味探検草鞋雑記 中山道余話(2)


つきのみや

浦和調神社年末恒例「十二日市」を

なぜ“ジュウニンチマチ”と呼ぶのか

―マチとイチ=町と市のことばの意味について―
 

ぼくは埼玉県浦和の町で生まれ、育った。浦和市も現在ではさいたま市になってしまって、なんとなく寂しい思いをしたものだが、年末になると、なつかしく思い出すのが調神社「じゅうにんちまち」の祭礼のことである。

味探検中山道編さいたま市北浦和の中華料理の店・娘娘(にゃんにゃん)を取り上げた記事(2001年12月6日)で、「酉の市がおわり、12月にはいると旧中山道沿いの旧大宮は10日、同浦和は12日に、トウカマチ、ジュウニンチマチと呼ぶ市がたつマチとは、市がたつ祭のこと。大宮氷川神社、浦和調神社参道沿いは、師走のマチの雰囲気を味わいに、参拝人でごったがえす。」と書いた。

トウカマチ、ジュウニンチマチは、漢字で書けば、「十日市」、「十二日市」。

この「マチ」の呼び方について、なぜ漢字表記の「市」を、「イチ」と読まずに「マチ」と呼ぶのか、「祭=マツリ」と「マチ」についてのことは、子供のころには、とくに意識をしたことなどなかった。ところが、数年まえ味探検の取材をしていて、ふとこのテーマがおもしろい意味を含んでいることに気付いた。

タニシの古謡と飯山のイチ

厚木の飯山温泉がタニシが名物であり、タニシの古謡まで伝わるということを取材して記事にしたときである。地元神社の祭礼に行われる競馬をみにでかけることを楽しみにして、近在の農民たちは「飯山のマチ」に行くという表現をしたということを、飯田さんという郷土史研究家から聞いた時に、「ああそうか!」と表記のテーマが浮かんだのである。

「イチ」と「マツリ」と「マチ」の言葉が、漢字表記の「市」「祭」「街、町」の意味とどうつながるのか、歴史的にどう位置付けられるのか、俄然興味がわいてきたというわけだ。

2001年11月30日埼玉県立博物館(さいたま市高鼻町)学芸部の斉藤さんに、大宮「十日市」と浦和「十二日市」の「イチとマチについての意味」についての質問をしたら、その回答をファックスで以下のように寄せていただいた。

○斉藤さんよりの回答(2001年11月30日)

「まち」という言葉の本来の意味は、「区画」ということは知られているところですが、とりわけ田圃(たんぼ)の単位でした。

お尋ねの十日マチというような用例は市が立つ祭りというような意味合いでいいと思います。市の語源が斎場(いちば)ともよくいわれているところです。イチは斎(いつ)き祭る場所のことですから、やはり祭り関係の語彙と理解してよろしいかと思われます。

マチもイチも結局のところ、神様のお祭り関係している語彙だと思います。

もう一つ加えますと、マチは「待ち」とも理解されております。 月待ち、お日待ちの「待ち」です。お祭りで神様の神意の到来を待つのでしょうが、待ちはやはり、神祭りという意味でありましょう。マチ、イチは親戚のような語彙と理解したらいかがでしょうか。

なお、祭り・マツリも語源を説明するときにも、待つを入れてよく説明してあります。マチ・イチ・マツリは同じ仲間と考えてもよろしいかと思われます。マチについては、柳田国男も言及されておりますので、『柳田国男集別巻5』が索引となっておりますから、具体の記述はそこからたぐり寄せることはできると思います。

 

○柳田国男集より

(第16巻)「時代ト農政」67頁〜〈町の経済的使命〉より

――今の時代の郡家駅家が兼て市店であったか否かは甚だ明白でありませぬ。古代に於て現今の意味に於ける町のあったことの略ゝ疑ないのは京都の外は国府ばかりかと思ひます。然らば其余の千余の町は何れの時代に起原を有するか、此問題を解く為には先づ町といふ語の意味の変遷を考へねばなりませぬ。昔は ( いち ) ( まち ) も一つです。市を音で読んで大都会のことにしたのは明治二十三年からです。音と訓とで今は大いに意味がかはります。徳川時代も後半期には町と ( いち ) とを区別して居りますが、其以前は二者混用でありましたのを、各地に 日々 ( にちにち ) 市常市 ( いちじやういち ) が出来始めてからは、 日限市 ( ひぎりいち ) のみを市と称し常市を町と称しました。併し此区別も地方に依っては認められて居りません。市といふ語の意味は明白です。ごく古い時代からありました。之に反して町といふ語は度々其内容が変化しましたから些しく説明をいたします。字義の詮索は柄に無いことですが、全体漢字の町と云ふ語の方は如何ですか知りませぬが、マチといふ日本語に最初区画と云ふ意味があったやうです。人は長さを表はす ( ちやう ) は面積を現はす町よりも先に用ゐられて、一町四方であるから一町歩だと思って居るかも知れませぬが、私はその反対に一町歩平方の奥行の長さが一町と称せられたのだと信じます。漠然たる想像説ですけれども、近世一畝二畝と畝の字をセと読みますのは、中古荘園の文書に一瀬町二瀬町とある瀬町と語原を同じくするもので、瀬町はやがて狭町の義であって、奥行の長くないことを言ひ、終に少ない面積といふことになったのかと思ひます。もし右の如く町は土地の一区画の義としますれば、かの市兵衛町とか加賀町と申すやうに、大都会のほんの一部分を町と呼ぶのが寧ろ本義に合するものであります。併し町村の町とてもその因って来る所は亦之と同一で、今日でこそ村と対立する一人前の法人ですが、是は全く最近の変動でありまして、僅々四五十年の昔に遡りましても、町は村又は郷の一区画に他ならなかったのであります。

もう一つ、年末に全国で行われる「熊手」を買って商売繁昌のねがいをするので馴染みの深い、「おとりさま」あるいは「とりのいち」と呼んでいる大鳥神社や北野神社の祭礼について記しておこう。

 

酉の市(とりのいち)  東京の鷲(おおとり)神社の祭礼。トリのマチともいい、毎年11月の酉の日に行い、これを一ノ酉、ニノ酉、三ノ酉と称した。〔以下略〕

――坂本太郎監修、森末義彰・日野西資孝編『風俗辞典』(東京堂、昭和33年第3版)

 

この本では、「トリのマチ」ともいい、と書くが、同じ出版社の『年中行事辞典』では、「酉の市」を「トリノマチ」と読ませて、このあたりを江戸東京の下町の人々の信仰を解説してもう少し詳しく次のように書いている。

 

酉の市(とりのまち)  11月酉の日に行われる鷲(おおとり)(大鳥)明神の祭礼。初酉を一の酉、次をニの酉、三番目を三の酉といい、三の酉まである年は火事が多い、または吉原に異変があるなどの迷信があった。一の酉をもっとも重んずる。「まち」は祭の意で、東京人は酉のまちといったが、近年は酉のいちという者も多くなった。〔以下略〕

――西角井正慶編『年中行事辞典』(東京堂、昭和37年第7版)

 

…以下未完…

(MANA)

2001.12.10(メモ)2003.05.10(加筆)


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