○味探検-Notes 絹の道 アメリカザリガニ○食単随筆メモ―米国ルイジアナ州“ケイジャン料理”って何?

 GHQより先に日本を占領した

アメリカザリガニ

ケイジャン料理はザリガニを使ったメニューが多い

ザリガニ兄弟周大人を負かす―茹でてしょう油をつけて食べるのがいちばんだ

 テレビタックルでのという10CHのTV番組で、ゆかいな市井の名人が登場して、女性アナと珍妙な会話をするコーナーがある。

 あるとき、ザリガニ獲りの名人という、いつも酔っ払っているいい歳かっこうの兄弟が、中国料理の周冨徳氏が作るザリガニ料理を食べるという趣向の企画があった。周さんの料理は、ジンをブレンドしたマヨネーズソースで身を取り出したボイルザリガニを食べるというものだったが、ザリガニ兄弟の試食後のひとことが、なんとも傑作だった。

 兄弟のどちらともなく、口に入れるなり、「こんなものつけたら味がわからなくなっちゃうじゃない」と名人を前にいい放ったのだった。

 周氏。おれの料理に何を言うか、と「……」となった顔がテレビにアップで映しだされた。なんとも愉快だった。ザリガニ料理ごときにジンもへったくれもないのであって、カッコつけずに塩茹でにしてかぶりつくのがいちばんうまいのはわかりきったこと。ギャグの意図を読めずに、マジでザリガニ料理の依頼を受けた周氏は、もうその時点で負けていたのであって、テレビの残酷な一面を垣間見たようだった。

 この勝負みごとザリガニ兄弟の一本勝ちとなった。

ザリガニ追しあの頃―田島が原の思い出

 ぼくの小学校時代には、野山の自然はたっぷりとあった。住んでいた浦和市郊外の田島が原や見沼用水や三室の雑木林に分け入り、小川や田の畔の生物たち相手に遊びまくった。

 すでに戦後の食糧難はとうに過ぎていたが、母親から川の生物たちにはジストマがいるからと、絶対に食べてはいけないといわれていた。にもかかわらず、収穫した生物たちを中学校の生物室に持ちこんで、これは食えるか食えないかと仲間と言い合いながら、トノサマガエルやザリガニやジムグリなどをガスバーナーとビーカーでお湯を沸かして、ボイルしてなにもつけずに良く食べたものだった。ぼくたちにとってみれば部カツの実験のつもりだった。

 なかでも、アメリカザリガニとライギョは、美味といえば美味であった。生物室で、塩やしょう油や味噌をどこからか持ってきて食べているという評判がたって、先生から注意されたことがあったが、その先生自体が、荒川の上流部にぼく等を連れて行き、カワゲラやヘビトンボの水棲昆虫たちを採集させながら、「こいつは佃煮にしてみようか」「丸焼き」だとかいいながら、カジカやハヤのうまさを教えてくれたひとだったから、しかられたという記憶はまったく残っていない。生物部の部屋のすぐ外側に相撲の土俵があった。平らな盛り土の上は、いかにも呪術師がまじないをする場所に適切そうであったものだから、土俵(当時相撲をとっているのを見たことがなかった)の真中で実験と称した儀式をこっそりとやっていた。

 花火から取り出した火薬やら、マグネシウムだったかリンだったか(生物室の薬品保管室には生物部員は入ることができた。当時は生徒をちゃんと信用していたのか、管理がルーズだったのか??だが)わずかな量をこっそり燃やしていたときはまだ平気だったが、セルロイドの下敷きを細かく切り刻んでボールペンのサヤに積めこんで一瞬にして燃やすペンロケット発射実験をやったときに、暴発してたいした怪我ではなかったが、病院へ行くはめになって、ことが発覚してしまった。このときには、こっぴどくしかられた。

 でもまあ、当時の学校は鷹揚で寛容な時代だった。生徒も先生にもへんな魔女裁判みたいなことにはならなかった。

 ぼくは、結局生物学者にも、化学者にもならなかった。高校に進学してからの数学の成績がクラスの最下層部に張りついていたからで、数学はけっこう好きだったのに、点数は最悪。担任からは、リカケイ進学は絶望と決めつけられてしまった。必然的にブンカケイに進み、漁業や漁村社会をフィールドに仕事をするようになったのだが、どういうわけか生来の悪食趣味と、海や山のアウトドア指向が少しは役に立ったのかはわからぬが、味探検ライター稼業にセイを出すことになり、現在に至っている。へんな方向にずれたが、アメリカザリガニの話しにもどそう。

アメリカザリガニの日本渡来年はいつ?

 あの赤茶色をして鋏を突き出して威嚇するアメリカザリガニ。子供時代の遊び相手になっていたザリガニに、なぜアメリカがつくのか。

 生物の授業で聞いた「帰化生物」であるぐらいは、だれでも知っているだろう。アメリカから日本に運ばれて、日本原産の?ザリガニを駆逐し、川や沼や畔で我が物顔でのさばってしまった。たぶんぼくが遊んでいた昭和30年代の半ばから後半には、まだ色の違う原産種も混じっていたが、すでにアメリカザリガニがせっけんしていたのだから、それより以前であることは確かである。生物学上のザリガニの知識は、中学以来とくに頭に入れたことはなかったので、その疑問は中断したままだった。

 あるとき、ふと「エビの文化史研究家」酒向昇さんというひとと知り合う機会があり、氏が書いたエビの本を何冊か作るお手伝いをしたことがあった。

 その酒向さん。実は、アメリカザリガニの日本帰化について調べている人でもあったのだった。

 ぼくが、ザリガニのことを面白がって聞くものだから、「そうやってアメリカザリガニに興味を示してくれたのは、きみが初めてだよ。家のもんも、どいつもこいつも有用種のプローンやシュリンプに関心が向けられるが、このザリガニが、GHQより先にニッポンを占領しやがったことなど、なんの意味もないという顔をしやがる」という、好事家どうししか分かり合えない愚痴をこぼしたことがあった。

 「ところでセンセー、日本はGHQより先といいましたが、戦前からこのニッポンはアメリカに占領されていたことになるんですか」と、聞いたことがきっかけとなって、酒向先生からは、ザリガニについて書いた文章をしこたま送ってくれることになったし、今度こういうものをかいたからと、最近になるまでアメリカザリガニの情報を送っていただいている。

 その1つにアメリカのルイジアナ州におけるケイジャンとよばれる人々の大好物というザリガニ料理レシピもあった。もう20年以上前のことである。ぼくは、それ以来、頭の中には、アメリカに行ったらルイジアナ州にいって、本場のザリガニをしこたま食ってみたいと思ってきた。

町田で見つけたアメリカザリガニのオムレツ―ケイジャン料理との出会い

 だから、町田のメーンストリートで、ケイジャン料理とザリガニ=クローフィッシュに出会ったときには、ほんとうに驚きであった。喜び勇んで、開店前のしこみ中の店主に、取材を申し込み「ザリガニが食いたい」と頼んだのであった。【味探検「ラファイエット」アメリカザリガニを使ったケイジャン料理を食す

 酒向さんからいただいた資料を、押入れの中から引っ張り出してみたが、ザリガニの渡来年についての文章が見当たらず、お手紙を出したら送っていただいたので、全文以下に掲載しておく。

 さらに、氏のアメリカザリガニの未刊の文章(改訂版を出すつもりで書いていただきながら、改定されずに終わったことがあったのだ。)が出てきたので、それも、氏へのお詫びとお礼を兼ねて、若干整理を加えてこんど掲載することにしよう。(以下続く)

酒向昇さんの「食用蛙とアメリカザリガニ―その渡来年をめぐって」(1987)こちら

なんと「アメリカザリガニ」の専門サイトを見つけた⇒    

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