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 味探検Notes 東海道B―生麦魚河岸通り toukaidou namamugiitibadouri

生麦魚河岸通りの歴史

[生麦魚河岸通りにある「生麦魚介商組合」事務局からいただいた資料コピーより転載 しました]

1 魚河岸通りの概要    uogasidouri uogashi uogasido-ri
(1)商店街の性格
 京浜急行の花月園前で降りて駅前商店街を鶴見川方面に向かって歩き、第一京浜(国道15号線)を越えると約5分で生麦魚河岸通りに出る。あるいはJR京浜東北線・京浜急行線の鶴見駅で鶴見線に乗り換え国道駅(無人)で降りると、そこが生麦魚河岸通りである。東京駅から国道駅までの距離は22.6キロである。
 横浜市鶴見区生麦5丁目に入るこの通り約300メートルにかけて現在約80店の店舗があるが、そのほとんどが生鮮魚貝類の店かその関連の商品を扱っている店である。
 店舗数は1945年(昭和20年 )頃は160店あったが、1961〜1965年(昭和36〜40年)頃には140店に減少し、最近では年4〜5店の割合で減っている。つまり日本経済の高度成長を契機に構造的な減少期に入り、90年代には約80店となった。敗戦時と比べて半減したことになる。
 魚河岸通りの特徴は、顧客が寿司屋及び小料理店などの飲食店で、業務筋が大半を占めていることである。顧客は地元の横浜、川崎が、多いが、東京方面にもおよんでいる。店によっては神奈川県の小田原、静岡県の熱海方面にまで出向いて行商を行なっているところもある。
 最近テレビなどで一般消費者も利用できる朝市の街として紹介されているが、魚河岸通りの本質は小口卸売専門である。東京ではこの種の専門卸の業態を「チャブ卸し」と呼んでいる。
 午前中の9時をすぎると業者の買物がおおかた終わるので、正午までくらいの1〜2時間は一般の市民も利用できる。素人が買うと 安くて品質が良いので評判は高く、東京などからのまとめ買いの街 としては穴場的な存在である。
 ただし、午後になると店は終わるので、一般市民の日常の利用には必ずしも便利ではない。

(2)街の歴史
 江戸時代、生麦浦は将軍の食べる魚を1カ月に3度ずつ献上し、御用船の曳き船などの役を引き受けるのとひきかえに、江戸湾内で自由に漁業をする権利を認められ、御菜(おさい)八ケ浦のひとつとして湾内漁業をリードしていた。
 生麦漁業の江戸時代における最盛時は17世紀後半から18世紀前半(年号でいうと慶安、万治、寛文、延宝、元禄、宝永、享保、元文、延享、寛延にわたる)にかけてであって、その頃漁師は25軒から43軒に増えていた。
 生麦浦などの御菜八ケ浦は、江戸日本橋の魚問屋から魚具や船に必要な資金の融資を受け、漁獲物はすべて江戸日本橋に送られていた。つまり日本橋の問屋の支配下に入っていたのである。
namamugiura gyogyou
 明治に入ってからも、生麦浦の漁業は御菜八ケ浦の伝統を維持して、東京湾内での中核的な存在であった。「明治3年・生麦村明細帳(池谷健治家文書)」(1870年)によると、当時は家数299戸、人口1810人であり、漁業としては船特120人を数えた。
 しかし、当時から地先の沿岸漁業の限界がみえ出し、すでにノリやカキの養殖が始められ、また出漁場所も湾内全体におよんでいた。
 そしてどちらかといえばノリの養殖の方が順調な経過をたどった。
 生麦の漁業が終わるのは、もちろん第2次大戦後の東京湾一帯の工業化に伴う埋め立て事業の結果である。すなわち生麦の漁業は臨海工業地帯の進歩と歩調をとって、補償金とひきかえに次第に消滅の方向をたどることになる。
 そして、最後に残った漁場であった大黒埠頭および扇島の埋め立て計画が発表されたのが昭和43年(1968年)で、その補償交渉が妥結したのが昭和46年10月(1971年)のことであった。
 ところで生麦漁業の消滅に追い込んだ臨海埋め立て工事の始まりをみると、実に明治44年(1911年)までさかのぼることができる。
 その頃生麦地先から鶴見川河口にいたる埋め立て計画がすでに始まり、大正2年(1913年)に浅野総一郎による潮田地先の大規模な埋め立てが実行された。1 つまり生麦漁業の衰退は何も第2次大戦後のことに属するわけではなく、日本の近代化と共に徐々に進行し、その終焉が1970年代であったということである。
 魚河岸通りの付近には、第1京浜があり、クルマの往来はひきもきらないが、この道はかっての東海道そのものである。また明治維新前夜に内外に衝撃を与えた生麦事件の現場もこの街道そのものであった(現在その記念碑が残されいる)。
 いうまでもなく魚河岸通りの存在は、生麦漁業と不可分のものであり、漁業の喪失はその成立の根拠に動揺を与えたことは歪めない。
 しかし、魚河岸通りの鮮魚卸商が永年にわたり蓄積してきた顧客先、商品処理能力およびその他の経営資源はにわかに消減するものではない。鮮魚の仕入先は中央市場に移ったが、魚河岸通りがもっているノウハウは今も生きて、魚河岸通りを支えるバックボーンになりうるということである。

(3)存在意義
 近代化の波はいわば経済法則であって、伝統的な生産様式や生活様式まで根底から変えてしまうような威力をもっている。しかしながらこの激しい波にさらされながら、変ることなく引き継がれるものもないわけではない。そして周囲のすべてが近代化してしまった中で残された旧いものが、ある日突然まったく新しい存在として浮かび上がってくることがある。
 魚河岸通りが世紀末の今、再び輝き出したのは以上のような歴史のドラマの一幕であるともいえる。そのさい、たとえば庶民の民具であった日常生活用具が、近代化の波の中で突如として民芸として評価されると、たちまち高価な美術品になってしまう 。
 しかし魚河岸通りの場合は、昔のままの良さを保ちながら決して高級化せず、いぜんとして庶民的な値段と雰囲気を保っているところに、その魅力がある。
 伝統的なものが、失われていく中で、昔ながらのものが残されると、その昔を知っている年配者はなつかしがり、昔を知らない若者はそこに新しさを見いだして驚く。魚河岸通りがテレビ作りの若者達によって、本来の性格を勘違いされながら、その価値を見いだされているのは、このような新旧の感覚の微妙なコントラストによるものかも知れない。
 つまりここは、その経済価値よりもむしろ急激に変化する時代の流れの中で奇跡のように残されたいわば「心情空間」であるからかも知れないのである。
 しかしながら魚河岸通りには、見るものの感傷にかかわりなく・経済の論理は冷徹に貫いてゆく。しかしまたその論理に歯止めをかけて、貴重なシステムを伝統として残してゆく努力も人間は忘れてはいない。

魚河岸通りに関するリンク

横浜小景点描20―生麦魚河岸通り―横浜市鶴見区のホームページより

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