チュニジア便り Part1


by Reiko Nakamura

2003.01.212003.07.19 | part2 2004.09.10|part3 チュニジア便りPart3 2005.10.1

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オーストラリア先住民との出会い:2009年4月

●2003年1月21日

 こちらにやってきて、もう1月半が過ぎました。

 家の方はお陰様ですっかり落ち着きました。ラ マルサというチュニスから東に約20kmぐらいの所にある高級住宅地にあります。そこにいると特に感じないのですが、チュニス市内を歩いていると、ラ マルサは別世界であるし、ゆったりと時が流れているように思います。

 感激したのは、町の中の街路樹がオレンジでたくさん実をつけています。その中でも海の近くには大邸宅家が並んでいます。その入り口の所に我が家があるわけです。全ての家はほぼ純白で、窓枠やドアが水色ですので、輝く太陽の下でとても美しいです。

 多くの家は垣根にアイビーやブーゲンビリア、ジャスミン、ランタナなどの蔓が這っていて、ポインセチヤやハイビスカスの大木があって、真っ赤な花が一年中咲いています。とても素敵です。我が家の庭は大家さんがお花好きで、とても可愛く、レモンとザクロの木があり、ゼラニウム、ナスタチウム、ハイビスカス、匂いスイセン、ランタナなどの花が咲いています。

 風が吹いて落ち葉が舞うと、必ず庭師のお兄さんがやってきて、きれいに掃除をしてくれます。


 昨日は海岸を歩いていたら、漁師さんたちがワインで酒盛りをしていましたので、近づいていって、網を見ていたら、壊れた素焼きの蛸壺がとても素敵だったので、触ったらナイフでそれを切り落としてくれました。素朴な優しい顔の人々で、たくましく日に焼けていました。ちょうど漁が終って一服やっていたようです。

 だから、家に戻ってワインを1本とサキイカがあったので、持っていってあげたら、すごく喜んで美味しい、美味しいと皆で食べて、私たちにもワインをご馳走してくれました。マダムと言って、彼らが食べていたオレンジを一房私にくれました。素朴な素晴らしい人たちでした。かたこと英語を喋る人がいたので助かりました。


 買い物は車付きのショッピングバッグを持って、市場に野菜、果物、魚を買いに行き、スーパーマーケットで肉を買います、牛肉、マトン、チキン、シチメンチョウの肉が一般に買えます。野菜はキャベツ、玉葱、人参、ズキニー、ナス、ホーレンソウ、トマト、キュウリ、サラダ菜、イタリアンパセリ、セロリー、フェンネル、マッシュルーム、カボチャ、などが今、八百屋さんに並んでいます。果物はオレンジ、イチゴ(すっぱーい)、りんご、洋ナシ、バナナ(高級品です)、メロンなどですが、オレンジを除き、どれもすこぶる粒が小さいです。

 魚はクロダイ(養殖)、スズキ(養殖)、サバ、アジ、ボラ、カサゴ、イワシ、色々な種類のタイ、モンゴイカ、ヤリイカ、アサリなどを今までに見ました。市場の中にはスペインやイタリアなどのようにピクルス屋さんがあり、そこにはたくさんの種類のオリーブやケッパー、野菜のピクルスなどがそれぞれ山になっています。市場は1時頃には閉まりますので、週末にしか行けません。新鮮なものもありますので、お刺し身も食べられます。日本食を作ると醤油をたくさん使うので、目下醤油を使わない、日本風食を考案中です。

 こちらの人はほとんどがバケットとパスタ類を食べていますので、米は一般の店にはありません。スーパーで見たら、タイ米とインドのバスマティ米を売っていましたが、どこでもあるわけではありません。私たちはこちらに永く住んでいる日本人の人から情報をもらい、電車とメトロに乗ってチュニスの北西にあるリビアマーケットまで買いに行きます。そこでは、リビア経由でやってきた中国米とエジプト米が買えます。日本のお米とは随分違いますが、お米が食べられるだけありがたいです。ですから、日本から持ってきた炊飯器が大活躍です。お弁当も毎日作っていますので。食材が日本とは違うし、東洋的なものは全くありませんので、苦労しますが、工夫する楽しみがあります。


 この国は回教徒の国ですがお酒も飲める大変進んだ国です。でも金曜日は聖なる日ですから酒類は買えません。チュニジアはその昔ローマの穀倉地帯であった肥沃な地ですし、フランスが植民地にしていたので、チーズとワインが豊富です。ビールもあります。ワインは信じられないほど安いです。一番安い1本400円位の白ワインを料理用にしていますが、それさえもすぐに蒸発してしまいます。高くても、といっても900円ぐらいですが、値段の割には味がそう変わらないような気がします。

 物価が安いので、大変楽です。でも魚は種類によっては日本並です。肉もそうやすくはありません。こちらの人々の平均月収が5万円ぐらいですから、想像できるでしょう。電車やバス、タクシーがべらぼうに安いです。

 研究所に行くのに、電車に10分乗りますが、片道36円です。1週間の回数券を買うと、約400円です。チュニスまでは電車で30分ですが、片道54円です。ですから、日本円がいかに価値があるか分ると思います。私たちは車を買いたいと思っていたのですが、交通状態が最悪なのでなるべく乗らないようにとのお達しがあリ、困っています。

 車は特別に高く関税が120%ですから、車を持っている人は金持ちでしょうね。とはいえ、ドイツの高級車からものすごいポンコツまでありとあらゆる車がカーレースをしているごとくに走っています。車はすべてがマヌニュアルですし、この走り方では旦那は一発で諦めました。一緒に来たほかのボランティアの人々もかなり車は運転しないといっています。


 ここは開発途上国にしては人々の暮らしに貧富の差が少ないために、発展できた国です。特に女性の活躍は日本以上です。研究所の研究者も8人中半分は女性です。特に回教国の女性の地位がよく問題にされますが、この国は初代の大統領が素晴らしかったためだと、聞いています。

 こちらは結構男性でも買い物に行きますので、椰子の葉っぱであんだ大きな買い物篭を下げて買い物に行きます。大家族が多いので、山ほど野菜を買って、その上にむき出しのバケットが5‐6本のっている光景があちこちで見られます。おじいさんは赤い帽子をかぶり、おばあさんはマフラーを頭にかぶっています。一般的にアメリカほどではありませんが、太り気味です。若い人はスリムできれいな人が多いです。黒くて大きな目が魅力的です。


 我が家は3ベッドルームと応接間、リビングダイニングルーム、キッチンバスルームと裏にはゆったりとしたパティオがあります。家具付ですので、一応何も無くても暮らせます。ナベ類、食器、グラス、台所の小物まで大家さんが準備してくれています。日本から持ってきた、偽の塗り物食器や100円均一で買ってきたものが大変役にたっています。 ダイニングルームだけは日本的なインテリアにして、壁に書や浮世絵を飾ったり、一見和紙のスタンド、などをおいたら落ち着きました。入居した後に、スチームから水が漏れて、洪水になったり、蛇口が調子悪くて水漏れしたりのトラブルがありましたが、大家さんが直してくれました。

 他の人たちの話を聞いたら、家の大家さんの素晴らしさがわかりました。先日は夕食にパイの差し入れまで届けられて、恐縮しました。お返しに胡麻せんべいを持っていったら、喜んでくれました。

 それにしてもフランス語アラビア語ができないのはしんどいです。

copyright 2003,Reiko Nakamura


●2003年7月19日  チュニジアよりボンジュール!!

日本の皆様、その他の国にいらっしゃる皆様へ

お変わりなくお元気でご活躍のことと思います。

 大変ご無沙汰しております。

 早いもので、チュニジアに参りまして、8ヶ月が過ぎました。季節も冬から素晴らしい春を迎え、そして、灼熱の夏になっています。

最近のこちらの様子をお伝えしつつ、ご挨拶申し上げます。

 今年の日本は陰性な梅雨らしいですね。その中で生活している方々、大変そうですが。

 また、ドイツ、アメリカ、フランス、タイ、ガボン、オーストラリアにおいでの方々、そちらでの生活はいかがでしょうか。

 チュニジアにいると、雨が降っている日本は羨ましいな、と思っています。


 先日、舞鶴の友人が留守宅の我が家に行って、あたり一面の写真をとって、メールで送って下さいました。緑の豊かなこと、その緑の深いこと、私が大好きで、あちこちに植えた紫陽花が優しく、しっとりと花を咲かせている、そんな写真を見た時に日本は何と素晴らしい国だろう、豊かな水が溢れて、新鮮な命が育まれているな、とその自然の豊かさを感じました。昨今の日本のニュースから人々の心の豊かさが失われつつあるような、気もしますが。

水について

 その中で生活をしていると、雨の日が多くて、日常の不便をなことを感じていることでしょう。しかし、その水がないということがどういうことか、私はこちらチュニジアの夏を迎えて、実感しています。この国は中東の他の回教国と比べると天国だそうです。それでも、たった250キロ南に行くと、あのサハラ砂漠が横たわっています。その直ぐ近くには世界で一番大きな塩湖である、シェットエル

ジェリドがあります。

 水がどんどん蒸発して塩濃度がどんどん上がっていき、湿地帯のような浅い湖の周りや底は全て結晶した塩で被われています。眩しくて見ていられないほどの光景です。

 こちらはこのところ毎日気温が42℃に上がり、刺すような強い太陽の光がカルタゴの大地を照らしています。日中は外出しないことが賢明です。今までに、2日、47℃を記録しています。それでも、エアコンは自宅にも、研究室にもありません。仕事に行って家を留守にする時は、家の雨戸を閉めておかないと、家の中は暑くて大変です。光イコール熱だよ、とアンダルシアに行った時に聞いたこ

とを思いだしました。

 雨戸は空気が通るように隙間がたくさんあります。先日航海に出た時に、家をしばらく留守にして帰ったら、暑くて暑くてしばし考え、家の壁にも雨戸にも床にも水をまいたほどです。

 大体は日没後涼しくなりますが、今までに3晩暑くて夜中に起きて、水浴びをして、寝直した日がありました。

 あるものは日本から持ってきた“うちわ”だけです。多分、想像がつかない世界だと思われる方も多いことでしょう。これからもっと暑くなると言われています。それでも人々はゆったりと豊かに暮らしているんですね。

カマスを干物にする

 学ばなくてはいけないことがたくさんあります。勿論エアコンがある家もたくさんありますが。雨が降らないで、この暑さでは蚊も生きていけないようです。家には網戸がないし、夜中開け放しで寝ていても、蚊が入ってこないのです。また、先日は市場でカマスを見つけたので、干物を作りました。日中干したら、太陽が熱すぎて、ハエも来ないのでびっくりしました。

 想像を超える、こんなメリットもあったんです。

 先月から、スタンフォードの学生がマグロの共同研究立ち上げのために、2週間こちらにやってきて、我が家に泊まっていました。

 お願いしたら、彼がアメリカから、インスタントラーメンと海苔と大豆を持ってきてくれて、感激しました。その彼が、折角だからと、

砂漠まで一人旅をしてきましたが、帰って来たら砂漠の暑さに、びっくり、50℃もあったそうです。白いソックスを脱いでも、まだ、

何かはいているようで、真っ黒に焼けてきたその足を見て、二人で笑ったほどです。

 その数日後に彼は熱を出してしまい、1日ベッドで寝ていました。薬をのんだので、熱は下がり、予定どうりに翌日研究所で講演をして、その翌日モンテレーに帰っていきました。空港で元気な笑顔を見せてくれたので、ホッとしましたが。カリフォルニアは天国ですから、身体がびっくりしたのでしょう。大変気の毒でした。私たちは徐々にこちらの気候に慣れているので大丈夫ですが。熱射病にならないように気をつけています。

 こちらの人に習って、外を歩く時は、少しの日陰でも探してうろうろしています。私は毎日UVカットを顔に塗ってはいますが、効果が薄いです。二人ともど真っ黒です。主人は現地にすっかり溶け込んでいます。

夏時間

 私は皺が増えていること確実です!!

 7月になったら夏時間で、朝7時半から午後2時までが仕事時間ということになりました。研究所は自由ですので、私たちは今までのペースで、夕方まで仕事をしています。そのほうが静かだからで

す。郵便局、銀行などの公的機関は全て1時に閉まりますので、慣れない私たちは“しまった”の連発です。どうやら、暑いうちは皆さん活動をおさえているらしく、昼間は人通りが少ないですが、夕方から人々が三々五々繰り出し、家の直ぐ近くの冷房のよく効いたショッピングセンターは12時でも煌煌として、人が溢れています。

深夜の海岸に音楽が響く

 家の直ぐ横の浜辺も夜中まで人が溢れています。先週末、試しにその現実を見ようと、12時半頃に海岸を歩きました。

 音楽が奏でられ、年寄りも小さな子供までもこんな夜中にと思う程、人が繰り出して、夕涼みならぬ、夜涼みを楽しんで、お喋りをしていました。確かに涼しくて気持ちが良かったです。あの、強烈な太陽は何処へて行ってしまったのかと、思えるほどでした。こうした生活パターンが、どうやらこの暑さを乗り越える生活の智恵のようです。

 イスラムの本を読んでいてはたと気が付いたのは、断食の習慣があることは知っていたものの、断食の日常について私はあまり考えがおよばなかったのですが、その時には日没後が彼らの一番大切なお食事時間が始まるので、夜の活動はは延々と続き、またそれが彼らには、大変な楽しみであることも知りました。こうした生活パターンが砂漠で生まれたイスラム教の根底にあることを実感しました。おまけに、夜中の3時ににはモスクのアザーン(お祈りの時間のお報せ)が鳴り響いています。

ハンニバル号と溺死者

 先日は日本政府がチュニジアに供与した研究所の調査船で5日間マグロの卵、稚魚を採集するための調査航海に参加してきました。新潟造船が作った、ハンニバルという268トンの船でした。毎日、朝5時から、夜9時まで1時間ごとに網を入れて20分曳いてはあげて、サンプルを集めました。船の中はまるで日本でした。船内の時計も、トイレも、水道の蛇口さえも見慣れた日本のものでした。もちろん、ブリッジには、友好のしるしとでも言ったらいいの

か、日本とチュニジアの旗が交叉して飾ってありましたし、全ての計器は日本製でした。ですから、ことの他快適に感じました。

 その航海中に特別の体験をしました。それは溺死者を集めたことです。

 密入国船が早朝に転覆して、人が遭難しているので、助けるようにとの連絡が入り、海軍出身の船長の決断で現場に行くことになりました。理由はコーストガードガどうしたらいいのか分らないからだと、船長が話してくれました。現場にはコーストガードの船も来ていましたが、乗組員はきれいなユニフォームに見を固め、格好だけは一人前でした。ハンニバアルからゴムボートを下ろし毛布を積んで、機関長が中心になって、あちこちに浮いている遺体を上げたのです。私たちも氷を運んだり、写真を撮ったり(報告書に使うための)、コックさんまで総動員でしたので、台所を手伝ったり、大変なことでした。結局、37人が助けられ、9遺体をあげて、コースとガードの船に移しました。亡くなった方々が気の毒でたまりませんでした。

 彼らは不法密出国でイタリアに向かう、リビア人が多かったらしいですが、真相は全くわかりません。よりよい生活を目指して、生死をかけて行動していた人たちなんだと、私たちには考えられないことですが、複雑な気持ちでした。あちこちに浮かんでいる、飲み物の缶や、かじりかけのリンゴなどが、夢が奪われ命をなくした

悲惨さを物語っていました。

 ハンニバルの乗員の動きの素晴らしさ、チームワークの素晴らしさも見せてもらいました。チュニジア人は怠け者だとちらちら聞いていましたが、そうでない人だってたくさんいます。こんな航海の経験をしたお陰で、船の皆さんと大変仲良くなってしまいました。

 言葉がもっと喋れたらナーとつくづく思いました。

握りずしパーティー

 チャリテーディナーも着々と進んでいます。ついにディナーのメニューは握り寿司になってしまいました。日本人の皆さんが一番食べたいものです。一回に約15人位を目安にして我が家にお出でいただていますが、参加希望者が増えてきているので、大変うれしいです。お寿司を食べ放題ですから、無理もないですね。私が作るので、勿論日本のようなものとは違いますが。何もないところですので、どんなものでも、あればよろこんでもらえるのです。新鮮

な魚を選ぶことが何よりも大切ですので、それだけは任せとけです。

 先日はバーレンからおいでになられ、ボランティアー、チャリティー活動に熱心な新任の日本大使ご夫妻まで参加してくださいました。そうなると、参加希望者が増えることまちがいなしです。この調子で、どんどんやって、帰国するまでにチャリティー基金を作り上げ、必要とされる子供たちの施設に寄付できたらと、目標を定めました。

 こちらでは東洋の食品が全く入手できませんので、このイベントには醤油とワサビが一番大切な材料なのですが、親切な人々が

ワサビの大袋を下さったり、お醤油の寄付が届いたり、日本からの友人が重たい醤油を持ってきてくださったり、本当に皆さんのお陰で色々助けてもらっています。1回ごとに握りを180貫もにぎるの

です。くっつき難い中国米でお米をにぎって(私)、ワサビを塗る人(主人)、種を乗せて仕上げる人と流れ作業です。ありがたいことに助けてくださる人もいます。

 暑いので、生ものは時間をみて仕上げることなどなど、といろいろです。丸いフライパンでどうやって四角い卵焼きを、ワインビネガーで寿司ご飯をそれらしく作るか、と色々な課題も楽しくクリアーしています。アメリカから大豆を持ってきて戴き、日本から持ってきて戴いた納豆をもとに、納豆つくりも成功し、先回は納豆巻きも登場しました。

 9月にこちらで行う日本アフリカ海洋科学シンポジウムの準備のために長いことかかって段取りをしておりましたが、明後日から

主人はJICAの所長さんと、研究所の所長さんと3人でモロッコ、セネガル、ギニアへ案内状を持って出張に行きます。

 留守中少しは遊べるかと、思いきや、サンプルの処理が山ほどあり、残念でした。

 それでは、皆様のご健康と、ご活躍を心からお祈りいたします。長々、お付き合いをありがとうございました。

 

copyright 2002〜2014,Reiko Nakamura

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