列島雑魚譚
zackology essay 09
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東京都小笠原村父島の漁師たちは若く島外出身者が多い。たて縄漁と呼ばれるカジキやマグロと闘いながら釣り上げる勇壮な漁が行われる。写真は100キロを越すメカジキを船上にとり込む最も緊張する作業のカット。(菊池勝貴さんの貴丸船上にて。1999年) Photo by M.Nakajima |
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小笠原父島に新種ハゼを探す
日本でいちばん遠い島|新しき海のムラにびっくり|ザッコロジストの虫 がうずき始める|第1回探索行は失敗|魚とにらめっこをしてみよう|小笠原固有種としてレッドデータバンクに|か細い流れが棲みかだった
小笠原には数年前から、1年に3、4回でかけている。小笠原父島の若き漁師たちにスポットをあてて、長期取材を続けているのだが、「小笠原丸」という定期船が週に一便あるだけで、一回の取材に約2週間のスケジュールどりをするのがたいへんなのだ。「小笠原に行く」というと、家族にも、何か遊びに行くかのようにうらやましがられてしまう。
といいつつも、やはり、東京港から1000キロ沖合いの父島に、25時間かけて到着して、岸壁に降り立つと、ふだんの雑用からは開放されて、自分一人だけの仕事のことだけを考えればいいという、別空間にやってきたようなリラックスした気持ちになる。沖縄の島嶼や北海道でも飛行機の直行便がなくても、陸路と連絡船を使って、せいぜい一時間程度の船便をつなげば、日本中どこでも10時間もあれば目的地につかないところはないはずである。
ところが、ここ小笠原は、船中一泊の25時間の定期船しか交通手段がない。ある意味で、日本でいちばん遠い島といえるだろう。小笠原といえば、ホエールウオッチングやダイビングのメッカであり、釣りも「内地」とは比べ物にならないくらいの大物がまだまだ狙える。海好きにとっては垂涎の島だが、この島の漁業については、意外と知られていない。
●あたらしき海の村にビックリ
小笠原漁協の正組合員は取材時46名だったが、このうちほぼ半数近くが、「内地」から漁師になりたくて島にやってきた島外者で構成されている。中学卒でやってくるもの、高校や大学を中退したり、卒業してくるもの、脱サラしてやってくるものと、いわば履歴や出身地はさまざまだが、この島には、こうした海好き、漁好きで漁師志願者であれば島外者であれ、誰でも受け入れる開放的な環境があった。江戸末期に住民の移住による島民が暮らし始めてから150年とたっていないこと、昭和43年に米軍占領下から本土復帰とともに、新しい漁協が誕生したという歴史的要因が大きいのだが、父島の漁の村には、古くからの習慣や家どうしのつながりなどのいわば「旧慣」とよぶ、海に生きる者たちの間で作られてきた、古くからの文化的、経済・社会的なシキタリやキマリがほとんどみられない。いや、それ以上に、まったくないといっていいのかもしれない。
開放的ゆえか、小笠原の漁師たちは、正組合員も、乗組員もみな若く、はつらつとしている。20代で乗組員のまま正組合員になれたり、独立して船主となり一国一城の主になることもまれではない。漁協の副組合長の菊池勝貴さんを中心に、勝貴さんの仲間や乗組員たちの漁暮らしを、漁船に同乗しながら取材を続けているのだが、今年初めに勝貴さんの勝丸乗組員から独立したての矢島誠君などは、三、四年まえから導入したマグロの立て縄漁で、100キロ級のメカジキやメバチマグロを釣り上げる豪快な漁を、たった一人でこなしてしまう。全国いろいろな漁村を歩いてきたが、こんなにも開放的な漁村は見たことも聞いたこともなかった。
私は、小笠原父島の漁師たちの集団を、「あたらしき漁村(ムラ)」という呼び方をしているが、後継者不足や働き手不足から漁師の公募をする漁村が増えているが、その内実は、正組合員化への道は狭く、一隻船主として独立できる可能性も薄く、ただの労働力不足を補う要員の位置付けしか与えられない現実に対する、まさに反面教師的な位置付けにある。結婚問題なし、後継者不足なし、収入面もそこそこ安定している。私の取材に同行した、京都大学の世界的なカジキ・マグロ博士の中村泉先生は、「父島の漁師はハワイ島の漁村の漁師のように自由で開放的だ」とビックリしていた。
●ザッコロジストの虫がうずき始める
前書きが長くなったが、小笠原列島父島にも、もちろんザッコロジーの対象となる小魚たちがいる。私はダイビングをまったくしないので、小笠原の海に棲む愛すべきハゼ科の多くの魚たちとの対面はできないが、海岸を散歩すると、あちこちでトビハゼたちが岩場で日向ぼっこをしている。そんなトビハゼたちと何時間もにらめっこをして過ごすことができるのも、小笠原ならではである。
小笠原水産センターという東京都の研究施設に、小笠原の魚たちを水槽で飼っている小さな水族館がある。そのひとつの水槽に「オガサワラヨシノボリ」をみつけた。
「ヨシノボリの小笠原固有種」とあり、水槽の表示では「オガサワラルリヨシノボリ」とされていた。
日本のヨシノボリは、『日本の淡水魚』(川那辺浩哉・水野信彦編・監修、山と渓谷社刊)によれば、現在9種類(シマヨシノボリ、クロヨシノボリ、オオヨシノボリ、ヒラヨシノボリ、ルリヨシノボリ、トウヨシノボリ、アヤヨシノボリ、キバラヨシノボリ、アオバラヨシノボリ)に整理されているという。
ぼくの子供の頃の、荒川や多摩川における遊び相手でもあった、5、6センチ程度のあのザッコの記憶が呼び戻されてきた。水槽の中には、分厚い唇のあたりからふっくらとした頬にかけて、ほのかに瑠璃色を帯びた6、7センチの大きめのヨシノボリが腹の吸盤をつかってピタリとガラスに張りついていた。暗い部屋の中で、明るく照明を浴びた水槽の前で、じっくりとこの小魚を眺めてみると、瑠璃色やアカ茶の縞模様がなんとも美しい。
●第1回の探索は失敗
むしょうに、本業の取材の合間をぬってでも、オガサワラの川に分け入って、オガサワラヨシノボリに対面してみたくなってきた。さっそく、小笠原水産センター研究員の木村ジョンソンさんから情報を聞き出す。
木村ジョンソンさんの子供の頃には、あちこちの川でいくらでも見ることができたという。さとうきび畑に分け入って、樹林に入りグァバやバナナを取りにいって、疲れるとほとりの小川にしゃがみこんで、ヌマエビ(3センチ程度のカワエビ)の身をちぎって、釣るのだという。釣り方が変わっていて、お母さんの髪の毛をもらってきて、30センチほどの長さの髪の毛の先に、そのヌマエビの肉を結わえ付けて、目の先に見えるヨシノボリを釣り上げる競争をするのだと、懐かしそうに話してくれた。
1998年2月第3回小笠原取材のことだったが、教えてもらった、二見港から自転車で15分ほど走った境浦という海岸に流れ込む名もないような小さな川の上流部にいるということだったので、ジャングルを分け入って調べてみたが、ヌマエビはいくらでもいたが、結局ヨシノボリは発見できず。小川のほとりにある境浦ファミリーというペンションのオーナーに聞いてみたが、「そんな魚はいない」とつれない返事。本命という、八瀬川に行く時間が取れず、第1回探索はヤッケがビリビリと破れる大損失を受けただけで、失敗に終わった。
木村ジョンソンさんから聞いた、何年か前に、島にやってきてオガサワラヨシノボリの採取調査を行っていった鈴木寿之さんと瀬能宏さんという研究者に連絡をとって、次の取材時に再挑戦してみることにした。東京に戻って、瀬能さんと鈴木さんに連絡を取ってみると、面白いことがわかってきた。
●魚とにらめっこをしてみよう
オガサワラルリヨシノボリ。6〜7センチの、とりたてて目立つ魚ではないが、小笠原水産センターの水槽で飼育されていた、この小魚を見つめていると、なかなか味わいのある色あいに見えてくる。頭部から腹部にかけての深い瑠璃色の体色。眼から鼻先にかけてのオレンジ色をした1対の細長い斑紋は、役者のクマドリのようだ。ハゼ科魚類に特長的な肉厚の唇は、瑠璃色が薄く透き通るような淡い色調となり、黄白色の腹部の吸盤状の機能で、石にピタリと貼りつき、じっとしている。正面から見ると、ぎょろっと目をむき、ふっくらとしたた頬の横の、団扇のような大きな鰭を盛んに動かす姿がなんともいえない味がある。
魚を正面から描く技法を編み出した、房総天津小湊の丸山隆一郎さんなら、どんな顔に描くのかと、ふと彼を思い出した。丸山さんは、「魚の気持ちを知りたいと思っていたら、このアングルになった」と話してくれた。それ以来、私は、魚を観察するときは、正面をむいてくれと望むようになり、他の生き物にもそんな目で見る癖がついてしまった。
あるとき、台所に出没するゴキブリとにらめっこをして、「いい顔だなあ」ともらしたら、家中から叱責をかってしまった。こんな魚顔観察癖の修練の故か、魚に顔をよせてじっと息をひそめていると、不思議と魚の方から関心を示してくれる。
●小笠原固有の新種としてレッドデータバンクに登録される
小笠原・父島は、面積で約平方キロで、ほぼ同じ緯度にある沖縄本島の約分の1。島の海岸線の長さは、約40キロ。さらに標高300メートル前後の山稜が南北に走り、川といっても源流から河口まで3キロに満たない川が2本、他は500メートル程度の流れしかない。
島の人に聞いても、この小魚について関心を示すことがないというのも、飲料水と耕作用水以外に、川と人とのつながりが薄いということからくるものだろう。トカゲはいるが、夏渇水となる小笠原には、湿潤な環境が必要な蛇は棲息していない。川といっても、わずかな流れと溜りが存在するだけの環境に棲むヨシノボリ。日本のガラパゴスともいわれる豊富な動植物の小笠原固有種のリストにさえ登場しない、こんなザコゆえに、島内ではほとんどデータらしきものは見つからなかった。
小笠原水産センターの木村ジョンソンさんから聞いた、鈴木寿之さんと、瀬能宏さんという魚類学研究者が調査にきたということを頼りに、東京に戻ると、二人に連絡をとってみた。瀬能さんは、神奈川県立生命の星・地球博物館の魚類担当研究員をされていて、日本産ヨシノボリの新しい種類としたレポートを書いた鈴木寿之さんを紹介してもらう。
兵庫県立尼崎北高校教員をしている鈴木さんに、手紙を出すと、すぐに、「小笠原諸島父島で得られたヨシノボリの1種―オガサワラヨシノボリ(新称) (予報)」と題する『兵庫県陸水生物』42号(1992年)掲載の論文を送ってくれた。
論文では、小笠原には1種類のヨシノボリが棲息し、前回ふれた9種類に整理されたどの日本産ヨシノボリとも異なる種類と結論付けていた。
1992年に、島内7川で2人が採集調査したヨシノボリの観察及び形態の研究によって、「このヨシノボリは色斑において上記9種のヨシノボリとは明らかに違っており、日本に分布する新たな種類」とある。小笠原水産センターで見た「オガサワラルリヨシノボリ」という名称に対して、「新称―オガサワラヨシノボリRhinogobius sp. B1(Bonin Island type)」と命名した。
●か細い流れが棲み家だった
それまで幾例かの報告はあったが、「小笠原産ヨシノボリの不明型」とあるのみで、鈴木論文が、初めての全島的な採集調査、他種との比較研究であった。論文は「予報」とあリ、「日本に分布する新たな種類として考えられた」と、新種としての可能性が高いということにとどめていたが、その後鈴木さんからメールをいただき、「その後、腹部の鱗を比較して、本州産ヨシノボリ類とは異なる特徴を持ち、また近似しているとしたクロヨシノボリとは産卵行動が異なることが解り、したがって独立種であることがはっきりとした」(2000年2月22日)ということを付記しておきたい。
論文中に多数棲息が確認されたとの記述を参考に、ホンモノをひと目みたさに私も探索に向かった。
10月の取材中の1日を使い、南西地域を水系とする島最大の八瀬川に出かけた。最大といっても、水源からの標高差約250メートル、流長約3キロの川だから、河口部こそ大ウナギが棲息する川幅5メートルはあるが、上流に向かうと、すぐ溝のような流れになってしまう。
二人は、この川の4箇所で採集しているが、とくに数が多いと指摘がある時雨ダム周辺をまず探索してみた。自転車でダムまで走り、あとは踏み跡を頼りに、ダムへと流れこむ時雨山北側の谷の細い流れ沿いに登った。分ほどで、観察適地の溜り水のある流れが出てきた。そっと近づき覗くと、確かにいた。岩に寝そべって、魚たちを眺めて、釣り道具屋で購入した小さなタモ網で、捕まえようとするが、うまくいかない。岩でせき止めて、プール溜りに追い込んでようやく2匹をゲット。
論文にある斑紋や体色の確認をしながら、頬の朱点や体側の縦列斑、尾ひれ付け根の八の字斑、尾ひれの4スジの縞模様などが確認できた。さらに、二人の未調査地点を探ろうと、一度戻り、最初に二股に分かれた八瀬川の別水系となる長谷堰堤の流れを調べてみることにした。
島一周の夜明道路を、扇浦海岸から小曲経由で登ると、地図に長谷と記された地区がある。闇夜に発光するグリーンペペというキノコ発生地が近くにあり、名前のない小さな橋下の流れを探ってみた。メートルほどの岩盤を流れるナメ滝となっていて、滝上下の溜りにたくさんのオガサワラヨシノボリが確認できた。あとで確認すると、渇水期の7〜8月でも流れは絶えることはないというが、こんな環境で、小笠原の固有種がはたしていつから棲み続けたのかという、不可思議さを感じた。
日本産マハゼが太平洋を渡りサンフランシスコ湾や、豪州のシドニー湾で繁殖し、船のバラスト海水中に潜み運ばれたらしいという記事を読んだことがある。他の陸地と一度も陸続きになったことがない、孤島小笠原の、わずか数キロの長さの川を棲み家にする小魚が、新種とするなら、どんな進化をたどってきたのか。小笠原固有動植物の研究報告は数多いが、新種の可能性が高いこの小魚に、これまでたいした関心を呼ばなかったというのも、思えば不思議である。
<「アクアネット」2000.1、2月号に初出>
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