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MANABOOK NEWS LETTER


MANABOOKの刊行予定や、発行本の書評掲載の紹介、あるいは編集子の編集ノートを適宜まとめたものです。MANAの本の内容について、関心を持たれて、詳細を知りたいというかたは、お読みください。

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第1号(2000年1月)第2号|第3号(2001年5月) 第4号(2002年9月)     

第2号 2000年5月  〔海の『守り人』論〕書評一覧  

1996年8月に刊行した浜本幸生監修・著「海の『守り人』論―徹底検証・漁業権と地先権」の新聞、雑誌における書評、記事から主なものを、全文を転載した。順番は順不同。

――なお掲載文中、執筆者のある原稿にリンクさせた注釈・解説は、すべてHPオーナーによるものであることをおことわりしておきます。――


も く じ

「総有説」の初公開も(水産経済新聞)

再び沿岸の時代到来(沖縄タイムス)……上原政幸

みんなの海、カギ握る漁業権と地先権熊本日日新聞・社説)

「海の『守り人』論」を読んで(月刊漁協経営)……佐竹五六

漁師は海の守り人(月刊漁協経営)……田尾直之

“陸上社会”の視点訴え(琉球新報)……宇井 純

書評 海の『守り人』論(水産の研究)……秋道智彌

書評 海の『守り人』論(漁業経済研究)……小沼 勇

川や海と人間のゆるやかなかかわり(月刊オルタ)……宮内泰介

批評と紹介 『海の『守り人』論』……長谷成人


 

「水産経済新聞」(新刊紹介)1996年9月

 

「総有説」の初公開も  

  浜本幸生氏は水産庁時代に漁業法専門担当官として、沿岸課長補佐、遊漁調整指導室長など歴任。退官後も全漁連検討委員などを務めた漁業法の専門家。

 「海はいったいだれのものなのだろうか?」をテーマに、「だれのものでもない、みんなのもの」としての海を、「漁業権」や「入会権」の詳細な検討にまで踏み込み、解説を試みている。

さらに、熊本一規明治学院大学国際学部助教授、水口憲哉東京水産大学資源維持研究室助教授、ネイチャー・サイエンスライターのケビン・ショート氏らと対談、漁業権をもっと生かそうとする考え方を模索している。

 また、「民法の神様」とも呼ばれた、故我妻栄東京大学名誉教授が、漁業補償金の配分をめぐる訴訟事件に際し、裁判所に提出した「鑑定書」を掲載。「共同漁業権が水産業協同組合法に規定された漁業協同組合に帰属する関係は、漁協の構成員が各自漁業を営み、漁協はその漁業権を管理するという関係にある」という、「総有説」を初公開。  

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「沖縄タイムス」(書評)1996年9月17日

 

再び沿岸の時代到来 上原政幸(「魚(いゆ)まち」発行者)

   日本の漁業の歴史は沿岸から沖合、遠洋へと漁場を拡大してきた。遠洋漁業は資源を根こそぎにする略奪漁業などとも呼ばれ、海外から批判されてきた経緯もある。「遠洋」とは、他国からは自国の「沿岸」であるケースがほとんどだった。200カイリ時代の定着とともに、日本漁業はますます世界の漁場から締め出され、再び沿岸の時代が到来したと言われている。しかし、肝心の沿岸漁業は、漁場破壊、資源減少、高齢化などで元気がない。本書は「漁業権」という権利の性格をさまざまな角度から徹底検証することによって、沿岸漁業の存続発展の道筋を描いている。

 浜本幸生氏は、水産庁時漁業法の専門担当官で、漁業権問題のスペシャリスト。「漁業権は物権とみなす」という漁業法第23条の規定により、漁業権は民法上の物権としての取り扱いを受ける。そのことは「妨害排除請求権」「妨害予防請求権」という物権的請求権を持つことを意味する。赤土汚染で不安にさらされている沖縄のウミンチュたちにとって、この権利を生かすことは十分できそうだ。モズク養殖漁場、定置網漁場への赤土流出のおそれがある開発工事に対しての、 妨害予防を請求する権利などは十分力を発揮するのではないか。

 事例リポートで上田不二夫氏が指摘しているように、沖縄では漁業権についての認識が低く、水産団体も専門家を育てていない。「漁業権」によって沖縄の山・川・海の環境破壊を食い止めようという水産側からの声はほとんど聞こえてこない。

 浜本氏が展開する地先権の論理は、宮古島での漁協とダイビング業者との受忍料をめぐる対立問題を読み解く一つの視座を与えてくれよう。

 「漁業権を『生かす』というのは、漁場に対して、『子守り』をするときの子供への対しかたと同じようなことをす ること」という水口憲哉氏の言葉は、「生態学的産業」としての漁業の思想と未来を示している。  

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 「熊本日日新聞」(社説)1996年10月11日   

みんなの海、カギ握る漁業権と地先権

   気候のいい秋は海釣りのシーズンである。釣りの対象魚種も多いし、旬を迎える魚も増える。10月10日は「トト」の語路合わせで「釣りの日」。港や堤防は家族連れでにぎわった。

 ところで海はいったいだれのものなのだろうか。「海の日」(7月20日)が、今年から国民の祝日となったように海への関心は高まっている。一方で海の“使用”をめぐって遊漁者やダイバーと漁業者の間のトラブルは年々多くなっている。その背景には、この素朴な疑問に対する考えが人によってまちまちで、きちんとした答えが普及していないことがある。

 長年、水産庁で漁業法を研究してきた浜本幸生さんの海に対する考えは明快だ。「大宝律令」(701年)に見える「山川薮沢(さんせんそうたく)の利は、公私これを共にす」以来、「漁業自由、水面使用自由」の原則が今も生きているという。最高裁も「海は古来より自然のままで、一般公衆の共同使用に供されてきた公共用物である」という判断を示している。

 簡単にいえば土地所有のように、海水面を排他的に支配する権利は存在しない。つまり海は「みんなのもの」なのだ。しかし、江戸時代に「磯(いそ)は地付き、沖は入会」という慣習が確立。漁業を独占的に営む権利が保護された。この慣習は明治時代にできた旧漁業法の中で漁業権として位置付けられ、昭和24年に新しく制定された漁業法では一本釣りやはえ縄などが共同漁業権から外されたものの、その趣旨は現在も受け継がれている。

 浜本さんはさらに、漁村の地先の浜や磯には「地先権」という、聞きなれないが、法律と同様の効力を持つ権利があるという。例えばアワビやワカメなどには禁漁期間を設けるなど、磯は漁村の約束ごとで管理されている。今ふうに言えば海の資源を持続可能ならしめるために漁民は努力してきたのだ。その結果として現在の海があるのであり、地先権はそうした考えに基づく漁民の権利だという。

 最近、浜本さんを中心に漁業権の研究者らによって出版された「海の『守り人』論」―漁業権と地先権」(まな出版企画発行)の中で、浜本さんらは漁業権と地先権という1200年前からある二つの権利をあらためてとらえ直すことが、海を守り育てるキーポイントと指摘している。

 「みんなの海」をより多くの人が利用できるようにし、将来に引き継いでいくためにはどうしたらいいのか。そこで漁民や漁協、遊漁者、行政が、それぞれどんな役割を果たすことができるのか。本気で考え、話し合わねばならない時期がきているといえる。

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「月刊漁協経営」漁協経営センター・1996年10月号掲載

 

「海の『守り人』論」を読んで   佐竹五六(元水産庁長官)

  〈T〉

 本書は、水産庁において多年漁業権に係わる業務に従事された浜本幸生氏の論文、「浜本幸生の漁業権教室」及びその主張を法律学の立場から裏打ちする現代民法解釈学の最高権威――現在のわが国の法律学者法曹実務家でこの表現に異論を唱える者はいないであろう――故我妻栄氏の漁業権の法的性格に関する鑑定書を軸に、浜の現場における漁業権をめぐる社会的紛争の実態とその機能に関する三編の事例レポート、さらに、広義の漁業権の社会的機能を立体的に浮かび上がらせようとした野心的な書物である。

 したがって、本書は、現在わが国の沿岸漁業乃至漁村に関心を持つさまざまな立場の人々に対し、興味ある情報を提供しているが、何よりも浜で、ゴルフ場開発や心なきダイバーによって悩まされている漁民の指導に当たっている漁協関係者の実践に理論的武器を与えることを狙ったものであろう。

 ただし、そのような観点からすると、 「第2編」及び「あとがきにかえて」はそれ自体として興味のある数々の論点を提供するものであるが、別個の書物として編集されるべきであったかもしれない。問題の複雑さを示すものともいえるが、対談者の発言中にはかえって読者を混乱させるような表現や、法律学者から揚げ足をとられかねない表現が散見されるからである。

 

  〈U〉

 1960年代から70年代にかけて沿岸海域の埋め立てブームに引き続き、80年代は遊漁、ダイビング等マリンレジャーの場として沿岸海域が注目される。

 この間、沿岸海域の利用をめぐってさまざまな社会的紛争が発生していたが、評者もその責めを負うべき一人であるが、水産庁は、このような紛争に対し、漁業法・水協法に関連する事項につき問われれば応えるという以上の積極的な介入はしなかったといってよいであろう。そのような姿勢は、農業水利権をめぐる紛争に構造改善局がとった姿勢と一致している。

 その理由は、この間二度にわたるオイルショックとこれに伴う経営対策、200海里問題への対応に忙殺されていたということもあるが、本書が指摘するように、「漁民がいう『漁業権』と『漁業法の漁業権』とは違う」(75頁)ことに由来するところが大きい。

 具体的にいえば、水産庁は漁業法等の施行に必要な限りでしか、沿岸海域に権限を有していないものとして対外的にふるまったが、沿岸の漁民の昔からの意識は少しも変わらず、前浜は「われわれの海」だと思っていたのである(56頁、140頁)。そして水産庁からいえば「漁業権への誤解」ということになるが(13〜16頁)、社会もこれを認めていたということではなかろうか(113頁)。

 この辺の文章の論理は、全く白紙で読む者にとっては必ずしもわかりやすくないと思う。筆者の勝手な推測になるが、浜本氏には水産庁が漁民の意識に忠実に対外的にも毅然として発言すべきだったのではないか、という苦い想いがあるのではないか。筆者もそのような選択もあり得たし、それが農山漁民の農水省に対する信頼をつなぐ所以ではなかったか、という悔恨もあることは事実である。

 しかしながら、農業水利権についても同様であったが、消極的権限争いの観点からあえてそのようなリスキーな途を組織として選ばなかった以上、組織内の一員であったものとして、このような姿勢を公然と批判することはできない。リスクを冒さないものに発言権はない。このような現実に対する屈折した想いから文章が全体の論理としてわかりにくくなっているのではなかろうか。

 このような水産庁の姿勢と沿岸漁民の意識のギャップが何故生じたかについては、「わたしの説では、漁業権は本来もっと強い『所持する権利』であったものです。しかし、それが近代法のなかで「漁業を排他的に営む権利」と いうようにわい小化され『弱い権利』になってしまった」(18頁)からであると氏は説明する。また水産庁のとった姿勢に対する遠慮からか、諸悪の根源は民法にある(208頁)としているが、客観的にみてこれは明治漁業法の問題であり、それは、またそれなりに理由があったと評価すべきであろう。

 即ち、明治漁業法が旧慣に基づく「一村専用漁場」の近代法的構成を海面の所有権ないし支配権としてでなく、単に地先水面の漁業を営む権利である地先水面の「専用漁業権」と構成した理由は、海面総合利用による漁業生産力の発展という政策意図があったからではないのか。

 すなわち、漁業法体系において「漁業を排他的に営む権利」というようにわい小化されたのは、「わが国の沿岸漁業権の範囲と内容は明治以来各地で多くの紛争を生じ、しばしば地元漁民の力関係で決着して、合理性を欠くものが多かったので、これを全体的計画の下に合理的に調整するために、従来の慣行を一応ご破算にするという根本方針を樹立したものである。従って、新たな漁業権を設定するとは、主として、各漁村部落に帰属する共同漁業権の範囲と内容についていうのであって、その漁業権の性格についていうのではない。」(我妻栄鑑定書388頁)のであるから、漁業内部の効力としては、「わい小化」され「弱い権利」として構成されていても、漁業外からの漁場の侵害に対しては、水産庁自身が旧来の強い権利を主張すべきであったということにならないであろうか。

 このような実定漁業法の共同漁業権の規定と漁民の意識とのギャップを埋めるためには、以上我妻鑑定書に述べられているごとく、明治漁業法、漁業制度改革、昭和37年改正を通じて、漁業法第1条にいう「海面の総合利用による漁業生産力の発展」のため、旧慣に基づく「海の入会権」(210頁)である漁業権に必要最小限の修正を加えたと理解すべきであろう。(213〜218頁、「我妻鑑定書」388頁)

 このような法律構成(実際に漁協と漁民との間を規律しているルールと漁業法との間を矛盾のないよう説明するための法律的な理屈付け)は、浜本氏が各地の漁業補償の実例を丹念に調査した結果から得られた漁協と漁民との関係の実態を我妻先生が一般的な理論として構成されたものであった(350〜356頁)。

 にもかかわらず、平成元年7月13日の最高裁判決は、このような法律構成を全面的に否定する(369頁)。この判決は、直接的には漁業権放棄の有効性をめぐって争われた事件であるが、その論旨どおりに漁業法を運用すれば、漁業補償をめぐって大混乱(379、380頁)が生ずるのみならず、水産庁が現に進めている漁協の合併にも支障を生ずるおそれがある。これらの諸点については、平成5年4月の漁協合併助成法の一部改正により解決され、当面問題は生じないこととなった(31〜44頁)。

 しかしながら、最高裁判決が「このような制度のもとにおける共同漁業権は、古来の入会漁業権とはその性質を全く異にするものであって……」と判示したところから、漁協が現に事実上行使している旧慣に基づく「海の入会権」である漁業権の存在を否定したと解さざるを得ないであろう。したがって、現場の漁民の「われわれの海」という法意識と最高裁が判決を通して確定した法秩序との間に大きなギャップを生ずることになった。このことは、マリンレジャーへの参入を目指す企業、あるいは、それを楽しむ一般市民の沿岸海域への関心が高まっている折から、現場で大きな混乱を引き起こす危険性が高い。

 このような危機意識から本書は公刊されたと考えるが、その意図を高く評価したい。

 

  〈V〉

 そもそも、法や権利といった観念には二つの側面がある。一つは、国や地方公共団体によって法令として一定の手続きを経て制定された実定成文法としての側面であり、最終的にその意味内容は訴訟手続き等を通じて裁判官によって確定される。もう一つは、現実に我々のさまざまな社会的行動を規律している客観的な社会的ルールとしての側面である。

 前者は、その意味内容が最終的に裁判官の判断に係わっているという意味において浮動する主観的存在であるのに対し、後者は現実に多くの人々の行動を規律している社会的ルールとして現実に機能しているという意味において客観的存在である。

 漁業権乃至漁業法についても同様であって、法の適用・実現を図る裁判官は、社会秩序を維持するため常に両者のかい離が生じないよう法例2条の活用はもとより、民法・漁業法等の実定法の解釈と適用に努めなければならない。また、行政官は同様の見地から法の執行に当たると同時に、両者のかい離が著しく社会生活に混乱を生ずるおそれがある場合には、新たな立法措置を構ずべきであろう。

 しかしながら、わが国の大部分の法律実務家――判・検事・弁護士を中心とする司法関係者、国家公務員試験上級法律職合格者を中心とした法令担当行政官、企業の法務担当者――は、すべて前者の意味の法学教育しか受けていないのである。したがって、ビジネスの必要性が実定法に優先する商事分野、あるいは市民の権利意識の向上とともに社会的紛争が激化し、実定法の不備が目立つ環境問題の分野に関心の深い法律実務家、あるいは学者は別として、一般の法律実務家は法社会学的意味における権利と実定法上の権利とのかい離などという問題意識は全くないといって過言ではないであろう。

 さらに、法律実務家の大半が少年時代より都会で生活しているか、農山漁村で生活したとしても生産の現場から切り離された生活を送っている1970年代以降の状況の下では、これらの人々が社会的ルールに関する情報をほとんど持っていないとしても不思議はないであろう。であるがゆえに、先の最高裁判決は重い意味を持つのである。

 あえていえば、最高裁判決自身このような問題意識の欠落と情報の不足から生まれたものであろう。

 その結果、どのような事態が予想され、現場の指導者はいかに対応すべきであろうか。

 第1編事例レポートは、このような意図から編集されたものと思うが、事例C、D以外は、事例の取り上げ方が必ずしも適切でないように思う。取り上げられた事例そのものは、いずれも興味ある情報を提供してくれるが、事例@〜Bは最高裁判決とは直接関係のない問題――差し止め請求が裁判でどこまで認められるか、という環境訴訟上の大問題に係わっているが――であるし、事例Eについては沖縄の沿岸漁業について不勉強である評者には判断できない。

 問題は、事例C、Dであり、今後各地で類似の紛争が生ずることが予想される。このレポートは、静岡地裁沼津支部判決をやや過大に評価している点を除けば、要領よく現状をレポートし、法律的見地からも詰められているが、末尾の提案(171頁)はいずれも実現が難しいであろう。ただし、「現実に存在すると考えられる『一村専用漁場』の慣習にのっとった法令等整備する」という提案は、大変魅力的であり、困難は予想されるが全く実現の可能性のない問題ではない。

 

  〈W〉

 この課題に対し、浜本氏は、「漁協が、非漁民の遊漁者やマリンレクリエーションの人たちに対するとき」、「漁業法やへんな解説書は読まない方がよい」とされる、と本書は伝えている(182頁)。確かに、実定法上の共同漁業権は、平成5年8月30日付の漁政部長・振興部長連名通達以上のものではないのであるから、これを漁協によるマリンレジャーの管理の根拠として主張すれば、多少とも法律学を勉強した者なら、「漁業法をどう読んでもそんなことが漁協にできるという解釈はでてこない」と反撃されることは必定であり、都道府県の担当官も、水産庁もその反論が正しいといわざるを得ないであろう。(73頁、221頁)

 これに対し、氏は、「地先水面を『われわれの海』と呼んで、地元の漁協等がその水面の利用を管理調整する『地先権』の慣習は、漁民は明確に自覚していない面がありますが、各地の漁村にあまねく存在して」いる(174頁)から、この「地先権」を根拠とせよと提案している。

 この提案を、評者流に理解すれば、「何故、漁協が勝手にきめたルールに従わなくてはならないのか。」とダイバーから反論されたら、「それがこの浜の昔からのキマリだ。ダイバーは最近やってくるようになったから、料金徴収等に関する規定は新しいが、他所の漁師がこの浜にやってきて釣りやさし網をやる時は、昔からここの漁協の承諾と庭先料の支払いが必要であった。地元の漁師も同様に、地先の水面を利用する時は、組合に一定の水面使用料を支払っている。そのような金はすべて漁協を経由して集落で積み立て、道路や橋の維持補修や海難救助費用の一部に充当している。」のごとく応答せよということになるのであろう。(74頁)

 そして、氏の主張するもっとも大事な部分は、「地先権」は前浜の管理をする義務を伴うとされていることである(344〜345頁)。すなわち、「『われわれの海』というと、どうしても義務のほうがお留守になってしまいがちです。地先権という場合は、権利主張と内実が必要になるという点にポイントがあるといえましょう。」(345頁)と警告されている。

 つまり、誰がみても、その浜乃至地先の海は漁協乃至集落が管理しているという社会的な実態が形成され、外部の入々からも容易に認識――日をきめた清掃、危険な箇所の標識による告示等――されるようになっていることが大切なのであろう。

 ここで、評者として強調したいことは、浜本氏は現場の指導者の実践的指針として、このような主張をされていることである。実践的指針として主張される以上、その内容が客観的に公平な立場に立つと世間から思われている人々、すなわち、自治体の行政関係者――水産行政関係者にとどまらず県庁でいえば地方課系統の人々はもとより、究極的には裁判官にも通用するものでなければならないのである。現場に対する実践的指針としては現に存在する最高裁判決を前提としても、なお、行政関係者や裁判官を説得し得る事実と論理を準備する必要があると思うのである。そして、氏が提言するように、漁協乃至集落が地先の海を管理――その内実は、昔からやってきたことを現代の経済社会情勢の変化に対応させながら維持継続すること――の実態を維持するならば成熟した社会常識と一定水準以上の法律技術をもった裁判官は、「地先権」という法概念を活用するか否かは別として、実質的にその存在を認めたと同様な法的保護を裁判の過程において認めることが相当な蓋然性をもって期待できるであろう。

 何故ならば、漁協乃至漁業集落が今日の社会的要請に即した管理を実施するならば、一般市民からの積極的評価が期待できるであろう。

 換言すれば、前浜の利用と管理について外部の一般市民も認める一定の社会的ルールが形成されるのである(342〜344頁)。前浜の利用と管理に関し、地元の漁協乃至集落と第三者との間に紛争が生じた場合、地元の漁協乃至集落の管理を否定することは、一般市民も評価する社会的ルール=社会秩序の崩壊に連なり、混乱を生ずることは必定である。訴訟の過程において、このことを立証することはそれほど難しいことではなかろう。

 逆に、このような管理の実態をもたない漁協や漁業集落が前浜の利用と管理について第三者と紛争を生じ、訴訟となった場合、漁協乃至漁業集落が「地先権」を持ち出してもまず裁判官が認めるところとはならないであろう。

 以上のような意味において、本書における浜本氏の論旨は、現場第一線の指導者の実践的指導指針たりうると考える次第である。

 

  〈X〉

 したがって、漁業権の放棄とそれに対する補償金の配分問題を別とすれば、現場指導者は、漁業権の法理論にあまり心を煩わす必要はないのではなかろうか。それよりも、従来からやってきた前浜の管理を時代の要請に適応させるため、さまざまな機会に市民との対話を重ね意志の疎通を図り、その成果を管 理に反映せしめることが大切であろう。

 漁協の日々の実践と運動こそ、「地先権」を社会的に定着せしめる唯一最良の手段であろう。

 このことは、入会権に関する民法学者の多年の研究により構築された理論――入会権は、その内容が時代とともに変化したとしても入会集団による管理利用の事実があるかぎり消滅することはない――とも一致するものである。

 本書が現場指導者の指導指針として活用されるとともに、本書を素材として、民法、行政法、環境法等の研究者及弁護士等の法曹実務家が、さらに議論を深め、裁判官、水産庁以外の他の関係省庁の行政官にも通用する理論が構築されることを期待したい。

 更に現場指導者に実践的指針を示すためには、本書で取り上げられた旧慣に基づく漁業権以外にも、例えば、日本土地法学会1992年シンポジウム「漁業権」で取り上げられた諸問題等につき漁業サイドからの法律的見解をまとめることが必要であろう。そのためには、民法、漁業法だけでなく行政法、環境法等より多面的なアプローチが試みられるべきであろう。

 それにつけても、オイルショック、200海里問題など焦眉の急を要する問題への対応に水産庁をあげて追われていた状況下で、沿岸漁民の最も関心の深いこの問題について、コツコツと研鑚を積まれ、その成果を後学者のためにまとめられた浜本氏に対し心から敬意を表し結びとする。  

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「月刊漁協経営」(漁協経営センター)1996年12月号

 

漁師は海の守り人  田尾直之同誌編集部

 先日テレビを見ていたら、日航か全日空かは忘れたが、スチューワデスの組合が、自分達の呼び名をスチューワデスでなくフライトアテンダントと呼ぶように改めてくれと経営者側と交渉して認められたというニュースがあった。何んでも、スチューワデスという英語には豚小屋の番人という意味が含まれており、彼女たちのイメージダウンに連がるためというのがその理由のようだ。

 スチューワデスのことはともかく、これに関連した言葉で、スチューワードシップという言葉は日本語で何んというのか、実は本誌6月号に掲載した。BCコロンビア大学のジョン・スプロール先生の「環境にやさしい漁業と21世紀のマーケット」という論文の中で、マリン・スチューワードシップ・カウンシルという用語が出て来たので、何んと訳すべきか迷ったことがあったので関心をもったわけだ。この時は「海洋監視委員会」と訳しておいたが、その後これらの背景を良く理解させてくれる本が出版された。「海の『守り人』論」(まな出版企画)という本だ。

 著者は、ご存じ浜本幸生はじめ本誌でおなじみの熊本一規・水口憲哉・中島満・田中克哲・上田不二夫・ケビン・ショートなどの諸先生だ。

 本書については、本誌10月号で元水産庁長官の佐竹五六さんが「浜の現場における漁業権をめぐる社会的紛争の実態とその機能に関する三編の事例レポート、さらに、広義の漁業権の社会的機能を立体的に浮び上がらせようとした野心的な書物である」と評したが全く同感で、われ々漁脇や海の問題に関心のある者にとって必読の書であると同時に、実に様々の事を考えさせられる。

 その中の一つ、この本のタイトルとなった「漁師は海の守り人だ」という章の浜本先生とケビン・ショートさんの対談は非常に面白いが、この中でエンバーロメンタル・スチューワードシップという言葉が出て来る。自然環境の管理という発想で、すでに「森番」と訳されているそうだ。ケビンさんは、欧米の資源管理思想と日本のそれとの根本的な相異として、欧米では、海の資源については、すべての人が平等の権利をもっているが、日本のシステムは沿岸域に住んでいる人、漁師が前浜の優先的権利をもっている点を指摘したうえで、欧米の場合、上からきっちりと管理しないとすぐ無秩序な乱獲につながる。アメリカでは、水産資源を管理するために何十人もの生物学者をおいているほか狩猟管理局とか沿岸警備隊とか、ものすごく多くの税金を使っている。これに対し日本では漁民たちが適切な規制を作り、地先の海を守ってきたと、漁協の漁業権管理システムを高く評価している。

 しかし、工業立地、港湾との関係や、レクーリエーションの場としての沿岸海域の利用の拡大、さらには水産資源ばかりでなく干潟とか、湿地とか尾瀬など、そこに棲む生物資源の保護という沿岸域管理というような観点から、漁業権の現代的意味を再検討するべきだと提言している。そして漁業権を生かした独自のシステムをつくれるのではないかと言っている。

 これに対し浜本先生は、漁業権の法的な意味を歴史的に考察した上で、ダイバーや遊漁者を締め出す法令はないのだから、部落総有の地先権を主張せよと提案し、このような形でダイバーなどと水面利用料を取るなどの措置を取っている例を紹介している。

 この見解は、法理論的に言えばそうなるのかと理解できるが、漁協サイドから言えば、いま一つストンと落ちないのではなかろうか。漁協としては、年間90日以上漁業を営むものを組合員資格ありと認め、これらの漁民に漁業権を行使させ、漁業料を徴収したり、浅海増殖負担金を取って資源の維持管理に努めているのに、何故漁業権をテコに相手と交渉できないのかと言うだろう。もっと漁業を業として海を利用するものと、レジャーとして利用する者との権利、義務を法律で明確にして、取り締りを強化しなければ、漁民の力だけで自分たちが「海の守り人」だとは言えないと主張するのではなかろうか。誌でおなじみの熊本一規・水口憲哉・中島満・田中克哲・上田不二夫・ケビン・ショートなどの諸先生だ。

 本書については、本誌10月号で元水産庁長官の佐竹五六さんが「浜の現場における漁業権をめぐる社会的紛争の実態とその機能に関する三編の事例レポート、さらに、広義の漁業権の社会的機能を立体的に浮び上がらせようとした野心的な書物である」と評したが全く同感で、われ々漁脇や海の問題に関心のある者にとって必読の書であると同時に、実に様々の事を考えさせられる。

 その中の一つ、この本のタイトルとなった「漁師は海の守り人だ」という章の浜本先生とケビン・ショートさんの対談は非常に面白いが、この中でエンバーロメンタル・スチューワードシップという言葉が出て来る。自然環境の管理という発想で、すでに「森番」と訳されている

そうだ。ケビンさんは、欧米の資源管理思想と日本のそれとの根本的な相異として、欧米では、海の資源については、すべての人が平等の権利をもっているが、日本のシステムは沿岸域に住んでいる人、漁師が前浜の優先的権利をもっている点を指摘したうえで、欧米の場合、上からきっちりと管理しないとすぐ無秩序な乱獲につながる。アメリカでは、水産資源を管理するために何十人もの生物学者をおいているほか狩猟管理局とか沿岸警備隊とか、ものすごく多くの税金を使っている。これに対し日本では漁民たちが適切な規制を作り、地先の海を守ってきたと、漁協の漁業権管理システムを高く評価している。

 しかし、工業立地、港湾との関係や、レクーリエーションの場としての沿岸海域の利用の拡大、さらには水産資源ばかりでなく干潟とか、湿地とか尾瀬など、そこに棲む生物資源の保護という沿岸域管理というような観点から、漁業権の現代的意味を再検討するべきだと提言している。そして漁業権を生かした独自のシステムをつくれるのではないかと言っている。

 これに対し浜本先生は、漁業権の法的な意味を歴史的に考察した上で、ダイバーや遊漁者を締め出す法令はないのだから、部落総有の地先権を主張せよと提案し、このような形でダイバーなどと水面利用料を取るなどの措置を取っている例を紹介している。

 この見解は、法理論的に言えばそうなるのかと理解できるが、漁協サイドから言えば、いま一つストンと落ちないのではなかろうか。漁協としては、年間90日以上漁業を営むものを組合員資格ありと認め、これらの漁民に漁業権を行使させ、漁業料を徴収したり、浅海増殖負担金を取って資源の維持管理に努めているのに、何故漁業権をテコに相手と交渉できないのかと言うだろう。もっと漁業を業として海を利用するものと、レジャーとして利用する者との権利、義務を法律で明確にして、取り締りを強化しなければ、漁民の力だけで自分たちが「海の守り人」だとは言えないと主張するのではなかろうか。

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「琉球新報」(「読書」)1996年12月27日

 

“陸上社会”の視点訴え   宇井純(沖縄大学教授)

 「海によって生かされているところがかくも大きいのに、海について知ろうとしない民族もまためずらしいのではないか」と柳田国男が日本人について嘆いたのは半世紀近く前だが、それ以来事態があまり改善されたとも見えない。沖縄県のように全域が海にとりまかれている地域でも、新石垣空港の立地をめぐる論争の中で感じたことは、一般の県民の海への関心がさほど高くないとであった。漁業者の側も、石垣漁協の漁業権放棄に至る経過を見ても、漁業権を切り売りできる物のような扱いをしてきたが、これは誤解にもとづく行為であることが、浜本幸生編「海の『守り人』論」を読むとわかる。漁業権は土地のように海面を所有する権利ではなく、海面の漁業や養殖を保護する権利なので、本来切り売りはできない性質をもっている。補償の対象となるのは、むしろ慣習にもとづく権利としての地先入漁権、海の入会権として理解するのが妥当であると説明している。漁民の権利がはっきりしているところでは、この二つの権利は区別されているが、上記のような誤解が地域住民にも漁業者にも根強く残っているところが多い。沖縄もその一つで、ビーチの私有化が多いことも漁業者の力の弱さを示している。他方でダイバーに対して漁業権侵害を理由に迷惑料を要求するような事態が起こっているのも、漁業権の誤解にもとく紛争であるとみられる。

 見方を変えれば、沖縄のサンゴ礁の生産性がきわめて高いために、それを利用している地先漁民の間でも、海の生態系が権利によって保護されなければ維持できないという意識はほとんどなかったとも言えよう。この本では漁民を職業的な海の保護者と位置づけて、漁業権もまた資源保護のための権利として陸上社会がそれを尊重し、育ててゆくことを提案しているが、漁民の地位が不安定な沖縄には特に適切な助言である。とりわけ陸上の工事によって流出する土砂のサンゴ礁に与える非可逆的な化学毒性が明らかになった今日、沿岸保全に努力をしなければならないのはむしろ陸上の社会であると考えさせられる。

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「水産の研究」(緑書房)1997年Vol.16・1(通巻86)

 

書評  海の『守り人』論   秋道智彌(国立民族学博物館教授)

 海の『守り人』論。海の「MORIBITO=モリビト」と読む。海に生きる人々の横顔が浮かぶ魅力的なタイトルである。だが本書は、海のロマンを語る男たちについての評論ではけっしてない。副題にある漁業権や地先権という用語から想像されるように、漁業権をめぐる法律の問題から、海を守ることの現代的意義とその主体となる漁民について論じた刺激的な書なのである。海の法律書と聞くと難しいという印象をもつが、本は読みやすく構成されている。

 第一編は編著者の浜本幸生氏による漁業権の解説講座と、中島満、田中克哲、上田不二夫各氏による漁業権をめぐる問題についての事例報告からなる。テキスト風にいえば、この部分は入門編プラス応用編といえる。この部分を読み終えると、おそらく多くの読者は、日本の漁業権についての理解や解釈がいかに不十分かつ誤りにみちたものであったかを思い知らされる。私自身も浜本氏の語りから自らの浅学を恥じ、そして多くを学んだ。

 第二編では漁業権をめぐる現代的な課題が、浜本氏と熊本一規、ケビン・ショート、水口憲哉各氏との対談として展開される。入会権、共有の思想、持続的開発論、総有、資源管理の制度と思想、守り人思想、地先権、漁業調整の意味、資源管理型漁業。いずれも現代の国内外における漁業問題を考察する上でのキーワードである。文献などを参照していない対話形式なので私自身はやや不満であるが、読みやすく本書の中心部分をなす。

 第三編は、本書が法律に関する専門書であることのいわば自己申告となる部分である。具体的には、昭和41年「大阪府泉大津市漁業協同組合で臨海工業地帯造成事業にともなう補償金の配分をめぐる訴訟が起こったさい、原告弁護士の依頼により東京大学名誉教授で法学者の我妻栄氏が提出した鑑定書とその解説が本編の骨格をなす。

 以上が本書の構成である。それでは、本書の意義はどのあたりにあるのだろう。漁業権を社員権説ではなく、総有説の立場から論じた点がまず第一に評価できるだろう。だが、総有制の法学的な意義を指摘し、強調するだけではなんとももったいない気がする。

 海はだれのものか。そしてだれがどこまで管理するのか。現在、地球レベルで環境や資源の問題が議論されている。一方、村落レベルにおける水産資源の自主的な管理とその可能性が注目されている。両者に共通する議論の核心は間違いなく漁業権にある。しかも、漁業権に関する日本のモデルは世界的にも注目されている。こうした状態で本書の議論は国内のみならず、国際的にも重要な問題提起となっている。これが第二のポイント。

 三つ目は、やはり海の守り人の問題である。本書のあとがきで水口氏は、監視や観察とともに「子守り」の意味をもつ「ウオッチ」という用語にふれ、海を守ることの意義を提起している。漁業権が法律用語の解釈論ではなく、人間の生き方、 生きざまの問題として提示されているのである。

 私はこの点に本書のもつ大きなそして深い意義を感じた。

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「漁業経済研究」(漁業経済学会編)1997年6月(第42巻1号)

 

書  評     小沼 勇

1.本書の歴史的背景  2.本書の構成  3.漁業権の本質に迫る  4.地先権(仮称)という浜本説 . 結び 若干の所見

1.本書の歴史的背景  

 この漁業権に関する研究を浜本氏が世に出されたことは極めて今日的に重要な意味をもつものと考えられる。と言うのも、戦後の漁業制度改革によって新漁業法が施行されほぼ半世紀になろうとしており、その間社会経済の状況も激しく変化してきているからである。漁業自体も沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へと大きく発展して行ったものの200海里時代に入ってからは逆に比喩的に言えば遠洋から沖合へ、沖合から沿岸へと戻ってくることとなる。しかしもっと大きな時代の動きは日本の経済社会の発展が復興から成長へ、そして高度の成長、バブル、バブルの崩かいへと展開していく。

そのような中でこれまでは考えられなかった多様なレジャーのブームが到来する。それは海の場合も例外ではない、従来の遊漁、海水浴はもとより、ヨット、ダイビングなどさまざまな海を利用した遊びが急激に増えていくようになった。

そこで今まで生産の場として漁業者が使用してきた地先の漁場、つまり海に対して「一体海は誰のものか」という論議が登場してくる。制度改革の当時は 予想もできなかったことであろう。そしてここに「漁業権」とは何ぞや、その性格が改めて問われるようになる。しかもそれは学問、研究の世界のことではなく、海の利用についての争い、法廷の場においての論争、現実に解決を迫られる問題としてである。

 海のレジャー関係だけではない、もう一つこの半世紀に大きく登場したのは干拓、埋立てをめぐる漁業補償問題である。ここでも漁業の生業補償だけでなく、漁業権の消滅にかかわる漁業権自体の性格、特に合併漁協における共同漁業権の性格が法廷での論争の焦点となる。

 もともと浜本氏は水産庁にあって長年漁業権行政を担当し、多くの係争の調整にも関わってきただけにその理論、主張は自からの体験の実証の上に立って構築されたものであるし、本書はこれを集大成したものと言ってよい。

 それは言うならば実践的漁業権論として時宜を得たものと高く評価されよう。  

 2.本書の構成

 内容に入る前に本書の構成について若干ふれておきたい。「海の『守り人』論」が主たる題名であるが、それに「徹底検証 漁業権と地先権」という副題がついている。地先権というところに著者の意図が伺えそうである。勿論浜本氏が中心であるが、熊本一規、ケビン・ショート、中島満、田中克哲、上田不二夫、水口憲哉の諸氏がサポート、分担執筆している。

第1篇は「漁業権ってなんだろう」、浜本氏の漁業権教室と各氏の事例調査レポートで全篇の導入部、実態篇と言えようか。

第2篇は浜本対談「漁業権を活かす」でこれが氏の理論主張の積極的展開で本書の中心部分である。

そして第3篇では、我妻栄「鑑定書」における総有税とその解説、これが浜本論の理論的根拠、裏付けとなっている。

なお、最後の資料篇は改革当時の水産庁経済課篇「漁業制度の改革」や関係通達等の抜すいで、これは本書を読み、理解するためにも非常に参考として役立つものと言える。ただ全体としてみれば数人の分担執筆が入っていることもあり、それだけに実証事例はともかく、理論の展開としてはいささかわかりにくいところが見受けられるがやむえないことであろう。

 

 3.漁業権の本質に迫る

 本書の最も特徴的であり、重要性をもつのは、これが一般の解説書の漁業権の説明ではなく、法廷の場において明らかにされた漁業権の解釈、その性格を取り上げ浜本論を展開していることである。ここでは事例として2つの判決についてみておく。

 

 (1) 平成元年最高裁判決について

 これは大分市白木漁協の国道拡幅にともなう漁業補償金の配分に関するもので判決は「昭和37年の法改正後の漁業法第8条では(中略)全組合員の権利という意味での各自行使権は今や存在しない。したがって共同漁業権は、古来の入会漁業権とは全く異なり、共同漁業権が法人としての漁業協同組合に帰属するのは法人が物を所有する場合とまったく同一である」としている。それは組合員が各自行使するのは「社員権的権利」であるという考え方を示す。したがって補償金の配分も漁民の全員一致ではなく、漁協の総会決議によってきめるべきであるとする。

このことについて浜本氏は法8条が 『全組合員の権利という意味での各自行使権を否定した』のは、漁協の合併のために、合併後も『従来の漁協=漁村部落』であるという、漁民総有の入会漁業権としての性格を明確にするための法改正であったのに、最高裁がこれを曲解して判定したことは、まことに残念でならない(40頁)と述べている。

ここに重要な問題が提示される。最高裁の現行漁業法の解釈として各自漁業をなす権利は組合員の「社員権的権利」という考え方をとり浜本氏の主張する入会権的「総有」であるとする考え方と根本的な相違を見せている。そして氏は「最高裁は、いずれ早い時期に、このまちがった判決を訂正することになると、わたしは確信しています」(44頁)と述べている。

しかしこの見解の対立はしかく簡単なものではなく現代日本社会における主張の社会的妥当性の論議として深める必要があると思われる。そこで本書が取り上げているもう一つの判決事例を次にみる。

 

 (2)  平成7年静岡地裁の判決について

 これは「大瀬崎ダイビングスポット裁判」と呼ばれている。漁協のダイバーからの入海料の徴収は法的根拠がないとして争われたが、判決は「潜水料徴収は不法といえない」というのであった。全国各地で海のレジャーとしてダイビングが流行しているだけに注目を集める裁判であった。著者は判決文で「一村専用漁場」の慣習にふれたことに驚きをもって、その部分を掲げている。

 「わが国においては、江戸時代以降、『磯は地付き』という考えの下に地元の漁村に沿岸部の漁場を独占的に利用(漁村部落の総有と考えられる)して水面利用料を徴収することが慣習によって容認され、現在においても、その慣習が残っていると推定される。本件海域においても、このような慣習があり、法例第2条にいう『慣習法』として法律と同一の効力を有するものと考える余地もあることから、被告がダイバーから入海料を徴収することについては、右慣習も一応法的な根拠になりうる」(176頁)というのである。

すなわち浜本説と全く同一の見解に立っているといってよい。これは根本的な見解において先述の最高裁の判決の考え方と異なるものであろう。そしてこの「法例第2条にいう『慣習法』として法律と同一の効力を有するもの」これが後に述べている浜本地先権説の有力なよりどころとなる。

 しかし、実はこの判決は平成8年10月の東京高裁においてダイバーからの潜水料徴収は否定という逆転判決が下された。本書が出版されたのが平成8年8月であるから、出版後に生じた事態ということになる。

その判決では「一村専用漁場の慣習については、江戸時代の一村専用漁場は、明治漁業法において、専用漁業権及び入漁権として整理された。第2次大戦後の漁業制度の改革に際し、長年の慣行として行われてきた沿岸漁場の全面的な整理を行い、従前の漁業権及びこれに関する権利関係は補償金を交付した上、すべて漁業法施行後2年以内に消滅させられた。そののちは、従前の漁場の権利関係は、一村専用漁場の慣習に基づくものを含めてすべて消滅し、その後は、現行漁業法に基づいて設定された権利関係だけが存続しているにすぎない。従って、一村専用漁場の慣行も、入会料徴収の根拠とすることができない」というのである。

 

 (3)  漁業権についての水産庁の見解

 氏が述べているように平成5年の水産庁漁政、振興両部長名の通達はこの間の事情をよく表わしている。すなわち「漁業権は、一定の水面において一定の漁業を一定の期間排他的に営む権利を漁業権者に認めているのであって、水面をあらゆる目的のために排他的独占的に利用することを漁業権者に認めているものではない。このような漁業権の性格、特質について漁業関係者間において種々の誤解が見受けられるケースもあり、ひいては一般国民から漁業権自体に対する問題の提起等を生むような事態が生じていることに留意すべきである」(75頁)。

実定法としての漁業法の規定する漁業権はまさしくその通りであろう。

しかしこれですべてが解決したわけではない。浜本氏は漁民の総有的「漁業権」と漁業法の「漁業権」とは別に存在することをくり返し主張する。

 4.地先権(仮称)という浜本説

 ここで本書の副題として出てくる氏の地先権(仮称)が法例第2条の慣習法の具体化として提示される。それは漁民の一村専用をより一層確実に実定漁業法と対置するためのものであろう。氏の主張は「漁民は『漁業権』と『地先権』とを混同しているんです。漁業権とは、漁業法でいう魚をとる権利ですが、地先権というのは、江戸時代以来の『一村専用漁場』の慣習上の権利を現代の感覚でいいかえたことばです。地先水面の利用を規制する慣行ということがいえます。漁民は、それを漁業権だと思っている。……もっと突っ込んでいえば、地先水面の漁場(地先権)を管理しているのは、漁業法でも水産業協同組合法でもない、慣習なんです。一村専用漁場以来の慣習なんで す。」(259頁〜)「これまでは、わたしは『地先権』ということばは使うのを遠慮していた。……しかし、いまは、漁民に話すときは、そんなもって回った言葉でいうより、漁民は「地先権」というとすぐにわかるんです。(略)地先権に基づいて漁協が管理しろといういいかたです。その場合には漁業権ではないのですよと。」(262頁)要するに「地先権というのは江戸時代以来の一村専用漁場の慣習上の権利を現代の感覚でいいかえたもの」(260頁)というのである。その地先権こそ各種の水面利用料徴収の法的根拠であると指摘する。

 

 5.我妻鑑定書による理論的裏付け

 以上、重要な部分であるので、本文をそのままに引用したが、この理論上というか、地先権論を支えているものは我妻栄が昭和41年に大阪府泉大津漁協における漁業補償金の配分をめぐる訴訟事件に関して原告側弁護士の依頼により裁判所に提出した「鑑定書」の中で展開されたいわゆる「総有説」である。それは第1、共同漁業権が放棄されて補償金に変じたときには、その補償金は、共同漁業権の「総有的帰属主体」である「実在的総合人」に一体として帰属する(352頁)ということ、第2、漁業協同組合は、協同組合という近代的な法人的団体と漁業権の総有的帰属主体(実在的総合人)との二重の性格を有し、それぞれの関係について、それぞれを規律する法規及び慣行の適用を受ける特異の存在である。(357頁)論旨はこの2点に要約されよう。

 そして氏は、最高裁は、「我妻栄鑑定書」を熟読し、平成元年7月13日判決を変更すべきである(376頁)と強く主張する。焦点は「社員権説」と「総有説」という基本的考え方、理論構成の根幹にふれる問題であり、現実の法廷の場における争点となるだけに極めて重要性を有する。大瀬崎ダイビングスポット訴訟で地裁が総有説、そして高裁が社員権説によって正反対の判決をしたことをみてもその問題の重要性がうかがわれる。ここにきて氏が本書に海の『守り人』論という題をつけた理由もよく理解できよう。

 

 6. 結び  若干の所見

 若干、気になる点を2、3述べるにとどめる。

 

 (1) 江戸時代からの慣習としての「一村専用漁場」、「地先権」の主張が高度に発達した現代社会においてどのように社会的妥当性を持ちうるかは深く吟味することが必要と思われる。高密度の社会を形成しているわが国においては著しく混住化が進み、漁村、漁業集落とてその例外ではない。そこでは村落、集落自体の性格も大きく変質してきている。また海面の利用も非常に多重化、複雑化してきている。かつて東大法社会学の川島教授グループの潮見俊隆氏が漁村の性格について実証的研究を行い、「漁村の構造」(昭29年、岩波書店)を著したが、現在の著しく地域によって差異のある漁村集落と地先漁場、海面の利用と管理についてその実態と本質を充分に究める必要があろう。

 なお、川島、潮見氏以降、黒木三郎氏を中心とする漁村の法社会学的諸研究――「漁業紛争の法社会学的研究」(東大社研調査報告第15集、1974年)、黒木編「漁村の構造と漁業権行使の実態」愛大中産研究報告第20号、1974年)等がある。そして三辺夏雄氏の「行政法現象としての漁業権制度」(黒木先生古稀記念論文集「現代法社会学の諸問題」(平4年)などは大いに注目される論考と言ってよい。

 

 (2) 佐竹五六氏(元水産庁長官)は本書の書評を「漁協経営」(96年10月号)に掲げているが、そこでは、一つの現実的接近の方向として実定成文法としての漁業法解釈の側面と社会的ルールとしての慣習の側面とのかい離が著しくなった場合には新たな立法措置が必要としながらも、当面必要なことは「漁協乃至集落が地先の海を管理――その内実は昔からやってきたことを現代の経済社会情勢の変化に対応させながら維持継続すること、(略)今日の社会的要請に即した管理を実施するならば、一般市民からの積極的評価が期待できるであろう」とまことに含蓄のある示唆をしている。

 

 (3) 評者はこれをさらに一歩進めて、海洋法が実施され、ますますきびしい資源管理型漁業の展開が必要とされるとともに各種海面利用の多重化、複雑化の進行、その中で環境の保全と改良が21世紀に向けて地球的課題となっている状況において、半世紀前に制定された新漁業法、したがってその漁業制度を根本的に再検討し、地先水面の管理、管理の権能を含めその「公的性格」を盛り込んだ制度として構成することが必要な時期にきていると思われる。そこでは同時に管理主体としての漁協についてもその基本的性格、役割の吟味、組織法としての再検討が必要となろう。

 

 以上、いずれにしても本書は、浜本氏が今までの行政経験を土台として、精力的な実証的研究というより実践的検証を集大成し、その理論を構築したものであるだけに、現行漁業制度、漁業法について、極めて重要な問題を提起していると思われる。

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「月刊オルタ」(アジア太平洋資料センター=PARC)1997年11月号(通巻240号)  

オルタの本棚―川や海と人間のゆるやかなかかわり

   宮内泰介(北海道大学文学部)

 海の『守り人』論。海の「MORIBITO=モリビト」と読む。海に生きる人々の横顔が浮かぶ魅力的なタイトルである。だが本書は、海のロマンを語る男たちについての評論ではけっしてない。副題にある漁業権や地先権という用語から想像されるように、漁業権をめぐる法律の問題から、海を守ることの現代的意義とその主体となる漁民について論じた刺激的な書なのである。海の法律書と聞くと難しいという印象をもつが、本は読みやすく構成されている。

 第一編は編著者の浜本幸生氏による漁業権の解説講座と、中島満、田中克哲、上田不二夫各氏による漁業権をめぐる問題についての事例報告からなる。テキスト風にいえば、この部分は入門編プラス応用編といえる。この部分を読み終えると、おそらく多くの読者は、日本の漁業権についての理解や解釈がいかに不十分かつ誤りにみちたものであったかを思い知らされる。私自身も浜本氏の語りから自らの浅学を恥じ、そして多くを学んだ。

 第二編では漁業権をめぐる現代的な課題が、浜本氏と熊本一規、ケビン・ショート、水口憲哉各氏との対談として展開される。入会権、共有の思想、持続的開発論、総有、資源管理の制度と思想、守り人思想、地先権、漁業調整の意味、資源管理型漁業。いずれも現代の国内外における漁業問題を考察する上でのキーワードである。文献などを参照していない対話形式なので私自身はやや不満であるが、読みやすく本書の中心部分をなす。

 第三編は、本書が法律に関する専門書であることのいわば自己申告となる部分である。具体的には、昭和41年「大阪府泉大津市漁業協同組合で臨海工業地帯造成事業にともなう補償金の配分をめぐる訴訟が起こったさい、原告弁護士の依頼により東京大学名誉教授で法学者の我妻栄氏が提出した鑑定書とその解説が本編の骨格をなす。

 以上が本書の構成である。それでは、本書の意義はどのあたりにあるのだろう。漁業権を社員権説ではなく、総有説の立場から論じた点がまず第一に評価できるだろう。だが、総有制の法学的な意義を指摘し、強調するだけではなんとももったいない気がする。

 海はだれのものか。そしてだれがどこまで管理するのか。現在、地球レベルで環境や資源の問題が議論されている。一方、村落レベルにおける水産資源の自主的な管理とその可能性が注目されている。両者に共通する議論の核心は間違いなく漁業権にある。しかも、漁業権に関する日本のモデルは世界的にも注目されている。こうした状態で本書の議論は国内のみならず、国際的にも重要な問題提起となっている。これが第二のポイント。

 三つ目は、やはり海の守り人の問題である。本書のあとがきで水口氏は、監視や観察とともに「子守り」の意味をもつ「ウオッチ」という用語にふれ、海を守ることの意義を提起している。漁業権が法律用語の解釈論ではなく、人間の生き方、 生きざまの問題として提示されているのである。

 私はこの点に本書のもつ大きなそして深い意義を感じた。

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  農林水産省図書資料月報(農林統計協会)1997年1月号 

「批評と紹介」 海の『守り人』論     長谷成人

 20世紀の幕開けとともに、明治34年に漁業権が漁業法という近代法の中に位置づけられてから95年の歳月が流れだことになります。
 その後、漁業法は、明治43年漁業 法(漁業権を物権とみなすことを明確化したいわゆる明治漁業法)、昭和24年漁業法(農地改革と並び行われた戦後の漁業制度改革)と変遷を経てきましたが、三つの漁業法を貫くのは、公権力の行使を最小限に抑え、地元組合による自主管理に多くを委ねようとする日本型管理思想であろうと思います。

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 漁業権制度というと、関係者以外にはとっつきにくい感じがすると思いますが、本書では、第一編の「漁業権ってなんだろう?」の中の「浜本幸生の漁業権教室」で漁業権制度の考え方をやさしく解説しています。
 明治政府は、日本を近代国家とするため、近代法制を西欧に学び、その一環として、民法も刑法も、フランス、ドイツ等の法律をもとに作ったのに対し、漁業法、特に漁業権の規定は、我々の先達が、江戸時代に原形が確立したといわれるわが国の慣行を綿密に調べて作り上げたものです。このことについては、漁業権教室第二講「漁業権の歴史と性格」で触れられています。
 私も、浜本さんの水産庁時代に漁業法のいろはを教わったわけですが、浜本さんは、当時からこのような制度(土地の所有権に基づかない漁業権)は、日本だけのものであり、誇りにするとともに、しっかり守っていかなければならない制度だと主張されていました。

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 しかし、戦前からの経緯からすでに韓国や台湾でも漁業権制度が定着し、いまや漁業権制度は必ずしも日本独自のものとはいえない状況にあります。さらに近年、このような漁業権制度、特に本音で扱われている組合管理漁業権・漁業権の免許を受けた地元の漁業協同組合又は漁業協同組合連合会は、もっぱらその漁業権の管理(漁業権の内容たる魚種等の増殖をなし、各組合員の行う漁業を監視、調整し、第三者との折衝をなすなど、漁業権が権利としての存在を全うするように管理すること)にあたり、その漁業権の内容たる漁業は、漁業権者たる漁協・漁連傘下の組合員が権利としてそれぞれ営む漁業権―が、行政庁が直接的に漁業者と許可等の形で係わる欧米流の管理との対比の中で、世界各国から地域共同体に根ざした有効な漁業管理、資源管理として評価されるようになってきています。

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 外国の専門家からは近年高い評価を得ている漁業権制度ではありますが、国内的には、戦後の臨海部開発に依存した高度経済成長を背景として、昭和37年の漁業法改正を経て、本書の中で様々な形で議論されているように、特に、埋め立て問題をめぐり、その同意や補償金の配分方法の決定プロセスが数々の訴訟の中で問題とされてきました。その問題点は、要約すれば、組合管理漁業権である共同漁業権は入会権的権利であり、漁協は単なる形式的権利主体であって管理権館を有するにすぎず、実質的な漁業を営む権利は組合員に帰属する関係であるとする「総有説」と共同漁業権が法人としての漁協に帰属するのは一般に法人が物を所有するのと全く同一の関係であり、組合員の漁業を営む権利は、漁協という団体の構成員としての地位に基づき、漁協の制定する漁業権行使規則の定めるところに従って行使できる社員権的権利であるとする「社員権説」の対立です。

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 この対立に関しては、社員権説をとった平成元年7月の最高裁判決によって一つの区切りがついた格好になっていますが、著者達の立場は、あくまで前者の総有説にたつものです。本書の第三編には、総有説のバイブル的文書である民法学者故我妻栄東大名誉教授が昭和41年に大阪府泉大津漁協の漁業補償金配分をめぐる訴訟事件に関して提出した「鑑定書」が刊行物として初めて紹介されています。
 昨年の7月20日の海の日には、わが国についても国連海洋法条約が発効し、これに合わせ欧米の管理思想を背景とする漁獲可能量(TAC)制度が一月から導入されました。
 これは、従来の日本型の管理が漁船 の隻数や漁期の長さなどの漁獲努力量を制限するいわゆる入口規制主体であったのに対して、最終的な漁獲量自体を管理しようとする出口規制にあたるものです。しかしながら、国連海洋法条約発効と同日に施行された「海洋生物資源の保存及び管理に関する法律」(TAC法・TAC規制は暦年で行うため実際の導入は1月からとなる)では、TACを行政庁が個々の漁業者に関して直接取り締まるのではなく、できる限り漁業者の自主的管理に委ねようとする 協定制度が盛り込まれており、その点でまさに和洋折衷的な工夫がなされています。ただし、入口での規制 が十分でない中での出口規制の導入ですから、今後その実行に当たって、数々の問題が生じてくることが予想されます。
 このような時期に本書が刊行され漁業権制度ひいては日本の漁業管理、資源管理思想に対する関心が改めて高まり、議論が深まることは、漁業権制度はもとより今後の漁業管理、資源管理にとり極めて有益なことと思います。

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 第二編は浜本対談「漁業権を活かす」ですが、東南アジアに詳しい明治学院大学の藤本一規助教授(本書刊行当時・現教授)から部族で管理している熱帯雨林の話が提供され、さらには欧米の管理思想の土壌の中で育ったケビン・ショート氏(海洋文化研究の一環として日本の漁業権制度でスタンフォード大学で学位を取った方だそうです)から欧米の制度は日本の「漁場の制度」に対して「魚の制度」であること、北米にも専用漁業区域の萌芽があったが制度化の際に無視されたこと等が語られることによって、土着の漁業管理としては世界各地に見られながら、近代的な法制度として最初に制度化したのは日本だったということが、そして、そのことにより、日本の漁業権制度が評価され始めていることが、世界史的視点から理解されることになります。
 さらに、ケビン・ショート氏が漁業権管理制度の良さを十分に認めながらも、海洋レクリエーションや環境問題との関連から日本の沿岸域管理の欠陥を指摘されている部分は重要な指摘であり、海洋に関する縦割り行政の弊害を克服して、水産庁も、構造改善局も、建設省も、運輸省も、環境庁も、みなたこつぼを出て取り組まなければならない重要な課題だと思います(韓国では海洋部門の役所が一つに統合されました)。その際、環境モニタリング機能だけでなく、水難救助機能、密入国監視機能等まで含めて沿岸漁業あるいは漁村の機能をどう再評価し、位置づけるのか等大きな課題が残されています。
 水口憲哉東京水産大学助教授との対談では、若手県の漁協がゴルフ場の建設業者を相手取って起こしている工事差し止め訴訟(第一編の事例レポート@でも紹介されている)が話題の一つとして採り上げられています。漁業補償問題という、と漁業者が海を売って、莫大な利益を得ているという印象が一部にありますが、岩手の例などは「金はいらない海を残せ」という行動であることから、一般の市民にも理解されやすい動きであると評価されています。

*

 なお、第一編の事例レポートDでは、地元の漁協が海面管理の慣習を楯に利用料を徴収するという話について、「慣習が入海料徴収の法的根拠」、「歴史的判決」として紹介されていますが、昨年10月28日には漁協側の主張を退ける東京高裁判決があり、漁協は上告中であることを御紹介しておきます。いずれにしても、慣習というのはある程度地域ごとに異なるものであり、その残り方というのはさらに地域差が大きいのであり、個々の漁協が、実際にどの程度の海面管理を行ってきたのかに関わらず入海料をとろうとすれば、一般国民との間に意識のずれが生じるのではないかと懸念をもちます。
 いずれにしても、本書はいろいろな意味で刺激に満ちた好書であり、漁業関係者のみでなく、沿岸城管理、海面利用あるいは野生生物の保護管理に関心を有する方にも、是非一読をお勧めしたい一冊です。(筆者は水産庁振興部部沿岸課)

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