大小高低さまざまな富士塚が約60ヶ所あるようです。表は筆者が登ったことがある富士塚のある場所で、他にもたくさんあります。非公開の場所もあるので要注意。旧暦6月1日に相当する7月1日に富士山開き行う神社が多い。「富士信仰と富士講」平野榮次他著(平野榮次著作集1、岩田書院、2004年)。「富士講と富士塚」(日本常民文化研究所調査報告第2集、神奈川大学日本常民文化研究所編、平凡社、1993年)。このほかインターネットサイト「富士塚」検索で数多く案内のサイトを見つけることができる。

 

表―3  全国の氷朔日に関係する氷室まつり一覧

場所

まつりの

名称

開催日

主催者・神社等名称

住所・連絡先

備考

奈良市

献氷祭

5月1日

奈良氷室神社

奈良市春日野町1-40742-23-7297

天平勝宝8年(756)記「東大寺山堺四至図」に記された「氷池」と「氷室谷」の地に旧社があったとされる氷室神社。古代氷室の献氷儀礼として「ニチレイ・ロジスティクス関西」作製の鯛と鯉を氷中に飾った「花氷」を毎年献氷、祭事を執り行う。

天理市

献氷祭

7月1日

福住氷室神社

奈良県天理市福住町1841

地元製氷会社からの献氷と祭事。允恭天皇3年創建伝承のある最古の氷室神社。

氷まつり

7月17

福住氷まつり実行委員会・福住未来(ユメ)クラブ共催

天理市立福住公民館(0743-69-2001

古代氷室を考古学・歴史史料に基づき復元し、2月に氷を納め、7月第3月曜(海の日)に氷を取り出す氷室まつりを開催。市民、地元小学生たちが参加実行している。

京都府

南丹市八木町

氷室祭(氷朔日)

71

氷室神社(八木町氷所)

南丹市八木町八木東久保291(八木町観光協会:0771-42-2300

亀山天皇(12491305)の世に氷室山に置かれた氷室から氷を切り出し献氷した故事が由来。氷の奉納。平成12年には神社から京都御所に献氷の「氷運び」を再現したイベント開催。

大阪市

氷室祭(夏祭)

7月2122

難波神社

大阪市中央区博労町4-1-3

地元製氷会社から献氷と祭事。

金沢市

氷室の日・氷室まつり

630日〜7月1

湯涌温泉観光協会

金沢市湯涌町イ1番地(076-235-1040

630日に今年1月湯湧温泉氷室小屋に仕込まれた大寒の雪を切り出し、薬師堂に奉納し、1日県知事等に献氷。氷室饅頭。能「氷室」の催しなどあり。

群馬県

草津町

氷室の節句

6月1

群馬県草津温泉氷室の節句実行委員会他

草津温泉西の河原公園

草津白根山氷穴(氷谷)から氷を取り出し会場内の鬼の相撲場と呼ばれる場所で神前に氷を供える神事の後、謡曲「氷室」、茶会など行事が催される。

高知県

いの町

16回氷室まつり

79

同実行委員会

いの町(旧本川村)越裏門河川敷

「寺川郷談」という文書に記された氷朔日行事をもとに、7月第2日曜日に、手箱山に復元された氷室から切り出した氷を振る舞い、神事、イベントが行われる。

熊本県

八代市

妙見さんの氷室まつり

5月30日〜6月1日

八代神社(妙見宮)

熊本県八代市宮地

350年前から続く氷朔日行事にあわせた祭礼。北海道から取り寄せた雪を保存しておきこの日祭壇に献上。雪餅(米と餅米粉を混ぜ合わせ、中にあんこを入れセイロで蒸し作る)を食べるとその年は健康に過ごせる。

〔注〕開催日は、平成18年のもの。

by MANA(中島満) (C)

 

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