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Notes東海道B―川アと沖縄料理 その2

石敢當(いしがんとう)物語

 川崎市と沖縄の交流について、川崎駅前に設置されている石敢當について触れておこう。石敢當=「いしがんとう」(石敢当)と読む。 

 川ア駅前の石敢當には、次のような「由来書」が彫り込まれている。

 

 由来書=昭和41年9月、沖縄諸島は数次の台風に襲われ甚大な被害を受け、なかでも宮古諸島は蘇鉄地獄といわれるほどの悲惨な状況でありました。川崎市議会は超党派で救援を決議し広く全市的救援活動を展開しました。この碑は救援活動の返礼として宮古島特産の名石トラパーチンに石敢當を刻み贈られたものであります。石敢當は古代中国の強力無双の力士の名前で、この3字を刻んで三叉路や丁字路等に建て厄除けとする習慣が伝承し、沖縄、南九州地方に及んでおります。ここに、川崎市と沖縄を結ぶ友好親善と文化交流の絆として石敢當を建て、市民の交通安全を祈るものであります。 

昭和45年9月1日 川崎市長 金刺不二太郎

 

 この昭和41年のときの台風は、沖縄を襲い大被害をもたらした第2次の宮古台風であり、このときも、川アでは救援カンパ運動が行われたが、石敢當を返礼に贈る縁を作ったのは、昭和35年春に襲った第1次宮古台風であるということを、『川アの沖縄県人会70年の歩み』に、元県人会事務局長の小波津英興さんが、「石敢當物語」として書いている。

 沖縄復帰の前の、宮古島台風への災害救援金として、川崎市は358万円、当時のドルベースで1万ドルが沖縄に贈られた。その後、4基の石敢當が川崎市に返礼として贈られたが、その後すぐにしかるべき場所に設置されることがなかった経緯が書かれてあり、第2次宮古台風の後に、そのときの石敢當が、川ア駅前に設置されることになったという。

資料:川崎市教育委員会文化財課のSさんへの5月11日取材と、送っていただいた資料コピーにより作成。

資料 『川崎の沖縄県人 70年の歩み』127〜133頁より

『石敢当物語』

 by 県人会事務局長(元) 古波津英興

 川崎駅前の石敢当と首里城内の惣之助詩碑は、川崎と沖縄を結ぶ友好のシンボルとして好一対の語り草になっている。それには一つのエピソードがある。

 話は古くなりますが、昭和3年3・15、大弾圧を受けた日本共産党の大幹部佐野学と鍋山貞親が、転向の先鞭をつけたことは有名である。その鍋山が川崎市自民党政治講習会で、“沖縄返還とか復帰とか騒いでいるが、自民党が今度の宮古台風被害活動のトップを切ったらどうか”と講演をした。昭和35年3月のことである。この話を耳にして私は早速、社会党、共産党、民社党、工業倶楽部等の各会派控え室を歴訪して、自民党とともに即時敏速なる一斉行動を申し入れた。これは、すんなり受け入れられた。間もなく私は、市議会で災害状況説明を求められた。

 琉球政府東京事務所からも説明要因が派遣されて、愈々本格的になった。

 そこで、労働団体、婦人団体、文化団体、商工会議所等に呼びかけ、さらに全市、町内会までが動き出した。全市の町内会長が、一堂に会したことはなかったが、この度が始めてとのことでした。救援の波は、急速に高まり、ついに、全戸10円以上の、全市ぐるみのカンパ活動になりました。“宮古台風災害救援”の横幕を張った救援車が大スピーカーで訴え、タスキがけの議員団、あけぼの婦人会、県人会等が旗を揚げて駅前、商店街の要所要所に建ち並び、遠く東京、横浜からも、県人会や婦人会の方々がかけつけて、賑やかな募金風景でした。

 テレビ、新聞、全マスコミが取り上げました。何よりも、市当局をはじめ、自治体が総力で取り組んだことが沖縄現地を感動させ、また全国的に反響を呼びました。〔中略〕

 川崎市における募金総額約358万円、当時はドル通貨だったので約1万ドルが贈られました。

 琉球政府・東京事務所長金城増明氏に、南方同胞援護会の渕上房太郎氏立会いで青木喜一議長から贈呈されました。

 義捐金贈呈式が済んだあとで、金城増明氏とお茶をのみながら、「さてお見舞いを貰いっぱなしというわけにもいきますまい。沖縄の焼物、人形、染物、漆器等で何か適当なものがありますか」との唐突な質問に面食らっている様子でした。私はおもむろにかねてからの腹案を申し出た。

 祝いや喜びの贈り物ではないから普通の品物ではない、例えば、石敢当のようなものはどうだろう、魔除け、災害除けの獅子(シーサー)とか……ものずき趣味と怪しまれはしないかと、遠慮しながら申し出たわけだが、金城さんは、ひざをたたいて、「それは妙案だ、災害見舞だから厄除けの上俗をもって返礼する、全く以って、うってつけだよ、よしさっそく、沖縄県庁に伝えて手配させましょう」と即座に合意成立。

 たまたま昭和35年8月に那覇市で市政40周年祈念祝賀の行事があって、川崎市議員団(氏名略)、県人会代表(氏名略)が招待された。〔中略〕

 県庁福祉課の手配で、先島(宮古、八重山)方面の島々から集められた石敢当4個は、川崎市議団一行に託されたが、これは文字どおり背負い切れないお土産でした。

 ともあれ4個の石敢当は、教育委員会の倉庫に収納されたが、なかなか建設場所が決まらず、数年の歳月が過ぎていった。市役所の前庭、産業文化会館、体育館、川崎駅前等、数多くの候補地が話題に上がったが、それぞれ難色があって、なかなか建立の目途がつかないでいました。

 折角の贈り物が、そのまま放置されることに堪えかねて、当事の県人会長美里安睦、古江亮仁、古波津等が石敢当建設促進委員会の名で、市当局に陳情書を提出した。

 同時に宮古島庁に依頼して、折角贈っていただいた石敢当ではあるが、川崎と沖縄の文化交流のシンボルとして、万人の鑑賞にこたえるためには、縦1.5メートル、横0.5メートル、厚1.8メートル以上のサイズで、さらに甘えついでに、宮古特産の名石トラバーチンに刻んで下さるようにと所望した。

 それから幾月かがたって、諾否の返事もないままに打ち忘れていたら、或日、川崎埠頭の名古屋精糖工場から、連絡がありました。宮古島から黒砂糖を運ぶ貨物船に、菰包みの石敢当が船長託送で直送されてきたのである。差出人は、宮古島庁 長官国泰邦氏で、面識はありませんでしたが、送り状も事務的文面でしたが、荷造りの木枠や縄のかけ方にも並々ならぬ心配りの程がしのばれて、只々頭が下がる思いでした。

 その頃、市議会議長青山正市氏は、交通安全協会会長でもありました。先年、那覇市訪問の際に石敢当を琉球政府からたくされた托された縁で、この度は積極的に奔走してくださいました。
 たまたま市の公園課では、川崎駅中央地下道の上に植え込みを作り、ドーム型円塚石積の計画が進められておりました。本来は、駅前に記念碑や顕彰像等は建てさせない原則でした。

 交通安全協会の災害防除と石敢当の厄除けのイメージの共通性を強調して、さらに建設費用のほどよい分担を申し添えて、漸く、公園課の了解を取りつけたのであった。

 それにしても、球面体の石積みの設計へ長方形の石を如何様にして添わせるか、技術的にもいろいろな問題があった。

 沖縄では、大方は石垣の壁面にはめ込まれているのであるが、球面体にはめるにしても、斜めに反りかえらせるわけにはいかない。

 強引な割り込みをかけられながら、設計変更に応じて下さった公園課の寛容な取り計らいのおかげで、現在の川崎型石敢当が実現したわけである。それにしてもおそらく、沖縄、ヤマトを通じて、最大の石敢当ではあるまいか。

 とにもかくにも、いろいろの紆余曲折を経て川崎石敢当の建立を見たのは、ひたすらに青山正市氏の尽力によるところが大きかったことを、特記しなければならない。

◇由来書について

 〔前記掲載につき略→「由来書」

◇建立祈念講演とパーティー

 9月1日とありますが、別に除幕式や竣工式はありませんでした。然し沖縄文化同好会はいちばん深くタッチしてきたので、建立記念講演会とパーティーを川崎駅ビル4階小ホールで開催しました。〔中略〕

 相模原市在住の大東学院大学教授清田氏は新聞を見て参加なさったのでしたが、その飛び入り講演が大変な好評でした。

 山口方面で、“為朝公おん宿”と門口に書いて特に天然痘のマジナイとして吊るしたりや、庚申塚も、そして石敢当もその類だろうが、関東ではあまり見当たらないとのお話でした。

 徳富蘇峰の日本国民史によれば、南九州の熊本から大分が石敢当分布の北限とのことであるが、然し、和歌山、あるいは信州にもあるらしい報告もある。

 先ほど述べたとおり10年がかりでやっとのこの方法でしか実現できなかったことを感謝こそすれ、愚痴や言訳は無益である。私費で己の趣向をこらすのとは条件が違う。今ではむしろ、川崎にして生まれた、時と所を得た、ニュースタイルの石敢当であることに新たなる意味を思うのである。

◇京都の石敢当

 それにつけても、“芸術新潮”に載った京都の岡部伊都子氏の石敢当随筆は、教訓に富んでいる。

 如何にも京都らしく石敢当の上に石灯籠がのっている。中国風の石敢当は、3字の上に鐘馗の絵模様が彫ってある。それが京都へくると石燈籠と些かの違和感もなくおさまっている。その土地の人の生活の中にうまく溶け込んでいる。京都には京都の受け入れようがあり、川崎には川崎の歴史が存在する。

 さて、沖縄では“イシガントウ”と言い、こちらでは“セキカントウ”と呼ぶ。日本で漢字の音と訓とほ統一し、沖縄で和音のイシと漢音のカントウを混合させて、これも日支両属のなごりであろうか。

 私は、“石敢えて当たる”と独り読みしている。ひとつには自然災害にしろ或は暴力や政治的圧力にしろ、敵からの攻撃に対して、これを避けたり、ごまかしたりでなく、堂々と主体的に是と対決する構えが大切である。石敢当の虎の威を外にひけらかすのではなく、内に石敢当の気魄を堅持することこそが、必要なのではあるまいか。

 川崎に文化交流のシンボルとして石敢当が贈られてから数年後、比嘉良篤氏等の肝入りで、時の首相池田勇人邸に石敢当が贈られたが、まもなく池田首相が亡くなられたので、それは青山の比嘉氏の屋敷内に建っているとのことである。

 また、那覇市平和通り突き当たりの三越デパート前に、大きな自然石の石敢当がある。是は厄鬼払いの習俗よりは客寄せのアクセサリーとして役立ち、また沖縄展の景物として、演劇舞台の点景として、或はオフィスの扁額として、現代生活の中に登場している。従来、陰気な禁忌的習俗としての文化的性格から石敢当は明るい文化的、社会的時代感覚を以て迎えられる様になった。

 もうひとつ、石敢当は、自ら物知り顔に沖縄を語り、文化交流を説くことはしない。然し、民衆の側から沖縄を知ろうとする情況を引出す、その沈黙の雄弁を貴しとしたい。

 石敢当の如くに黙って人前に立ち、人々とともに歩もう。

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